釧路で指された第56期王位戦七番勝負第三局。広瀬章人八段の先手。角換りかと思いましたが羽生善治王位は横歩取りへ。△8五飛で△4一玉。先手は▲6八銀型の中原囲い。2筋と8筋が薄いので,後手がそこに手をつけて開戦。終盤は後手が受けに回って切らせるか,攻め合いを目指すかの二拓に。選択肢があった分だけ途中は後手の方がよかったものと思います。
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2九の飛車が逃げたところ。△8八桂成で攻め合いを目指しました。これがよくなかったかもしれません。
▲2五歩のとき△3六飛とするのは攻め合いを目指したのだから当然と思います。▲2三桂成△同王▲2四歩△3ニ王▲2三歩成△4三王まで決めて▲3六歩と取りました。
この手は詰めろ逃れの詰めろ。しかしそれよりも,3七の歩が動いたことで2七の飛車が横に利いたのが大きかったのではないでしょうか。
△7八角▲5九玉△4八銀▲同銀△5六角成。
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これで後手玉が詰まなくなったので普通は後手の勝ちなのですが▲6一角△5ニ桂の後,▲5八飛と打つ手がありました。
ここで△6七銀と打ったのですが,▲同飛と取れる形。△同馬はこの一手。以下▲5三桂成△同銀▲同飛成△同王▲5四歩△4三王▲5二角成△同王▲5三銀△同金▲同歩成△同王▲5四歩。
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このあたりは観戦していましたが,▲5三銀と打ったところでは後手玉は詰んだのではないかと思いました。
広瀬八段が勝って1勝2敗。第四局は18日と19日です。
オルデンブルクからの『スピノザ往復書簡集』書簡一では,レインスブルフのヘルマン・ホーマンの家に下宿していたスピノザとオルデンブルクが会ったことになっています。書簡の日付は新暦だと1661年8月26日。オルデンブルクはこないだスピノザを訪ねたとしているので,この年の6月か7月のことではなかったかと思います。
このときオルデンブルクはロンドンからドイツとオランダを訪問しています。おそらく自然科学と哲学関係のニュースの収集が目的であったと思われます。オランダでは,この時点ではハーグにいたホイヘンスを訪問するのが主たる目的であったと『ある哲学者の人生』ではされています。
1661年といえば,『神学・政治論』はもとより,『デカルトの哲学原理』も出版される前です。なので普通に考えたなら,ロンドンを出発するときのオルデンブルクは,スピノザのことを知らなかったとするのが妥当です。なのにオルデンブルクがスピノザを訪問したとすれば,それはオランダに到着してからスピノザの名声を聞き及んだからだとしか考えられません。つまりこの場合には,1661年の時点で,少なくともスピノザはオランダでは有名だったし,それもオルデンブルクが会ってみようと思うような内容の名声を獲得していたことになります。
ただし違った事情も考えら得るのです。オルデンブルクからの書簡十四では,『デカルトの哲学原理』を送るように依頼しています。そのときにオルデンブルクは,アムステルダムに住んでいるピーテル・セラリウスに送れば,セラリウスが自分の下に運んでくれるという主旨のことをいっています。アムステルダム在住のイギリス人で,両国をしばしば行き来していたようです。
セラリウスはコレギアント派で,スピノザの知り合いであったようなのです。しかもセラリウスはメナセ・ベン・イスラエルと親しかったそうで,ナドラーはメナセを介してセラリウスはスピノザと知り合った可能性もあるとしています。もしそうならこれは破門より前,1656年以前でしょう。だからオルデンブルクは,セラリウスを通じてスピノザを知っていた可能性もあるのです。
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2九の飛車が逃げたところ。△8八桂成で攻め合いを目指しました。これがよくなかったかもしれません。
▲2五歩のとき△3六飛とするのは攻め合いを目指したのだから当然と思います。▲2三桂成△同王▲2四歩△3ニ王▲2三歩成△4三王まで決めて▲3六歩と取りました。
この手は詰めろ逃れの詰めろ。しかしそれよりも,3七の歩が動いたことで2七の飛車が横に利いたのが大きかったのではないでしょうか。
△7八角▲5九玉△4八銀▲同銀△5六角成。
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これで後手玉が詰まなくなったので普通は後手の勝ちなのですが▲6一角△5ニ桂の後,▲5八飛と打つ手がありました。
ここで△6七銀と打ったのですが,▲同飛と取れる形。△同馬はこの一手。以下▲5三桂成△同銀▲同飛成△同王▲5四歩△4三王▲5二角成△同王▲5三銀△同金▲同歩成△同王▲5四歩。
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このあたりは観戦していましたが,▲5三銀と打ったところでは後手玉は詰んだのではないかと思いました。
広瀬八段が勝って1勝2敗。第四局は18日と19日です。
オルデンブルクからの『スピノザ往復書簡集』書簡一では,レインスブルフのヘルマン・ホーマンの家に下宿していたスピノザとオルデンブルクが会ったことになっています。書簡の日付は新暦だと1661年8月26日。オルデンブルクはこないだスピノザを訪ねたとしているので,この年の6月か7月のことではなかったかと思います。
このときオルデンブルクはロンドンからドイツとオランダを訪問しています。おそらく自然科学と哲学関係のニュースの収集が目的であったと思われます。オランダでは,この時点ではハーグにいたホイヘンスを訪問するのが主たる目的であったと『ある哲学者の人生』ではされています。
1661年といえば,『神学・政治論』はもとより,『デカルトの哲学原理』も出版される前です。なので普通に考えたなら,ロンドンを出発するときのオルデンブルクは,スピノザのことを知らなかったとするのが妥当です。なのにオルデンブルクがスピノザを訪問したとすれば,それはオランダに到着してからスピノザの名声を聞き及んだからだとしか考えられません。つまりこの場合には,1661年の時点で,少なくともスピノザはオランダでは有名だったし,それもオルデンブルクが会ってみようと思うような内容の名声を獲得していたことになります。
ただし違った事情も考えら得るのです。オルデンブルクからの書簡十四では,『デカルトの哲学原理』を送るように依頼しています。そのときにオルデンブルクは,アムステルダムに住んでいるピーテル・セラリウスに送れば,セラリウスが自分の下に運んでくれるという主旨のことをいっています。アムステルダム在住のイギリス人で,両国をしばしば行き来していたようです。
セラリウスはコレギアント派で,スピノザの知り合いであったようなのです。しかもセラリウスはメナセ・ベン・イスラエルと親しかったそうで,ナドラーはメナセを介してセラリウスはスピノザと知り合った可能性もあるとしています。もしそうならこれは破門より前,1656年以前でしょう。だからオルデンブルクは,セラリウスを通じてスピノザを知っていた可能性もあるのです。
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