松阪競輪場で行われた昨日のザ・レオニズカップの決勝。並びは長島‐芦沢の栃木茨城に海老根‐中村の千葉,西村‐笠松の中部,塚本‐堤の西国で伏見は単騎。
笠松と芦沢がスタートを取りにいき,内の笠松が誘導の後ろを確保し,西村の前受け。3番手に長島,7番手に伏見。塚本は道中から長島の外に張り付き,併走での周回になりました。残り3周のホームに入って塚本の内で併走していた長島が引いたので,3番手に塚本,5番手に長島,最後尾に伏見の一列棒状になりました。残り2周のホームに戻って長島が上昇。誘導が外れて西村が突っ張りました。伏見が内から上昇していったので,西村の後ろで伏見,こちらも動いた塚本,西村マークの笠松の3人が併走。塚本マークの堤を挟んで長島という隊列になって打鐘。ここから長島が再び発進。ホームで西村を叩くと海老根までの3人が出きりました。後ろから自力を使う選手がいなかったのでこのまま3人の争いに。番手から差した芦沢が優勝。逃げた長島が半車輪差の2着。海老根が1車身半差の3着でこのラインの上位独占。
優勝した茨城の芦沢辰弘選手はGⅢ初優勝。このレースは長島の先行1車。なので西村や塚本が長島の番手を狙う動きがあってもおかしくありませんでした。長島としてはそういう展開にした方が自分の優勝は狙いやすかったと思うのですが,番手の芦沢にも配慮したような先行になり,芦沢が無風で番手を回ることに。その分だけ芦沢の差しが上回ることになったといえるでしょう。ラインのことを考えて先行するのは悪くないと思いますが,先行1車ですから長島に対してはやや物足りなさも感じるような結果でした。
僕は自然状態status naturalisは,人類史上に存在したことはないと考えています。したがって,『国家論Tractatus Politicus』の当該部分の解釈として,スピノザも自然状態を空想的な状態であると考えているというように理解するのは,牽強付会であると思われるかもしれません。確かに文脈上は,スピノザは自然状態における自然権jus naturaeは空想的なものであるといっているのであって,自然状態についてそのようにいっているわけではないからです。しかし吉田もまた,この部分を僕と同じように解釈しています。ですから確かにこの部分を僕がいったように解釈する余地があるといえるのです。この点に関する吉田の検討をみていきます。
スピノザは自然状態を自然権を通して規定しています。ところがその自然権が,自然状態においてはないも同然であるとスピノザは断言しています。一方でスピノザは,第三部定理七を通して自然権を規定しているのです。この定理Propositioは前もっていっておいたように現実的に存在するすべての個物res singularisに妥当する定理です。よって人間が現実的に存在するなら,必ず妥当する定理であるといわなければなりません。これはつまり,人間が自然状態において現実的に存在していようと,共同社会状態status civilisにおいて現実的に存在していようと,同じように必ず妥当するということを意味として含みます。つまり自然権が働くagereということと,人間が現実的に存在しているということは,同じ意味でなければなりません。
この吉田の指摘はきわめて的確であると僕は思います。もちろん人間には,自然状態においてはなし得ないけれど,共同社会状態においてはなし得るということが,具体的に一つひとつの事象を検討していけばあるかもしれません。他面からいえば,自然状態において有さない力potentiaを共同社会状態において有するということがあるかもしれません。しかし自己の有esseに固執する力というのをひとつの力として抽出するのであれば,現実的に存在する人間は常に自己の有に固執するのであり,この点においては自然状態にあろうと共同社会状態にあろうと同様です。いい換えれば,人間が現実的に存在するということと,自己の有に固執するということは,同じことでなければなりません。
笠松と芦沢がスタートを取りにいき,内の笠松が誘導の後ろを確保し,西村の前受け。3番手に長島,7番手に伏見。塚本は道中から長島の外に張り付き,併走での周回になりました。残り3周のホームに入って塚本の内で併走していた長島が引いたので,3番手に塚本,5番手に長島,最後尾に伏見の一列棒状になりました。残り2周のホームに戻って長島が上昇。誘導が外れて西村が突っ張りました。伏見が内から上昇していったので,西村の後ろで伏見,こちらも動いた塚本,西村マークの笠松の3人が併走。塚本マークの堤を挟んで長島という隊列になって打鐘。ここから長島が再び発進。ホームで西村を叩くと海老根までの3人が出きりました。後ろから自力を使う選手がいなかったのでこのまま3人の争いに。番手から差した芦沢が優勝。逃げた長島が半車輪差の2着。海老根が1車身半差の3着でこのラインの上位独占。
優勝した茨城の芦沢辰弘選手はGⅢ初優勝。このレースは長島の先行1車。なので西村や塚本が長島の番手を狙う動きがあってもおかしくありませんでした。長島としてはそういう展開にした方が自分の優勝は狙いやすかったと思うのですが,番手の芦沢にも配慮したような先行になり,芦沢が無風で番手を回ることに。その分だけ芦沢の差しが上回ることになったといえるでしょう。ラインのことを考えて先行するのは悪くないと思いますが,先行1車ですから長島に対してはやや物足りなさも感じるような結果でした。
僕は自然状態status naturalisは,人類史上に存在したことはないと考えています。したがって,『国家論Tractatus Politicus』の当該部分の解釈として,スピノザも自然状態を空想的な状態であると考えているというように理解するのは,牽強付会であると思われるかもしれません。確かに文脈上は,スピノザは自然状態における自然権jus naturaeは空想的なものであるといっているのであって,自然状態についてそのようにいっているわけではないからです。しかし吉田もまた,この部分を僕と同じように解釈しています。ですから確かにこの部分を僕がいったように解釈する余地があるといえるのです。この点に関する吉田の検討をみていきます。
スピノザは自然状態を自然権を通して規定しています。ところがその自然権が,自然状態においてはないも同然であるとスピノザは断言しています。一方でスピノザは,第三部定理七を通して自然権を規定しているのです。この定理Propositioは前もっていっておいたように現実的に存在するすべての個物res singularisに妥当する定理です。よって人間が現実的に存在するなら,必ず妥当する定理であるといわなければなりません。これはつまり,人間が自然状態において現実的に存在していようと,共同社会状態status civilisにおいて現実的に存在していようと,同じように必ず妥当するということを意味として含みます。つまり自然権が働くagereということと,人間が現実的に存在しているということは,同じ意味でなければなりません。
この吉田の指摘はきわめて的確であると僕は思います。もちろん人間には,自然状態においてはなし得ないけれど,共同社会状態においてはなし得るということが,具体的に一つひとつの事象を検討していけばあるかもしれません。他面からいえば,自然状態において有さない力potentiaを共同社会状態において有するということがあるかもしれません。しかし自己の有esseに固執する力というのをひとつの力として抽出するのであれば,現実的に存在する人間は常に自己の有に固執するのであり,この点においては自然状態にあろうと共同社会状態にあろうと同様です。いい換えれば,人間が現実的に存在するということと,自己の有に固執するということは,同じことでなければなりません。
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