渡辺明竜王への挑戦者を決する第24期竜王戦は,17日に1組の3位決定戦があり,本戦トーナメント出場者が決定。今年も展望してみることにします。
1組から5人が出場できるように制度が改正されて以降は,どうしても1組が手厚くなっています。左の山も3人が並んだ1組がやはり強そう。注目されるのは関西四天王の一角を占める稲葉陽五段と,今年に入って急激に勝ち出している永瀬拓矢四段の勝者がどこまで勝ち上がることができるのかという点ではないでしょうか。
右の山は1組のふたりがタイトル保持者ですからやはり有力とせざるを得ません。ただトーナメントですからだれが勝ち上がってもおかしくはないと思えるようなメンバー構成になっているとは思います。
やはり本命は羽生善治名人で対抗が久保利明二冠ということになるでしょうか。今年は右の山から挑戦者が出るような気がしてならないのですが,左の山から深浦康市九段の名前も上げておくことにします。今年も本戦は中継されることになると思いますので,僕自身が注目する対戦に関しては紹介していく予定です。
スピノザの哲学では虚偽と誤謬とは異なるものであるというのが僕の見解です。よって,仮に人間が,神の属性に関して虚偽を有するということがあったとしても,誤謬を犯すことはないということ,つまり人間の知性による延長の属性ならびに思惟の属性の認識に関する無謬性は,これで明らかになりました。とくに属性の認識という場合には,第一部定理一〇によって,それが虚偽であるのか真理であるのかを判断する材料が,その観念がそれ自身によって概念されているのか,それともほかのものに依拠することによって認識しているのかということだけでも十分です。すなわちたとえば何らかの個物についてその真偽を判定する場合よりも明らかに容易であると考えられますから,この無謬性の確度というものは,その分だけさらに高くなっているといえると思います。
さらに僕はこの無謬性が完全に確定するような仮説というのを立てました。それはおおよそ以下のようなものです。
まず,第二部定義一に示されている事柄は,共通概念としてすべての人間の精神のうちにあると考えられます。そして第一部定理一の意味から考えるなら,このことは,延長の属性の十全な観念もまた,すべての人間の知性の一部を構成しているということでなければならないと思われます。
ところで,第二部定理二六によれば,人間の精神が外部の物体を表象する様式というのは,その人間の身体が外部の物体に刺激されることを通してのみです。しかるに,こうした表象というのが人間の精神に生じるまさにそのとき,共通概念として神の延長の属性がその人間の精神によって十全に認識されていると考えられます。そこでもしも人間の精神による外部の物体の表象の様式がこれだけであるなら,人間の精神による延長の属性の認識の様式もこれだけになるのではないだろうかというのが,僕の立てた仮説の中心部分です。
もしもこの仮説が正しいとするなら,人間の精神は神の属性,この場合には延長の属性と思惟の属性のふたつだけですが,共通概念としてのみ認識するということになります。つまり十全にのみ認識するのであり,混乱しては認識しないということになります。よって属性の認識に限定するならば,ドゥルーズの論証の方法というのは有効であり,また妥当であるということになるでしょう。
1組から5人が出場できるように制度が改正されて以降は,どうしても1組が手厚くなっています。左の山も3人が並んだ1組がやはり強そう。注目されるのは関西四天王の一角を占める稲葉陽五段と,今年に入って急激に勝ち出している永瀬拓矢四段の勝者がどこまで勝ち上がることができるのかという点ではないでしょうか。
右の山は1組のふたりがタイトル保持者ですからやはり有力とせざるを得ません。ただトーナメントですからだれが勝ち上がってもおかしくはないと思えるようなメンバー構成になっているとは思います。
やはり本命は羽生善治名人で対抗が久保利明二冠ということになるでしょうか。今年は右の山から挑戦者が出るような気がしてならないのですが,左の山から深浦康市九段の名前も上げておくことにします。今年も本戦は中継されることになると思いますので,僕自身が注目する対戦に関しては紹介していく予定です。
スピノザの哲学では虚偽と誤謬とは異なるものであるというのが僕の見解です。よって,仮に人間が,神の属性に関して虚偽を有するということがあったとしても,誤謬を犯すことはないということ,つまり人間の知性による延長の属性ならびに思惟の属性の認識に関する無謬性は,これで明らかになりました。とくに属性の認識という場合には,第一部定理一〇によって,それが虚偽であるのか真理であるのかを判断する材料が,その観念がそれ自身によって概念されているのか,それともほかのものに依拠することによって認識しているのかということだけでも十分です。すなわちたとえば何らかの個物についてその真偽を判定する場合よりも明らかに容易であると考えられますから,この無謬性の確度というものは,その分だけさらに高くなっているといえると思います。
さらに僕はこの無謬性が完全に確定するような仮説というのを立てました。それはおおよそ以下のようなものです。
まず,第二部定義一に示されている事柄は,共通概念としてすべての人間の精神のうちにあると考えられます。そして第一部定理一の意味から考えるなら,このことは,延長の属性の十全な観念もまた,すべての人間の知性の一部を構成しているということでなければならないと思われます。
ところで,第二部定理二六によれば,人間の精神が外部の物体を表象する様式というのは,その人間の身体が外部の物体に刺激されることを通してのみです。しかるに,こうした表象というのが人間の精神に生じるまさにそのとき,共通概念として神の延長の属性がその人間の精神によって十全に認識されていると考えられます。そこでもしも人間の精神による外部の物体の表象の様式がこれだけであるなら,人間の精神による延長の属性の認識の様式もこれだけになるのではないだろうかというのが,僕の立てた仮説の中心部分です。
もしもこの仮説が正しいとするなら,人間の精神は神の属性,この場合には延長の属性と思惟の属性のふたつだけですが,共通概念としてのみ認識するということになります。つまり十全にのみ認識するのであり,混乱しては認識しないということになります。よって属性の認識に限定するならば,ドゥルーズの論証の方法というのは有効であり,また妥当であるということになるでしょう。
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