スピノザはライデンに近いからレインスブルフRijnsburgに住むようになったというのが『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』での結論になっています。当時,ライデン大学ではデカルトRené Descartesの哲学に詳しい教授が講義していました。スピノザはそれを聴講するためレインスブルフに移住したというのがナドラーSteven Nadlerの考え方です。
スピノザが実際に聴講したことは史実として確定はできないようです。ただ僕は,ナドラーの考えを否定はしません。スピノザがデカルトに興味を有していたことは間違いありません。だから講義を受講できる機会があれば喜んでそうしたでしょう。あるいは講義を担当する教授と話をすることができる機会があった場合にも,同じようにしたと思うのです。なのでこのことがレインスブルフへの移住を決断させたひとつの契機になり得ると僕は考えます。
一方,僕がナドラーの見解に不満を有するのは,レインスブルフがコレギアント派collegiantenの拠点であったことについて,過小に評価し過ぎていると感じられる点です。
ナドラーによれば,1660年前後には,コレギアント派はオランダの各地に散らばっていて,レインスブルフで会合が行われるのは年に2回にすぎませんでした。僕はこれは事実として認めてもいいです。ファン・ローンJoanis van Loonもライデンでスピノザと再会する以前に,アムステルダムAmsterdamで会合するコレギアント派を見聞きしたと書いています。スピノザがアウデルケルクAwerkerkでコレギアント派の人びとと出会ったということも,ナドラーの見解を肯定する要素になるでしょう。
『スピノザの生涯と精神Die Lebensgeschichte Spinoza in Quellenschriften, Uikunden und nichtamtliche Nachrichten』の中の「オランダ旅行記」の中で,ハルマンがレインスブルフでコレギアント派が年に2回の公開礼拝を行ったと記述しています。僕がナドラーの過小評価を感じるのはこの部分です。ハルマンはこの公開礼拝のときには,オランダ各地から700人以上のコレギアント派が集まったと書いているからです。これはレインスブルフでの集会が年に2回だけであったとしても,依然としてコレギアント派の拠点であったことの何よりの証明と僕には思えるからです。なので僕は1660年前後も,レインスブルフはコレギアント派の拠点であったと判断します。
スピノザが実際に聴講したことは史実として確定はできないようです。ただ僕は,ナドラーの考えを否定はしません。スピノザがデカルトに興味を有していたことは間違いありません。だから講義を受講できる機会があれば喜んでそうしたでしょう。あるいは講義を担当する教授と話をすることができる機会があった場合にも,同じようにしたと思うのです。なのでこのことがレインスブルフへの移住を決断させたひとつの契機になり得ると僕は考えます。
一方,僕がナドラーの見解に不満を有するのは,レインスブルフがコレギアント派collegiantenの拠点であったことについて,過小に評価し過ぎていると感じられる点です。
ナドラーによれば,1660年前後には,コレギアント派はオランダの各地に散らばっていて,レインスブルフで会合が行われるのは年に2回にすぎませんでした。僕はこれは事実として認めてもいいです。ファン・ローンJoanis van Loonもライデンでスピノザと再会する以前に,アムステルダムAmsterdamで会合するコレギアント派を見聞きしたと書いています。スピノザがアウデルケルクAwerkerkでコレギアント派の人びとと出会ったということも,ナドラーの見解を肯定する要素になるでしょう。
『スピノザの生涯と精神Die Lebensgeschichte Spinoza in Quellenschriften, Uikunden und nichtamtliche Nachrichten』の中の「オランダ旅行記」の中で,ハルマンがレインスブルフでコレギアント派が年に2回の公開礼拝を行ったと記述しています。僕がナドラーの過小評価を感じるのはこの部分です。ハルマンはこの公開礼拝のときには,オランダ各地から700人以上のコレギアント派が集まったと書いているからです。これはレインスブルフでの集会が年に2回だけであったとしても,依然としてコレギアント派の拠点であったことの何よりの証明と僕には思えるからです。なので僕は1660年前後も,レインスブルフはコレギアント派の拠点であったと判断します。
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