『夏目漱石『こころ』をどう読むか』の荻上チキのエッセーでは,ゲートキーパーという観点から『こころ』が論評されているのですが,その中でウェルテル効果というものに言及されています。これも僕は初めて知った用語なので,ここで説明しておきます。
ウェルテルはいうまでもなくゲーテの『若きウェルテルの悩み』の主人公であるウェルテルを指します。この小説の結末でウェルテルは自殺してしまうのですが,これが発表された当初,この小説を読んだ人が自殺するという事象が多発しました。この事例にちなみ,自殺に関する報道が連鎖すると,自殺する人も連鎖するという事象が,ウェルテル効果といわれるようになりました。これは『こころ』でいわれている殉死とは異なり,自殺という出口を強烈に意識することによって生じる自殺なのですが,実際にこのような効果があるということは,実証的に分析されています。現在は自殺の記事には悩んでいる人に対する対策の窓口が紹介されるケースが多くなっていますが,これはWHOが世界の報道機関に対して出しているガイドラインに沿ったものです。つまりウェルテル効果というのは世界的な問題であると認識されているのです。
先生は殉死という語を使っているのですが,この自殺にはウェルテル効果があったのだと荻上は指摘しています。先生の自殺は明治天皇が死んだことによるものではなく,乃木大将の殉死に触発されたものですが,先生はそのことを新聞の報道によって知りました。そしてその記事を読んだ数日後に,自身も自殺する決心をしているのです。この部分から荻上は,先生の自殺は明治天皇の死や乃木大将の殉死そのものが理由なのではなく,天皇の死および乃木の殉死の報道の方が理由であったのだと解しています。つまり乃木の殉死に感銘を受けたというよりは,報道に触発された気分の方が大きな理由だったとみているのです。
この解釈の正当性については僕は何もいいません。ただ,自殺の報道が凶器になり得るということが『こころ』には仄めかされているという荻上の指摘は,正しいものだと思います。
永遠真理創造説と連続創造説を採用することで,デカルトRené Descartesがいう神Deusは主意主義的な神になったのだと吉田は指摘しています。このことはここまでの論述から明らかだと思われますが,もう少し具体的な説明を施しておきましょう。
デカルトは神が全知全能であるということを肯定します。このことはキリスト教やユダヤ教においても同等ですし,一般的にいっても神はそのようなものでなければならないでしょう。ただ,全知全能といっても,全知の部分に主軸を置くのか,全能の部分に主軸を置くのかによって,見方は変わってくることになります。もし神が全知であるとするなら,分かっていて不条理なことを神はなさないということになります。したがっていくら神は全能であるとはいっても,できないことはあるとか,少なくともそもそもやろうとしないことがあるという結論になります。これは主知主義的な理解といえるでしょう。これに対して,全能の方に重点を置くとすれば,神はその気になれば何であってもできるのであって,ある事柄を不条理だと結論するのはあくまでも人間的な結論であって,神の意志voluntasを人間の知性intellectusで測ろうとしているにすぎないということになるでしょう。こちらは主意主義的な理解であることになります。
これでみれば分かるように,デカルトは明らかに主意主義的に神を理解したことになります。というか,デカルトのように,神に自由意志voluntas liberaを認めて,神がその自由意志によって世界を創造した上で,かつその自由意志によって現にある世界を別の世界にすることもできるというように解するのであれば,それはそもそも主意主義的に神を解しているのであって,そのように神を解する以上は,永遠真理創造説および連続創造説を採用せざるを得なかったというようにみる方が正しいと僕は考えます。要するに,デカルトはそもそも主意主義的に神を解していたのであって,それを論理的に成立させるために,永遠真理創造説と連続創造説を採用するに至ったと僕は考えます。なので,永遠真理創造説とか連続創造説というのは,積極的に主張されるような説ではなく,神を主意主義的なものと成立させるための手段であったと僕はみます。
ウェルテルはいうまでもなくゲーテの『若きウェルテルの悩み』の主人公であるウェルテルを指します。この小説の結末でウェルテルは自殺してしまうのですが,これが発表された当初,この小説を読んだ人が自殺するという事象が多発しました。この事例にちなみ,自殺に関する報道が連鎖すると,自殺する人も連鎖するという事象が,ウェルテル効果といわれるようになりました。これは『こころ』でいわれている殉死とは異なり,自殺という出口を強烈に意識することによって生じる自殺なのですが,実際にこのような効果があるということは,実証的に分析されています。現在は自殺の記事には悩んでいる人に対する対策の窓口が紹介されるケースが多くなっていますが,これはWHOが世界の報道機関に対して出しているガイドラインに沿ったものです。つまりウェルテル効果というのは世界的な問題であると認識されているのです。
先生は殉死という語を使っているのですが,この自殺にはウェルテル効果があったのだと荻上は指摘しています。先生の自殺は明治天皇が死んだことによるものではなく,乃木大将の殉死に触発されたものですが,先生はそのことを新聞の報道によって知りました。そしてその記事を読んだ数日後に,自身も自殺する決心をしているのです。この部分から荻上は,先生の自殺は明治天皇の死や乃木大将の殉死そのものが理由なのではなく,天皇の死および乃木の殉死の報道の方が理由であったのだと解しています。つまり乃木の殉死に感銘を受けたというよりは,報道に触発された気分の方が大きな理由だったとみているのです。
この解釈の正当性については僕は何もいいません。ただ,自殺の報道が凶器になり得るということが『こころ』には仄めかされているという荻上の指摘は,正しいものだと思います。
永遠真理創造説と連続創造説を採用することで,デカルトRené Descartesがいう神Deusは主意主義的な神になったのだと吉田は指摘しています。このことはここまでの論述から明らかだと思われますが,もう少し具体的な説明を施しておきましょう。
デカルトは神が全知全能であるということを肯定します。このことはキリスト教やユダヤ教においても同等ですし,一般的にいっても神はそのようなものでなければならないでしょう。ただ,全知全能といっても,全知の部分に主軸を置くのか,全能の部分に主軸を置くのかによって,見方は変わってくることになります。もし神が全知であるとするなら,分かっていて不条理なことを神はなさないということになります。したがっていくら神は全能であるとはいっても,できないことはあるとか,少なくともそもそもやろうとしないことがあるという結論になります。これは主知主義的な理解といえるでしょう。これに対して,全能の方に重点を置くとすれば,神はその気になれば何であってもできるのであって,ある事柄を不条理だと結論するのはあくまでも人間的な結論であって,神の意志voluntasを人間の知性intellectusで測ろうとしているにすぎないということになるでしょう。こちらは主意主義的な理解であることになります。
これでみれば分かるように,デカルトは明らかに主意主義的に神を理解したことになります。というか,デカルトのように,神に自由意志voluntas liberaを認めて,神がその自由意志によって世界を創造した上で,かつその自由意志によって現にある世界を別の世界にすることもできるというように解するのであれば,それはそもそも主意主義的に神を解しているのであって,そのように神を解する以上は,永遠真理創造説および連続創造説を採用せざるを得なかったというようにみる方が正しいと僕は考えます。要するに,デカルトはそもそも主意主義的に神を解していたのであって,それを論理的に成立させるために,永遠真理創造説と連続創造説を採用するに至ったと僕は考えます。なので,永遠真理創造説とか連続創造説というのは,積極的に主張されるような説ではなく,神を主意主義的なものと成立させるための手段であったと僕はみます。
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