スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

印象的な将棋⑬-3&哲学的伝統

2017-03-25 19:22:52 | ポカと妙手etc
 ⑬-2の第2図でも最善手は☗9一角成なのかもしれません。ですがそれは前にも指せたのに指さなかったのですから,より厳しくなっているここで指すのは変調です。☗7八金と上がったのは流れとしては一貫しているといえるでしょう。
                                     
 後手は☖4六飛☗同歩と飛車角交換を挑み☖3九角と打ち込みました。4筋と7筋の両方の突き捨てが最大限に生きる展開で,ここで後手が優位に立ったといえそうです。
 ☗2七飛と浮いたのは3段目に利かせて最も粘り強い指し方だったと思います。後手は当然☖7五角成。
 次に☖7六歩と打たれてはひどいので相手の打ちたいところに打ての☗7六歩は仕方なかったと思いますが,☖7七桂成☗同金寄に☖7六馬と打った歩を取られる展開になってしまいました。
                                     
 第2図は後手の勝勢に近いところまでいっていると思います。この後,先手にびっくりするような一手が飛び出しましたので,そこまでは紹介します。

 浅野がいっている理性ratioの行使と意志voluntasを切り離せないものとみる哲学的伝統とは,ごく単純にいえば,人間は意志作用volitioによって理性を行使することができるという意見opinioです。この場合,因果関係で示すなら,理性を行使しようとする意志作用が原因となって,結果として精神mensが理性を行使するということになるでしょう。たとえばデカルトの哲学では,理性を行使することによって欲望cupiditasを統御するということが倫理の第一規準になっています。このとき,理性の行使に主体の排除が貫徹されていたら,他面からいえば主体の意志によって理性を行使することが不可能とされていれば,この倫理の規準は成立しようがありません。つまりデカルトの哲学においても,意志作用が理性の原因となり得るということが前提されていると考えなければなりません。
 このようなデカルトの規準は,デカルトが近代哲学の父といわれる理由のひとつを示していると僕は思います。というのも,この種の見解というのは,現代においても一般的には主流な認識論であると僕には思えるからです。つまり浅野はスピノザが哲学的伝統に反したといっているのですが,スピノザの哲学が反しているのは,単に哲学的な伝統というよりも,現代における主流な見解に対しても同様であると僕は考えています。このためにスピノザの哲学における主体の排除を正しく理解することが,スピノザの哲学を正しく解釈するために重要な要素となると僕は考えているのです。
 スピノザは理性の行使に対して意志が原因となるということを否定しました。これは哲学的伝統ないしは現代においても主流な見解からすれば,意志あるいは意志作用自体をスピノザは否定したととらえられて不思議ではありません。しかし実際にはスピノザは,意志作用という思惟の様態cogitandi modiが存在するということ自体は肯定します。だからスピノザの認識論の特徴を,僕は主体の排除といい,意志あるいは意志作用の排除とはいわないのです。ただ,スピノザの哲学における意志そして意志作用は,主流な見方とは異なった思惟の様態であることは,ここまでの説明から自明でしょう。つまり意志あるいは意志作用とは何かが問題となります。
コメント
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