スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

読売新聞社杯全日本選抜競輪&スピノザとレーウェンフック

2016-02-14 19:11:14 | 競輪
 久留米競輪場で行われた第31回全日本選抜競輪の決勝。並びは新田‐渡辺‐佐藤‐菊地の北日本,脇本‐稲垣‐村上の近畿で近藤と岩津は単騎。
 新田がスタートを取ってそのまま前受け。5番手に脇本,8番手に岩津,最後尾に近藤という周回に。残り2周のホームの手前から脇本が一気に上昇。新田は引いて岩津まで4人が前に。乗り遅れた近藤もバックで上がって5番手に入り,6番手が新田の一列棒状となって打鐘。新田は残り1周のホームに入る前からは早々と巻き返していきました。ホームの出口のあたりで稲垣が牽制。稲垣と新田が併走状態でバックに入りましたが,さらに牽制をしようとした稲垣が自らバランスを崩して落車。村上と岩津も巻き込まれました。新田はそのまま脇本の前に出たのですが,早くから脚を使ったためか牽制で自転車に問題が生じたのか不明ですが明らかに失速気味。後ろからの動きはなかったので渡辺は番手で待っていたものの直線の入口では自然に先頭に出る形。そこから一気に踏み込むと後ろを離していき優勝。マークの佐藤が3車身差で2着。新田も2車身差の3着に残って北日本ラインで上位独占。
 優勝した福島の渡辺一成選手は昨年6月の取手記念など,記念競輪は過去に6勝していますがGⅠはこれが初優勝。ビッグは2012年の共同通信社杯以来の2勝目。このレースは稲垣の反応が少しだけ遅れたため,番手から発進するのではなく牽制するようなレースになったのではないでしょうか。先に出られていると村上が牽制する形になった筈で,レースもまた違ったものになっていたものと思われます。ほぼ直線だけで後ろを離してしまったように,瞬間的なダッシュ力は超一流。その持ち味が最大限に生きる展開になっての優勝だったといえるでしょう。

 マルタンによるフェルメールの絵画とスピノザの哲学の関係のさせ方に僕は疑問を感じているのですが,このことはもしかしたら『フェルメールとスピノザ』だけに特有に該当するわけではないかもしれません。むしろもっと一般的な意味において,スピノザとフェルメールを関連付けようとする見解のすべてに対して,これから僕が示そうとすることは妥当する可能性を含みます。たとえば「豚のロケーション」では,異なった観点からスピノザとフェルメールの近似性について言及されていて,僕が示すこととは無関係であるとも解せると思いますが,実はそちらにも波及するという余地は残ると思われます。
                                    
 「豚のロケーション」において高山が示している近似性というのは,曇りのない目でものを視るということです。高山がいうにはフェルメールの絵画というのは背後にある物語性の一切を排除し,空間の絵画的構造だけに鑑賞者を対面させるものだそうです。スピノザが神Deusから人格の剥奪を行ったのは,神の背後にある物語性のすべてを消去する営みであったというのが高山の見解です。そして同時代のレーウェンフックの顕微鏡学というのは,レーウェンフック自身が著書の序文で述べていることからして,想像する力を必要としないものです。ここに高山はこの三者の共通性を見出すのです。
 僕は絵画という芸術作品の鑑賞能力はありませんから,高山がフェルメールについて語っていることが妥当であるかどうかは判断できません。ただ,レーウェンフックが顕微鏡学によって探求しようとしていたことのうちに,スピノザの哲学との間にある共通点があることは是認できます。というのは,想像力を排除して顕微鏡で視ることができるものだけをありのままに視るというこの姿勢は,混乱した観念idea inadaequataを否定して十全な観念を肯定するスピノザの姿勢と明らかに一致していると僕には思えるからです。他面からいえば第一部公理六にあるように,対象ideatumと一致するものだけを真のものとみなし,そこから逸脱するものについては容赦なく虚偽falsitasないしは誤謬errorとみなそうという態度において,レーウェンフックとスピノザとの間には,暗黙の一致があるように思うのです。
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朝日杯将棋オープン&史実的根拠

2016-02-13 19:36:28 | 将棋
 有楽町朝日ホールで指された第9回朝日杯将棋オープンの決勝。対戦成績は羽生善治名人が74勝,森内俊之九段が58勝。千日手が7局あります。
 振駒で森内九段が先手になり,羽生名人の急戦矢倉。この将棋は本格的な戦いになる前に,先手が端に桂馬を跳ねた後で中央に飛車を回ったバランスが悪く,歩切れでも手なりで中央を制圧した後手が少しだけ指しやすくなっていたものと思います。
                                    
