スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

バーレーン国際トロフィー&自然権と力

2024-11-16 19:26:39 | 海外競馬
 日本時間で今日の未明にバーレーンのサヒール競馬場で行われたバーレーン国際トロフィーGⅡ芝2000m。
 キラーアビリティとヤマニンサンバはレースの前半はキラーアビリティが外,ヤマニンサンバが内の8番手あたりを並走。先頭からは6馬身くらい。レースの後半にかけて馬群が凝縮していき,キラーアビリティが7番手の内,ヤマニンサンバは後方2番手まで下がりました。馬群がばらけないまま直線に向かったので,キラーアビリティは開いたところを突こうとしましたが,伸びを欠いて8着。位置が下がったヤマニンサンバは外に出されて伸び6着でした。
 このレースは昨年のネオムターフカップを勝った馬が勝ったのですが,そのときはキラーアビリティが2着でした。したがってレースのレベルとしては通用の余地があったわけですが,力を十分に発揮することができなかったということでしょう。レースのレベルは年によって変動すると思いますが,どの程度の能力がある馬なら通用するレースであるのかということは分かったと思いますので,あとはそこで力を発揮できるのかどうかということになるのではないでしょうか。

 各人は自然状態status naturalisにおいては自己を他の圧迫から防ぎ得る間だけ自己の権利jusの下にあるといった後で,人間の自然権jus naturaeは,それが単に個人のものであり,個人の力potentiaによって決定される間は無に等しいのであり,現実においてよりは空想においてのみあるとスピノザはいっています。この点は分かりにくいところが含まれているかもしれませんので,詳しく説明することにします。
                            
 スピノザは自然権というのを力と等置するわけですから,個人の力と個人の自然権を等置していることについてはそれ以上の説明は不要でしょう。一方,自然状態においては自然権は空想上の産物であり,現実的には無に等しいといっているのは,自然状態においては各人は力を実質的には有していないという意味になりますから,不思議に思えるのではないでしょうか。実際にスピノザは書簡五十では,自然状態における自然権を共同社会状態status civilisにおいてもそっくりそのまま残しているといっているのですから,自然状態における力を共同社会状態においても残していると解する必要があり,これでみればスピノザは『国家論Tractatus Politicus』と書簡五十で矛盾したことをいっているように思えます。このふたつの言説がどうして両立し得るのでしょうか。
 留意しておくべきことは,スピノザは力というのを現実的なものとしてのみみなし,可能的なものとしてはみないということです。つまり,たとえばある人間は何かをなし得るとしても,実際にそれをなしているからそれは力といわれるのであって,単にそれをなし得る,分かりやすいいい方をすれば,なそうと思えばなせるけれどもなしていないという場合には,スピノザはそれを力とはいわないのです。このブログで何度か示した実例でいえば,人間は理性的に考えるconcipere力がありますが,それは実際に理性ratioを用いて能動的に考えている場合にそのようにいわれるのであって,ある人間が受動感情に捉われているときには,その人間に理性によって考える力はあるとはいわれないのです。
 このことがこの場合にも適用されることになります。つまり自然状態において人間にある力があるといわれるのは,その人間が現に何かをなしているという場合だけなのです。
コメント
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