一昨日と昨日,有馬温泉で指された第63期王位戦七番勝負第三局。
豊島将之九段の先手で角換わり相腰掛銀。先手がそう誘導したような展開から,後手の藤井聡太王位が先攻する将棋になりました。
感想戦の内容からすると,勝敗の最大の分岐点は封じ手にあったようです。

実戦の封じ手は☗3八飛。先手は後手から第1図のように攻められた場合には☗3八飛は仕方がない手で,それでも十分に戦えると判断していたようです。ただ第1図では☗2九飛と引く手もあり,そちらを選択した方がよかったという結論になっています。
先手は定刻に封じ手を宣言したわけではなく,さらに6分ほど考えてから封じると宣言しました。十分に考えた末の封じ手であれば当初の判断から☗3八飛を封じ手にしたのは仕方がなかったかと思いますが,どこかで読みを打ち切ってのものであったら,悔いが残るところだったように思います。
藤井王位が勝って2勝1敗。第四局は来月15日と16日に指される予定です。
集団化された敬虔さが,その集団の平和paxという意味であるというように僕は解します。したがってスピノザの哲学における,この場合の哲学は政治学なども含めた意味での哲学ですが,そういった意味でのスピノザの哲学における平和とは,現実的に存在する人間の集団がひとつの個物res singularisとみなされる限りにおいて,その個物が敬虔pietasであるということを指すと僕は考えます。
このような集団には確かに戦争は欠如しているでしょう。ですがスピノザがいっている通り,それはその集団に戦争が欠如しているがゆえに平和といわれるのではありません。たとえばある特定の人間に政治的権力のすべてが委ねられるような国家Imperiumにおいては,その権力者自体が恐怖政治を行うことによって,戦争を欠如させることができるであろうからです。というか,そのようなことが可能であるとスピノザはみています。しかしそれは権力者の野蛮と臣民の隷属servitusによって得られる戦争の欠如なのであって,スピノザの哲学でいう平和と程遠い状態です。いい換えればそれは平和ではありません。この点において,戦争の欠如を平和とみなしたホッブズThomas Hobbesのことを,スピノザは批判しているのです。野蛮であること,そして隷属していることほど,敬虔と異なったことはないというのが,スピノザの主張です。
これでみれば分かるように,スピノザがいうような意味での平和というのは,容易に達成することができるような状態のことではありません。しかしそのことは,人類の歴史が証明しているといってもいいでしょう。確かに戦争の欠如という状態が長続きした人間集団というのは存在したでしょうし,これからも存在するでしょう。ですが,だからその集団が平和であったのか,あるいは平和であるといえるのかといえば,必ずしもそうはいえず,むしろ人類にとって平和というのは,きわめて稀な状態であるし,これからも稀な状態であることになるでしょう。
スピノザの政治論は,だからそのようにきわめて稀な状態を目指して論じられているといっていいかもしれません。敬虔の土台は平和の土台でもあるのですが,その土台を達成することすら,人間にとっては容易でないといえるからです。
豊島将之九段の先手で角換わり相腰掛銀。先手がそう誘導したような展開から,後手の藤井聡太王位が先攻する将棋になりました。
感想戦の内容からすると,勝敗の最大の分岐点は封じ手にあったようです。

実戦の封じ手は☗3八飛。先手は後手から第1図のように攻められた場合には☗3八飛は仕方がない手で,それでも十分に戦えると判断していたようです。ただ第1図では☗2九飛と引く手もあり,そちらを選択した方がよかったという結論になっています。
先手は定刻に封じ手を宣言したわけではなく,さらに6分ほど考えてから封じると宣言しました。十分に考えた末の封じ手であれば当初の判断から☗3八飛を封じ手にしたのは仕方がなかったかと思いますが,どこかで読みを打ち切ってのものであったら,悔いが残るところだったように思います。
藤井王位が勝って2勝1敗。第四局は来月15日と16日に指される予定です。
集団化された敬虔さが,その集団の平和paxという意味であるというように僕は解します。したがってスピノザの哲学における,この場合の哲学は政治学なども含めた意味での哲学ですが,そういった意味でのスピノザの哲学における平和とは,現実的に存在する人間の集団がひとつの個物res singularisとみなされる限りにおいて,その個物が敬虔pietasであるということを指すと僕は考えます。
このような集団には確かに戦争は欠如しているでしょう。ですがスピノザがいっている通り,それはその集団に戦争が欠如しているがゆえに平和といわれるのではありません。たとえばある特定の人間に政治的権力のすべてが委ねられるような国家Imperiumにおいては,その権力者自体が恐怖政治を行うことによって,戦争を欠如させることができるであろうからです。というか,そのようなことが可能であるとスピノザはみています。しかしそれは権力者の野蛮と臣民の隷属servitusによって得られる戦争の欠如なのであって,スピノザの哲学でいう平和と程遠い状態です。いい換えればそれは平和ではありません。この点において,戦争の欠如を平和とみなしたホッブズThomas Hobbesのことを,スピノザは批判しているのです。野蛮であること,そして隷属していることほど,敬虔と異なったことはないというのが,スピノザの主張です。
これでみれば分かるように,スピノザがいうような意味での平和というのは,容易に達成することができるような状態のことではありません。しかしそのことは,人類の歴史が証明しているといってもいいでしょう。確かに戦争の欠如という状態が長続きした人間集団というのは存在したでしょうし,これからも存在するでしょう。ですが,だからその集団が平和であったのか,あるいは平和であるといえるのかといえば,必ずしもそうはいえず,むしろ人類にとって平和というのは,きわめて稀な状態であるし,これからも稀な状態であることになるでしょう。
スピノザの政治論は,だからそのようにきわめて稀な状態を目指して論じられているといっていいかもしれません。敬虔の土台は平和の土台でもあるのですが,その土台を達成することすら,人間にとっては容易でないといえるからです。