スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

九十九島賞争奪戦&本来的自由

2022-07-26 19:13:00 | 競輪
 佐世保記念の決勝。郡司が欠場となって8車。並びは守沢‐和田圭の北日本,中川‐山田‐井上の九州で杉森と郡司をマークする予定だった和田健太郎と伊藤は単騎。
 井上がスタートを取って中川の前受け。4番手は内に守沢,外に和田健太郎で併走。守沢マークの和田圭の後ろに伊藤で最後尾が杉本という隊列で周回。残り2周のホームの出口から,守沢の外を併走していた和田健太郎が上昇。中川の前に出ました。バックからまた中川が巻き返して打鐘。井上までの3人の後ろに和田健太郎。5番手に守沢,6番手に伊藤,最後尾に杉森の一列棒状に。ホームから伊藤が発進。伊藤の上昇に合わせるように守沢も発進して伊藤は不発。バックで守沢が井上の横あたりまで上がってくると山田が番手発進。井上が進路を失ってしまい,山田に守沢がスイッチ。しかし山田は守沢を寄せ付けずに優勝。続いた守沢が4分の3車身差の2着で守沢マークの和田圭が1車身半差で3着。
 優勝した佐賀の山田庸平選手は先月の別府のFⅠ以来の優勝。記念競輪は初制覇。このレースは3人で結束した九州ラインを郡司が捲れるかどうかが焦点だったのですが,その郡司が欠場となりましたので,先行1車で3人が結束する九州ラインが圧倒的に有利になりました。その点では無風で番手を回った山田の優勝は順当な結果といえるでしょう。ただラインでの結束ということを考えれば,もう少し早く,井上が山田に続くことができる段階で番手捲りを敢行してしまうという手もあったかと思います。

 スピノザは意志volitioの自由libertasが存在することは認めませんでした。それはたとえば人間のような,現実的に存在する個物res singularisには意志の自由は存在しないという意味ではなく,神Deusにも自由意志voluntas liberaが存在するということを認めなかったのです。しかし,だから一般に自由が存在しないとはいわず,意志の自由とは異なった自由が存在すると主張したのです。第一部定義七は,こうした主張の産物です。
                                   
 しかしここで注意しなければならないのは,スピノザは自由は存在するといったのですが,人間に自由があるとは主張しなかったのです。つまり自由であるのは実体substantiaである神だけであって,人間のような個物あるいは様態modiは,本来的な意味では自由ではないのです。このことは定義Definitioそのものから明白であるといっていいでしょう。もしも人間が自由であるというのであれば,現実的にある人間が存在するときに,その人間はその人間自身の本性essentiaによって存在existentiaなり行動なりに決定されるのでなければなりません。しかしそれをいうのは無理があるということは,僕たちが人間として現実的に存在していることから経験的に明らかであるといわなければなりません。このことは人間だけでなく,第四部公理によって,現実的に存在するすべての個物に妥当することになります。すなわち,現実的に存在する個物は,本来的には自由ではないのです。
 この点だけでみれば,スピノザは積極的自由論者ではないばかりか,いかなる意味でも自由論者ではないということになるでしょう。この点については浅野はこのこと自体を肯定できないと解釈できるような文脈で説明していますが,僕はこのこと自体はそうであるといわなければならないだろうと考えます。確かに人間は本来的な意味では自由ではないというのは,人間に対して自由を論じるならば,本来的な意味とは異なったところで論じなければならないという意味ではあります。僕はそのときに,人間は本来的には自由ではないという点を重視するべきであると考えるので,スピノザはいかなる意味でも自由論者ではないというべきだと思います。しかし浅野がいうように,だから人間について自由を論じることができないというわけではありません。
コメント
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