⑲-15の下図は先手が金を取っていますので,☗7二金から後手玉は簡単に詰みます。受けても7四の飛車が取られる形ですから後手玉に受けはありません。したがって後手が勝とうとするならこのまま先手玉を詰ますほかありません。
まず⑲-13の変化を確認しておきましょう。⑲-15の下図から☖7八角です。
ここから☗5九玉☖7九龍☗4八玉☖3六桂。
ここで☗3七玉は☖3九龍で先手玉が詰むのは同じ。なので☗5七玉と逃げます。
ここでの☖6六金は☗同馬があり,それ以上の王手が先手玉にはありません。なのでこの変化は明快に先手の勝ちです。
ただし⑲-15の下図にはさらに別の変化があり,そちらの方がずっと難解なのです。次回からはそれを順に検討していきます。
ステノNicola StenoはチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausからバチカン写本を巻き上げました。そのチルンハウスは,スピノザの遺稿集Opera Posthumaの編集者がだれで,どこでそれが編集されているのかということをおそらく知っていました。しかしステノが異端審問所に提出した上申書の内容に,その情報は書かれていませませんでした。もしステノがそれを知っていたら,努力しすぎてしすぎるということはないとまで書いているのですから,それを秘匿する理由はまったくありません。ということはステノはその情報を知らなかったと確定してよいでしょう。つまりチルンハウスはおそらく知っていたであろうその情報を,ステノには伝えなかったということになります。つまりチルンハウスはバチカン写本を巻き上げられるという,そういってしまってよければ失態を犯してしまったわけですが,スピノザの遺稿集に関連する重要な情報については,ステノに対して秘匿していたのです。
こうした事情から,ステノのおとり捜査というものの実態が,より明らかになってくると僕には思えます。そこで僕は,現時点ではこの一件の最も大きな可能性は,次のようなものであったと推定しておきます。
イタリア,たぶんローマでステノとチルンハウスは知り合いました。そのとき,事前の情報として,チルンハウスがスピノザの晩年のよき文通相手であったということをステノが知っていたか知らなかったかは定かではありません。もしも知っていたなら,ステノは最初からおとり捜査を目的としてチルンハウスに近づいたのでしょう。そうでなく,知り合ってからそのことを知ったのであれば,おとり捜査はその後にステノによって企てられたということになります。この点は僕はどちらの可能性も同等に評価します。
チルンハウスに接近したステノは,自身が信頼に値する人物であるということをステノに思い込ませることに成功しました。つまり,パリでチルンハウスがライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに対して抱いたのと同じような思いを,チルンハウスに思わせることに成功しました。元は科学者であり,かつスピノザとも親しく交際していてスピノザの思想をよく知っていたステノにとっては,それは難しいことではなかったと思います。
まず⑲-13の変化を確認しておきましょう。⑲-15の下図から☖7八角です。
ここから☗5九玉☖7九龍☗4八玉☖3六桂。
ここで☗3七玉は☖3九龍で先手玉が詰むのは同じ。なので☗5七玉と逃げます。
ここでの☖6六金は☗同馬があり,それ以上の王手が先手玉にはありません。なのでこの変化は明快に先手の勝ちです。
ただし⑲-15の下図にはさらに別の変化があり,そちらの方がずっと難解なのです。次回からはそれを順に検討していきます。
ステノNicola StenoはチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausからバチカン写本を巻き上げました。そのチルンハウスは,スピノザの遺稿集Opera Posthumaの編集者がだれで,どこでそれが編集されているのかということをおそらく知っていました。しかしステノが異端審問所に提出した上申書の内容に,その情報は書かれていませませんでした。もしステノがそれを知っていたら,努力しすぎてしすぎるということはないとまで書いているのですから,それを秘匿する理由はまったくありません。ということはステノはその情報を知らなかったと確定してよいでしょう。つまりチルンハウスはおそらく知っていたであろうその情報を,ステノには伝えなかったということになります。つまりチルンハウスはバチカン写本を巻き上げられるという,そういってしまってよければ失態を犯してしまったわけですが,スピノザの遺稿集に関連する重要な情報については,ステノに対して秘匿していたのです。
こうした事情から,ステノのおとり捜査というものの実態が,より明らかになってくると僕には思えます。そこで僕は,現時点ではこの一件の最も大きな可能性は,次のようなものであったと推定しておきます。
イタリア,たぶんローマでステノとチルンハウスは知り合いました。そのとき,事前の情報として,チルンハウスがスピノザの晩年のよき文通相手であったということをステノが知っていたか知らなかったかは定かではありません。もしも知っていたなら,ステノは最初からおとり捜査を目的としてチルンハウスに近づいたのでしょう。そうでなく,知り合ってからそのことを知ったのであれば,おとり捜査はその後にステノによって企てられたということになります。この点は僕はどちらの可能性も同等に評価します。
チルンハウスに接近したステノは,自身が信頼に値する人物であるということをステノに思い込ませることに成功しました。つまり,パリでチルンハウスがライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに対して抱いたのと同じような思いを,チルンハウスに思わせることに成功しました。元は科学者であり,かつスピノザとも親しく交際していてスピノザの思想をよく知っていたステノにとっては,それは難しいことではなかったと思います。
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