一昨日の第10期マイナビ女子オープン挑戦者決定戦。対戦成績は里見香奈女流名人が14勝,上田初美女流三段が4勝。
振駒で先手になった里見名人の三間飛車石田流に後手の上田三段が銀冠で対抗。ただこの将棋は後手の序盤戦術が拙かったために先手にリードを許し,そのまま終盤戦まで進むことになりました。勝ちきれば先手の快勝譜だったのですが,寄せに入ってからミスを連発したために逆転を許すことに。
後手の馬が8七にいた時点で☖4四歩と突いて馬筋を通したのに対し,先手が☗6五歩☖同馬☗6六歩と打って飛車の直通を遮断し,また後手が8七に馬を逃げたという局面。
飛車の成り込みが消えているのでここで☗3二金と取っていれば後手は☖同銀だと☗2四馬と引かれて5七のと金まで取られそうなので☖同馬と応ずるよりなく,そこで☗4一銀と打てば先手の勝ちでした。ところが☗5五金☖7四飛☗6五金と馬の利きを遮断することを優先。このために☖7九飛成とされて俄かに先手玉も危なくなりました。先手はそれから☗3二金と取って☖同玉。
先手はここで☗4三銀☖同玉と捨てて☗5二とと攻めたのですがこれが敗着。上部を押さえていた金を☖6五馬と取られて逆転しました。第2図では☗4二銀と打っておけば,きわどいながらも先手が残していたようです。
上田三段が挑戦者に。マイナビ女子オープンの五番勝負は第8期以来2年ぶり5度目の出場。第一局は来月11日です。
あるエピソードとして紹介したスピノザのケッテルリンフへの助言は,スぺイクによる創造であるどころか脚色すら加えられてない事実であると僕が考えるもうひとつの理由は,なぜンケッテルリンフがこの質問をスピノザに対してしたのかという点にあります。
僕はスピノザに対してスぺイクは敬愛の情を抱いていたし,尊敬の念も有していたと考えています。その理由はスピノザの日常生活が著しく敬虔pietasであったからと考えます。他面からいえば,スぺイクからはスピノザの日常生活がそうみえていたからと考えます。そうであるなら,スぺイクの妻としてスぺイクと同じようにスピノザの日常生活の目撃者であったケッテルリンフも,スピノザの生活をそうみていただろうと考えることができます。
このとき,スピノザがキリスト教に対する信仰心を有していたならば,厳密にいうとこれはルター派に対する信仰fidesを有していたならばという方がよいかもしれませんが,ケッテルリンフはスピノザはそのゆえに敬虔であり,幸福な生活を送っているのだと判断できた筈です。ですから自分の将来の幸福に対する不安metusというのを感じずにすんだことでしょう。ところが事実はそうでなく,信仰を有していないようにみえたスピノザが,敬虔かつ幸福な暮らしを送っているようにケッテルリンフにはみえたのです。そのゆえにケッテルリンフは信仰を有している自分の将来の幸福に対して疑問を感じ,このままルター派への信仰を続けていてよいものだろうかとスピノザに相談したのです。要するにケッテルリンフは,信仰をもたないスピノザの生活ぶりを目撃することによって,自分の信仰に対する疑問を抱くことになったのです。
したがってこのエピソードがスピノザとキリスト教との間の関係について何を示しているのかといえば,スピノザはキリスト教に対する信仰を有していなかったのだということなのです。そしてそれは事実です。スピノザはオルデンブルクHeinrich Ordenburgに宛てた書簡七十八において,イエスの復活についてはそれを比喩的に解するといっていて,それを字義通りに解さないのなら,キリスト教を真の意味で信仰していることにはならないであろうからです。
振駒で先手になった里見名人の三間飛車石田流に後手の上田三段が銀冠で対抗。ただこの将棋は後手の序盤戦術が拙かったために先手にリードを許し,そのまま終盤戦まで進むことになりました。勝ちきれば先手の快勝譜だったのですが,寄せに入ってからミスを連発したために逆転を許すことに。
後手の馬が8七にいた時点で☖4四歩と突いて馬筋を通したのに対し,先手が☗6五歩☖同馬☗6六歩と打って飛車の直通を遮断し,また後手が8七に馬を逃げたという局面。
飛車の成り込みが消えているのでここで☗3二金と取っていれば後手は☖同銀だと☗2四馬と引かれて5七のと金まで取られそうなので☖同馬と応ずるよりなく,そこで☗4一銀と打てば先手の勝ちでした。ところが☗5五金☖7四飛☗6五金と馬の利きを遮断することを優先。このために☖7九飛成とされて俄かに先手玉も危なくなりました。先手はそれから☗3二金と取って☖同玉。
先手はここで☗4三銀☖同玉と捨てて☗5二とと攻めたのですがこれが敗着。上部を押さえていた金を☖6五馬と取られて逆転しました。第2図では☗4二銀と打っておけば,きわどいながらも先手が残していたようです。
上田三段が挑戦者に。マイナビ女子オープンの五番勝負は第8期以来2年ぶり5度目の出場。第一局は来月11日です。
あるエピソードとして紹介したスピノザのケッテルリンフへの助言は,スぺイクによる創造であるどころか脚色すら加えられてない事実であると僕が考えるもうひとつの理由は,なぜンケッテルリンフがこの質問をスピノザに対してしたのかという点にあります。
僕はスピノザに対してスぺイクは敬愛の情を抱いていたし,尊敬の念も有していたと考えています。その理由はスピノザの日常生活が著しく敬虔pietasであったからと考えます。他面からいえば,スぺイクからはスピノザの日常生活がそうみえていたからと考えます。そうであるなら,スぺイクの妻としてスぺイクと同じようにスピノザの日常生活の目撃者であったケッテルリンフも,スピノザの生活をそうみていただろうと考えることができます。
このとき,スピノザがキリスト教に対する信仰心を有していたならば,厳密にいうとこれはルター派に対する信仰fidesを有していたならばという方がよいかもしれませんが,ケッテルリンフはスピノザはそのゆえに敬虔であり,幸福な生活を送っているのだと判断できた筈です。ですから自分の将来の幸福に対する不安metusというのを感じずにすんだことでしょう。ところが事実はそうでなく,信仰を有していないようにみえたスピノザが,敬虔かつ幸福な暮らしを送っているようにケッテルリンフにはみえたのです。そのゆえにケッテルリンフは信仰を有している自分の将来の幸福に対して疑問を感じ,このままルター派への信仰を続けていてよいものだろうかとスピノザに相談したのです。要するにケッテルリンフは,信仰をもたないスピノザの生活ぶりを目撃することによって,自分の信仰に対する疑問を抱くことになったのです。
したがってこのエピソードがスピノザとキリスト教との間の関係について何を示しているのかといえば,スピノザはキリスト教に対する信仰を有していなかったのだということなのです。そしてそれは事実です。スピノザはオルデンブルクHeinrich Ordenburgに宛てた書簡七十八において,イエスの復活についてはそれを比喩的に解するといっていて,それを字義通りに解さないのなら,キリスト教を真の意味で信仰していることにはならないであろうからです。