日本時間で27日の深夜にイギリスのグッドウッド競馬場で行われたサセックスステークスGⅠ芝8ハロン。
バスラットレオンはジャンプするような発馬でしたが特に問題なく先頭に立ち逃げました。残り600m付近から後続の追い上げを待たずに追われ,一時的に後ろとの差は開きましたが,2頭にはっきりと差され,3着争い。その争いも差されて勝ち馬から約3馬身半差の4着でした。
逃げるのはこの馬の得意戦法。そういうレースをして,最後の600mもおそらく34秒台では走っていると思われますから,力は出し切っていると思います。この馬には相手関係が強すぎたということではないでしょうか。
第二部定理四九備考のビュリダンの驢馬に関連する部分の記述は,正しく理解するのが困難になっています。なぜかというと,スピノザはこの部分では,自説によってそれに対して反駁するというより,ビュリダンの驢馬が規定する条件に即して答えている面があるからです。なのでここからは,スピノザの哲学における内容と照合させる形で,この部分を精査していきます。
まず,飢えと渇き,そして等距離にある等しい食料だけを表象するimaginari驢馬は,等しい距離にある食料のいずれかを選択することができません。それは,その驢馬が飢えと渇きを癒すことができないということを意味します。したがってその驢馬はやがて死んでいくことになります。このとき,驢馬がいずれかの食料を選択することができないのは,驢馬には自由意志voluntas liberaがないからです。ここの部分が重要で,それは驢馬が驢馬であるがゆえに飢えと渇きによって死んでいくというわけではなく,驢馬には自由意志がないゆえに,飢えと渇きによって死んでいくのです。これがビュリダンの驢馬が示す条件です。したがってここでは驢馬に限定されていわれていますが,これは驢馬でなければならないということを意味しているわけではありません。驢馬が死んでいくのは驢馬には自由意志がないからなのですから,一般に自由意志がないものは,この条件,すなわち飢えと渇きと等距離にある食料だけを表象するという条件の下では,死んでいくといわなければならないのです。
このことのうち,スピノザの哲学によって共有される部分があるとすれば,驢馬には自由意志はないという点だけです。驢馬は自由意志がないためにこの条件の下には死んでいく,いい換えればいずれかの食料を選択することができないという点については,スピノザの哲学では否定されなければなりません。ただしなぜこのことが否定されなければならないのかということについては,後に詳しい説明を与えることにします。
次に,スピノザは人間に自由意志があるということを認めません。よって,ビュリダンの驢馬で示されているような条件が成立するなら,人間もいずれかの食料を選択できず,死んでいくことになります。
バスラットレオンはジャンプするような発馬でしたが特に問題なく先頭に立ち逃げました。残り600m付近から後続の追い上げを待たずに追われ,一時的に後ろとの差は開きましたが,2頭にはっきりと差され,3着争い。その争いも差されて勝ち馬から約3馬身半差の4着でした。
逃げるのはこの馬の得意戦法。そういうレースをして,最後の600mもおそらく34秒台では走っていると思われますから,力は出し切っていると思います。この馬には相手関係が強すぎたということではないでしょうか。
第二部定理四九備考のビュリダンの驢馬に関連する部分の記述は,正しく理解するのが困難になっています。なぜかというと,スピノザはこの部分では,自説によってそれに対して反駁するというより,ビュリダンの驢馬が規定する条件に即して答えている面があるからです。なのでここからは,スピノザの哲学における内容と照合させる形で,この部分を精査していきます。
まず,飢えと渇き,そして等距離にある等しい食料だけを表象するimaginari驢馬は,等しい距離にある食料のいずれかを選択することができません。それは,その驢馬が飢えと渇きを癒すことができないということを意味します。したがってその驢馬はやがて死んでいくことになります。このとき,驢馬がいずれかの食料を選択することができないのは,驢馬には自由意志voluntas liberaがないからです。ここの部分が重要で,それは驢馬が驢馬であるがゆえに飢えと渇きによって死んでいくというわけではなく,驢馬には自由意志がないゆえに,飢えと渇きによって死んでいくのです。これがビュリダンの驢馬が示す条件です。したがってここでは驢馬に限定されていわれていますが,これは驢馬でなければならないということを意味しているわけではありません。驢馬が死んでいくのは驢馬には自由意志がないからなのですから,一般に自由意志がないものは,この条件,すなわち飢えと渇きと等距離にある食料だけを表象するという条件の下では,死んでいくといわなければならないのです。
このことのうち,スピノザの哲学によって共有される部分があるとすれば,驢馬には自由意志はないという点だけです。驢馬は自由意志がないためにこの条件の下には死んでいく,いい換えればいずれかの食料を選択することができないという点については,スピノザの哲学では否定されなければなりません。ただしなぜこのことが否定されなければならないのかということについては,後に詳しい説明を与えることにします。
次に,スピノザは人間に自由意志があるということを認めません。よって,ビュリダンの驢馬で示されているような条件が成立するなら,人間もいずれかの食料を選択できず,死んでいくことになります。