⑱-3でいったAIが示した手順を確認します。
第1図から☗2一飛☖3一歩☗2七銀で第2図になります。
3でいっておいたように,第2図はAIによれば先手が有利という局面であって,それは正しく指し続ければ先手が勝つだろうという意味です。ですから第2図から人間が指すなら,強い方が勝つというほどの局面でしかありません。つまりこの図は先手が勝ちを見込めるというような局面ではありませんから,この順を指すということ自体が人間には難しいだろうと思います。勝ちを見込めないのに第2図に踏み込むのは,先手にとって怖さが生じるだろうからです。
さらに,第1図から第2図までの3手一組の手順は,人間からみると不思議な点がふたつほど含まれているので,そもそもこの手順を発見するのが人間的には難しいという面があります。
ひとつは,第1図の先手玉は詰めろになっていないので,先手が詰めろと王手の連続で後手玉を受けなしにい追い込めば勝ちで,それができなければ受けなければなりません。☗2七銀は☖3八金を受ける手ですが,第1図ですぐに受けるのではなく,一旦☗2一飛と詰めろを掛けて,☖3一歩と受けさせてから☗2七銀と受けなければならない理由を理解するのが難しそうです。
次に,先手玉が5八にいて,☖3八金を受けるのに,たとえば☗4九銀と玉の近くに銀を打つのではなく,玉から遠いところに☗2七銀と打たなければならない理由を発見するのも困難に思えます。
しかしこの3手一組は絶対の手順なのです。
民衆全体が主権者になるということは,それ自体では非現実的とはいえません。ただ,その目的が主権の能動actioにある場合は,民衆の能動がその前提となり,そのことが非現実的なのです。『国家論Tractatus Politicus』の第一章第五節では,民衆なり国務に忙殺される人なりが,もっぱら理性ratioの掟に従って生活するように導かれ得ると信じている人は,空想物語を夢見ているのだという主旨のことがいわれていますが,このような批判はネグリAntonio Negriにも向けられているといってよいでしょう。
とはいえ,主権の能動は民衆の能動によって規定されるわけですから,民衆の能動を無視して考えることはできません。それは非現実的なので,スピノザはあたかも能動といえる敬虔pietasという概念notioを提出しているわけです。しかしこのことは別の章の考察で検討済みなので繰り返すことはしません。ここでは,スピノザの哲学を形而上学的基礎とするような政治論では,民衆という存在者を無視することはできないという点を重視します。というのは,デカルトRené Descartesの哲学を形而上学的基礎としたホッブズThomas Hobbesの政治論では,主権者の能動が民衆の受動passioなので,主権が能動であるためには,主権が民衆に対して命令を下すだけで十分です。ところがスピノザの哲学ではそうはいきません。つまり,主権が民衆に対して命令を下すという形の統治形態は,政治体制の如何に関わらず成立しません。いい換えれば君主制であろうと貴族制であろうと民主制であろうと成立しないのです。浅野はこの点については,スピノザは主権が命令を下すということと,主権が決断を下すということには相違があって,その相違について自覚的であったといっています。
このことは,とくに君主制を例にとれば分かりやすいでしょう。君主制で主権者といえるのは君主あるいは王だけを原則的に意味するからです。たとえそのような君主が統治する国家Imperiumであっても,君主が民衆に対して命令を下すだけの統治形態は,その君主制の存立基盤を脅かすことになります。なぜならこのような統治形態では,最も分かりやすいことばでいえば,民衆の福利厚生を無視することが可能であると前提されているからです。それがホッブズの政治論の最大の難点です。
第1図から☗2一飛☖3一歩☗2七銀で第2図になります。
3でいっておいたように,第2図はAIによれば先手が有利という局面であって,それは正しく指し続ければ先手が勝つだろうという意味です。ですから第2図から人間が指すなら,強い方が勝つというほどの局面でしかありません。つまりこの図は先手が勝ちを見込めるというような局面ではありませんから,この順を指すということ自体が人間には難しいだろうと思います。勝ちを見込めないのに第2図に踏み込むのは,先手にとって怖さが生じるだろうからです。
さらに,第1図から第2図までの3手一組の手順は,人間からみると不思議な点がふたつほど含まれているので,そもそもこの手順を発見するのが人間的には難しいという面があります。
ひとつは,第1図の先手玉は詰めろになっていないので,先手が詰めろと王手の連続で後手玉を受けなしにい追い込めば勝ちで,それができなければ受けなければなりません。☗2七銀は☖3八金を受ける手ですが,第1図ですぐに受けるのではなく,一旦☗2一飛と詰めろを掛けて,☖3一歩と受けさせてから☗2七銀と受けなければならない理由を理解するのが難しそうです。
次に,先手玉が5八にいて,☖3八金を受けるのに,たとえば☗4九銀と玉の近くに銀を打つのではなく,玉から遠いところに☗2七銀と打たなければならない理由を発見するのも困難に思えます。
しかしこの3手一組は絶対の手順なのです。
民衆全体が主権者になるということは,それ自体では非現実的とはいえません。ただ,その目的が主権の能動actioにある場合は,民衆の能動がその前提となり,そのことが非現実的なのです。『国家論Tractatus Politicus』の第一章第五節では,民衆なり国務に忙殺される人なりが,もっぱら理性ratioの掟に従って生活するように導かれ得ると信じている人は,空想物語を夢見ているのだという主旨のことがいわれていますが,このような批判はネグリAntonio Negriにも向けられているといってよいでしょう。
とはいえ,主権の能動は民衆の能動によって規定されるわけですから,民衆の能動を無視して考えることはできません。それは非現実的なので,スピノザはあたかも能動といえる敬虔pietasという概念notioを提出しているわけです。しかしこのことは別の章の考察で検討済みなので繰り返すことはしません。ここでは,スピノザの哲学を形而上学的基礎とするような政治論では,民衆という存在者を無視することはできないという点を重視します。というのは,デカルトRené Descartesの哲学を形而上学的基礎としたホッブズThomas Hobbesの政治論では,主権者の能動が民衆の受動passioなので,主権が能動であるためには,主権が民衆に対して命令を下すだけで十分です。ところがスピノザの哲学ではそうはいきません。つまり,主権が民衆に対して命令を下すという形の統治形態は,政治体制の如何に関わらず成立しません。いい換えれば君主制であろうと貴族制であろうと民主制であろうと成立しないのです。浅野はこの点については,スピノザは主権が命令を下すということと,主権が決断を下すということには相違があって,その相違について自覚的であったといっています。
このことは,とくに君主制を例にとれば分かりやすいでしょう。君主制で主権者といえるのは君主あるいは王だけを原則的に意味するからです。たとえそのような君主が統治する国家Imperiumであっても,君主が民衆に対して命令を下すだけの統治形態は,その君主制の存立基盤を脅かすことになります。なぜならこのような統治形態では,最も分かりやすいことばでいえば,民衆の福利厚生を無視することが可能であると前提されているからです。それがホッブズの政治論の最大の難点です。
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