 矢倉戦ではしょっちゅう出てくる銀を打った局面。ここでは▲5四角と打って△7六金と出る手を牽制する攻防手も有力。この打ち込みは勝負しにいったという手で,先手はやや苦戦と意識していたのかもしれません。ここからは先手が攻めきれるのか後手が受けきれるのかという勝負。
 △6九銀▲7七金としてから△4二金と逃げました。△6八飛と王手で打てるようした交換で,先手が飛車を切りにくくしている意味があります。いい判断だったのではないでしょうか。
 ▲7一角△8一飛▲4四角成△4一飛の手順で銀を見捨てた先手は▲2四歩。△同歩▲2三歩△同王▲2五歩と玉頭攻めに勝負を託しました。後手は△6八角と受け▲2四歩に△同角成。
 ここで飛車を切ると後手玉が1五に逃げることができて捕まらず,△6八飛があって先手が負けのようです。ということで▲6六歩と打って金をどかしてから飛車を切る手を狙いましたが金を逃げるわけもなく△3二金と寄られました。
                                    
 攻めるなら▲2五歩でしょうが,▲2二金と打てなくなっている関係で△同桂も生じています。それでいて馬取りですからこの手が受けの決め手。第2図は後手の勝勢といってよいでしょう。
                                     
 羽生名人が優勝。第3回,5回,7回,8回と優勝していて三回連続5度目の優勝です。

 カメラ・オブスキュラのために高性能のレンズを必要としていたフェルメールが,スピノザに助けを求めることによってふたりは出会ったとする推定が,マルタンが『フェルメールとスピノザ』において示している「天文学者」のモデルはスピノザであるという推理の根拠の中で,僕には最も説得力があると思えるものです。しかし前にもいったように,マルタンが推理のために示しているストーリーというのを,そのまま史実とするのは僕には無理があると思います。レーウェンフックが親友であったフェルメールのために何の手助けもしないということは僕には考えられないので,スピノザによる援助があったと推理するのであれば,それ以前にあった筈のレーウェンフックの協力は,フェルメールにとっては技術的な意味において不十分であった,あるいは満足できるものではなかったというストーリーをさらに加える必要があるというのが僕の考えです。
 このゆえに,実際に「天文学者」のモデルがスピノザであったということは,可能性としては非常に薄いものであろうと僕は判断します。そしてこれがマルタンによる最も説得力のある説明であると僕には思えるのですから,結論からいえばフェルメールがスピノザをモデルとして「天文学者」を書いたという可能性はきわめて低いだろうと僕は考えるのです。ですが,きわめて低いというのは,皆無であるといえないという意味でもあることは僕も認めざるを得ないです。少なくとも史実だけを根拠にして,「天文学者」のモデルはスピノザではないと断定することはできないと僕は思っています。
 一方,僕がマルタンの推理に対して懐疑的である理由の最大の要素は,このような史実とは異なったところにあるのです。『フェルメールとスピノザ』というのは,このふたりの関係をただ単に史実の観点から裏付けようという動機から書かれたものではありません。むしろフェルメールが描いた絵画作品と,同時代にきわめて近い地域で生きたスピノザの哲学との間には,一定の関係があるのだということを説明しようという試みでもあるのです。これ自体は,「天文学者」のモデルがだれであるかとは関係ありません。
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棋王戦&偏差値

2016-02-12 19:13:54 | 将棋
 道後温泉で指された昨日の第41期棋王戦五番勝負第一局。対戦成績は渡辺明棋王が3勝,佐藤天彦八段が4勝。
 振駒で佐藤八段が先手となり角換り相腰掛銀に。渡辺棋王が新手を指して主導権を握り,先手が攻め合いを目指す一局になりました。
                                    
 先手が桂馬を跳ねたところ。厳密にはもう後手の方が少しいいのかもしれません。
 △7六歩▲同銀△8六歩▲同歩と進めてから△4四銀と逃げました。▲3三桂成は王手ですから途中で指せたのですが,桂馬を渡すマイナスの方が大きいという判断だったのでしょう。ただ手抜かれてすぐに取れないのでは,やや苦戦だったのではないかと思います。
 ▲2四歩と玉頭に手をつけました。継ぎ歩の狙いですが△同歩▲2五歩△同歩▲2四歩とその狙いをすべて許した上で△8六飛と王手で走りました。ここの判断が後手の勝利に結びついたと僕には感じられました。
 ▲8七銀に△8四飛と引いて6四の銀と連結。先手はさらに▲2五飛で攻め合いを目指しましたが△7七歩▲同金△7六歩▲7八金△8六歩▲7六銀まで決めてからの△4三角が絶好の一着になりました。
                                    
 先手は飛車取りを受けるほかありませんが,6四の銀が浮いてしまうことがなくなった後手は△4五金と桂馬を取りつつ7六の銀も狙えます。第2図は大勢が決しているといえそうです。
 渡辺棋王が先勝。第二局は20日です。

