GⅠから中3日で開催された福井記念の決勝。並びは早坂-大槻-明田の北日本,森川-柴崎の中部,脇本-稲垣-伊藤の近畿で岩津は単騎。
スタートを取った森川の前受け。3番手に早坂,6番手に脇本,最後尾に岩津で周回。結果的に岩津は近畿を追走のレースに終始しました。残り3周のバックの出口から脇本が上昇を開始。ホームでは早坂を牽制しつつ,バックでゆっくりと森川を叩いて打鐘。すぐに早坂が巻き返しに出て,ホームでは脇本を叩き返し,北日本ラインの先行に。後方になった森川はバックから発進したものの,稲垣に牽制されて出られず。脇本は最終コーナーの入口から発進。逃げた早坂,番手の大槻,捲り追い込みになった脇本の3人が折り重なるようにゴール。何とか前を捕えた脇本の優勝。8分の1車輪差の2着に大槻。半車輪差の3着に早坂。
優勝した福井の脇本雄太選手は昨年の福井記念以来1年ぶりの記念競輪4勝目。福井記念は連覇で2勝目。ここは前を回った3人の中では力量上位と思われ,最有力と考えていました。ただしレースの内容では早坂に完敗で,かなり苦しい展開に。それを逆転したのは力がなせる業であったといえます。早坂も力をつけているのは確かでしょうが,もう少し内容面が充実していないと上位で戦っていくには厳しいのではないかという印象があります。期待している選手であるだけに,優勝しても少しばかりの不満が残りました。
パリでチルンハウスEhrenfried Walther von TschirnhausはライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに出会い,『エチカ』の草稿の内容を何らかの形で教え,レーウェンフックAntoni von Leeuwenhookの顕微鏡観察の発見に関するニュースも伝えたことになります。チルンハウスからスピノザへの書簡で『スピノザ往復書簡集Epistolae』に収録されているのは,1676年6月23日付で,パリ発になっています。スピノザはこの後,11月にライプニッツの訪問を受け,翌年の2月に死んでいます。だからチルンハウスとスピノザは,この後は会っていない筈です。チルンハウスからスピノザへの書簡は,直接のものであれシュラーGeorg Hermann Schullerを介したものであれ,レーウェンフックには触れていません。なのでチルンハウスがスピノザにレーウェンフックに関して何かを教えたことはなかったと思います。ただ,ライプニッツにそのニュースを伝えたということは,何かそこに意味を見出したからだと思われます。機会があればスピノザに伝えたかもしれません。
一方,スピノザとライプニッツが面会する直前に,ライプニッツがレーウェンフックを訪ねたことにも,何らかの意味があったかもしれません。というのもスピノザと会見する前のライプニッツの行動というのは,すでに示唆したように,その会見のための準備という意味合いが大きかったと思われるからです。ですからライプニッツが単に有名な人物であるからという理由だけでレーウェンフックに面会したということは考えづらいのです。僕は少なくとも,ライプニッツは何らかの哲学的意図があって,レーウェンフックにも会ったのだと思っています。ただしそれがスピノザの哲学に直接的に結び付くのかどうかは分かりません。宮廷人であったライプニッツは,スピノザの哲学の中には自身が対決しなければならない部分があるということをすでに自覚していたと僕は理解します。レーウェンフックの発見は,その対決のための補助になるというようにライプニッツが考えたという可能性も否定できません。
ライプニッツはかなり短期間でレーウェンフックとスピノザの両者と会ったことになりますが,関係をとりもつ存在ではあり得ません。ただこの時間の近さに,まったく意味がないともいいきれません。
スタートを取った森川の前受け。3番手に早坂,6番手に脇本,最後尾に岩津で周回。結果的に岩津は近畿を追走のレースに終始しました。残り3周のバックの出口から脇本が上昇を開始。ホームでは早坂を牽制しつつ,バックでゆっくりと森川を叩いて打鐘。すぐに早坂が巻き返しに出て,ホームでは脇本を叩き返し,北日本ラインの先行に。後方になった森川はバックから発進したものの,稲垣に牽制されて出られず。脇本は最終コーナーの入口から発進。逃げた早坂,番手の大槻,捲り追い込みになった脇本の3人が折り重なるようにゴール。何とか前を捕えた脇本の優勝。8分の1車輪差の2着に大槻。半車輪差の3着に早坂。
優勝した福井の脇本雄太選手は昨年の福井記念以来1年ぶりの記念競輪4勝目。福井記念は連覇で2勝目。ここは前を回った3人の中では力量上位と思われ,最有力と考えていました。ただしレースの内容では早坂に完敗で,かなり苦しい展開に。それを逆転したのは力がなせる業であったといえます。早坂も力をつけているのは確かでしょうが,もう少し内容面が充実していないと上位で戦っていくには厳しいのではないかという印象があります。期待している選手であるだけに,優勝しても少しばかりの不満が残りました。
パリでチルンハウスEhrenfried Walther von TschirnhausはライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに出会い,『エチカ』の草稿の内容を何らかの形で教え,レーウェンフックAntoni von Leeuwenhookの顕微鏡観察の発見に関するニュースも伝えたことになります。チルンハウスからスピノザへの書簡で『スピノザ往復書簡集Epistolae』に収録されているのは,1676年6月23日付で,パリ発になっています。スピノザはこの後,11月にライプニッツの訪問を受け,翌年の2月に死んでいます。だからチルンハウスとスピノザは,この後は会っていない筈です。チルンハウスからスピノザへの書簡は,直接のものであれシュラーGeorg Hermann Schullerを介したものであれ,レーウェンフックには触れていません。なのでチルンハウスがスピノザにレーウェンフックに関して何かを教えたことはなかったと思います。ただ,ライプニッツにそのニュースを伝えたということは,何かそこに意味を見出したからだと思われます。機会があればスピノザに伝えたかもしれません。
一方,スピノザとライプニッツが面会する直前に,ライプニッツがレーウェンフックを訪ねたことにも,何らかの意味があったかもしれません。というのもスピノザと会見する前のライプニッツの行動というのは,すでに示唆したように,その会見のための準備という意味合いが大きかったと思われるからです。ですからライプニッツが単に有名な人物であるからという理由だけでレーウェンフックに面会したということは考えづらいのです。僕は少なくとも,ライプニッツは何らかの哲学的意図があって,レーウェンフックにも会ったのだと思っています。ただしそれがスピノザの哲学に直接的に結び付くのかどうかは分かりません。宮廷人であったライプニッツは,スピノザの哲学の中には自身が対決しなければならない部分があるということをすでに自覚していたと僕は理解します。レーウェンフックの発見は,その対決のための補助になるというようにライプニッツが考えたという可能性も否定できません。
ライプニッツはかなり短期間でレーウェンフックとスピノザの両者と会ったことになりますが,関係をとりもつ存在ではあり得ません。ただこの時間の近さに,まったく意味がないともいいきれません。
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