⑲-17の下図で後手が☖3九角と打つと,先手は玉を5七に逃げ出すことができません。
3八に逃げるか3七に逃げるかの二者択一ですが,検討していく手順ではどちらに逃げても同じです。なので変化が少なくなる☗3七玉の方にします。
ここで後手に鬼手があります。それが☖2八角成です。
この手があるなら先手玉の逃げ場が3七であろうと3八であろうと同じなのは明白でしょう。
①でいったように,この将棋を取り上げたのは,時間を掛けて検討したにも関わらず,結論に誤りが含まれていたからです。ただ当該記事から理解できるように,この☖2八角成という手自体は,僕は自身の検討で発見していました。この手を発見したときは我ながら興奮したことを今でもよく覚えています。
この部分の吉田の考察については,議論が錯綜しているように僕には感じられます。
まず吉田は,スピノザがデカルトRené Descartesがいった「我思うゆえに我ありcogito, ergo sum」を読み替えたといっていますが,僕は必ずしもそう考えていません。少なくともデカルトがいっていることを三段論法と解すれば,デカルトの主張が通らないということをスピノザは指摘しているのであって,デカルトがそれを単一命題であるということを意識していたかは別として,これを三段論法と解してはいけないということ,いい換えれば単一命題として解さなければならないということは事実だと思います。ただしこの点については僕は争いません。スピノザがデカルトがいった命題は単一命題であると解説したという事実が重要であるからです。
次に,デカルトが仮にそれを三段論法と思っていたとしようと単一命題であると思っていたとしようと,そこでいわれている思うということが,思惟作用一般を意味することはできません。ここまでの考察から理解できるように,このことは吉田も認めています。ここでいう思うというのは,精神の能動actio Mentisを意味するのでなければならないのであって,精神が受動するaffici場合,スピノザの哲学でいえば,たとえば精神が事物を表象するimaginariような思惟作用は思うということには含まれません。その場合はそこから我ありという帰結が導出されなくなるからです。つまりデカルトは私の精神は考えつつあるといったというようにスピノザは解説したのですが,この考えるconcipereというのは精神の能動だけを意味するのであって,たとえば私は表象しつつあるというようにはデカルトは主張してなかったということになるのです。
そして,スピノザが,私は考えるということを肯定するというときに,吉田は第二部公理二に訴求していますが,この公理Axiomaは思惟Cogitatio一般について言及されている定理Propositioですから,精神の能動だけを意味するわけではなくて,精神の受動passioも同時に含みます。つまり概念conceptusと知覚perceptioの両方を意味しているわけですから,スピノザは,デカルトがいっている,私が概念するconcipereということだけを肯定するaffirmareわけではなく,私は知覚するpercipereということも同時に肯定していることになるのです。
3八に逃げるか3七に逃げるかの二者択一ですが,検討していく手順ではどちらに逃げても同じです。なので変化が少なくなる☗3七玉の方にします。
ここで後手に鬼手があります。それが☖2八角成です。
この手があるなら先手玉の逃げ場が3七であろうと3八であろうと同じなのは明白でしょう。
①でいったように,この将棋を取り上げたのは,時間を掛けて検討したにも関わらず,結論に誤りが含まれていたからです。ただ当該記事から理解できるように,この☖2八角成という手自体は,僕は自身の検討で発見していました。この手を発見したときは我ながら興奮したことを今でもよく覚えています。
この部分の吉田の考察については,議論が錯綜しているように僕には感じられます。
まず吉田は,スピノザがデカルトRené Descartesがいった「我思うゆえに我ありcogito, ergo sum」を読み替えたといっていますが,僕は必ずしもそう考えていません。少なくともデカルトがいっていることを三段論法と解すれば,デカルトの主張が通らないということをスピノザは指摘しているのであって,デカルトがそれを単一命題であるということを意識していたかは別として,これを三段論法と解してはいけないということ,いい換えれば単一命題として解さなければならないということは事実だと思います。ただしこの点については僕は争いません。スピノザがデカルトがいった命題は単一命題であると解説したという事実が重要であるからです。
次に,デカルトが仮にそれを三段論法と思っていたとしようと単一命題であると思っていたとしようと,そこでいわれている思うということが,思惟作用一般を意味することはできません。ここまでの考察から理解できるように,このことは吉田も認めています。ここでいう思うというのは,精神の能動actio Mentisを意味するのでなければならないのであって,精神が受動するaffici場合,スピノザの哲学でいえば,たとえば精神が事物を表象するimaginariような思惟作用は思うということには含まれません。その場合はそこから我ありという帰結が導出されなくなるからです。つまりデカルトは私の精神は考えつつあるといったというようにスピノザは解説したのですが,この考えるconcipereというのは精神の能動だけを意味するのであって,たとえば私は表象しつつあるというようにはデカルトは主張してなかったということになるのです。
そして,スピノザが,私は考えるということを肯定するというときに,吉田は第二部公理二に訴求していますが,この公理Axiomaは思惟Cogitatio一般について言及されている定理Propositioですから,精神の能動だけを意味するわけではなくて,精神の受動passioも同時に含みます。つまり概念conceptusと知覚perceptioの両方を意味しているわけですから,スピノザは,デカルトがいっている,私が概念するconcipereということだけを肯定するaffirmareわけではなく,私は知覚するpercipereということも同時に肯定していることになるのです。
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