 光線屈折学の理論的な知識,そしてそれをレンズの製作のために応用するための方法論的な知識,さらにその方法論的知識をレンズ製作の実践に生かすための職人としての技術に関して,それぞれの偏差値を出すことが可能であると仮定してみましょう。
 理論的知識と方法論的知識に関して,スピノザの偏差値が中間値を超えていたことは間違いないとしていいでしょう。もちろんそれを実践するための技術についても同様です。しかし双方の偏差値の値を比較したならば,たぶんふたつの知識に関する偏差値よりも,技術の偏差値の方がより高かったといえると僕は思うのです。なぜなら,たとえば知識に関する偏差値であれば,ホイヘンスケルクリングがスピノザを著しく下回っていたと考えることはできません。どちらが優秀な自然科学者であったのかを考えれば,それは間違いないと思うのです。一方,この当時の状況から鑑みて,一流の自然科学者として評価を獲得できるほどの人物が,技術力において平均偏差値を下回ることもまず考えられません。つまり知識に関してはスピノザはホイヘンスやケルクリングとよくて同程度の偏差値であったと僕は考えますが,技術力に限定するなら,スピノザの偏差値が両者を上回っていた筈だと推定するのです。
 ここから帰結するのは,スピノザが理論的知識と方法論的知識を兼ね備えた光学者であったことは否定できませんが,それよりも一流の技術職人であったということです。このことがレンズ一般に関していえるのですから,フェルメールがカメラ・オブスキュラの高性能のレンズを入手するために求めていた人物の条件に,スピノザは最適といっていいほどの人物であったと想定してもよいと思います。他面からいえば,もしスピノザがフェルメールからそのレンズを製作する依頼を受けたとすれば,フェルメールが満足できるだけの製品を作り出すことができただろうと僕は考えます。
 もちろんこれは,実際にスピノザがそのようにしたという意味ではありません。むしろ僕は史実としてはその可能性はきわめて薄いであろうと考えます。ですがその可能性が皆無であったと僕には断定することはできません。
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農林水産大臣賞典佐賀記念&職人的技術

2016-02-11 19:36:46 | 地方競馬
 大レースの谷間にあたる第43回佐賀記念
 好発はクリノスターオー。外からキョウワカイザーが並び掛けていき,2頭が並んだまま1周目の正面に。ここでキョウワカイザーが前に出て,クリノスターオーが単独の2番手に。3番手がマイネルバイカ。マイネルクロップとマイネルバウンスが並んで続き,この後ろがストロングサウザー。ですが1コーナーを回るとマイネルバウンスが外を上昇。2周目の向正面に入るところでは2番手になり,さらに逃げたキョウワカイザーに並び掛けていきました。スローに近いくらいのミドルペースであったと思われます。
 3コーナーでマイネルバウンスが先頭に。キョウワカイザーは後退し,マイネルクロップが2番手に。そして内をストロングサウザー,外からクリノスターオーが追撃。直線に入るとマイネルバウンスとマイネルクロップの間を突いたストロングサウザーが先頭に立ち,そのまま抜け出して優勝。マイネルクロップが2馬身半差で2着。外から迫ったクリノスターオーがクビ差の3着。
 優勝したストロングサウザーは重賞初勝利。オープンでは勝っているものの,そのときの対戦相手からこのメンバーでは勝つというところまではどうかと思っていました。距離のロスを少なく乗った鞍上の手腕もありましたが,これだけの着差をつけていることを考慮すると,地方の馬場への適性も高かったのではないでしょうか。1800mを主戦場としていた馬ですが,距離は伸びた方がいいかもしれません。父はハーツクライ。Southerは南風。
 騎乗した田辺裕伸騎手,管理している久保田貴士調教師は佐賀記念初勝利。

 ホイヘンスが自作の機械を作った理由が,よりよいレンズを製作するためだったこと自体は疑い得ません。そしてその機械を実際に見たスピノザが,その機械自体はとても見事なものであると称賛し,しかしその機械を用いることによって高性能の球面レンズを製作するということについては疑問視したということも断定することができます。ここから分かるのは,スピノザが球面レンズを製作する職人的技術というのが,どんなに低く見積もったとしても,ホイヘンスと同等ではあったということです。また,スピノザの規準ではなくホイヘンスの規準から判断した場合には,ホイヘンスはその機械の導入によって,自身がなし得ていたそれまで以上の成果をあげることができたという可能性も否定できません。つまり蓋然性からすれば,スピノザの技術力は,ホイヘンスの技術力を上回っていたとする方が的確であることになります。
 このことは,ホイヘンス自身が天体を観測するためにスピノザが研磨していたレンズを使用していたこと,そしてそのレンズを称賛していたことからも確かめられます。このことは端的にスピノザの技術力が自分よりも上位であるということを,ホイヘンスは認めていたということにほかならないからです。
 現代的視点でいってもおそらく当時の視点からいっても,純粋な自然科学者としての実績はホイヘンスの方がスピノザよりもずっと上の筈です。そしてこの当時の自然科学者は,研究のための実験や観察に用いる道具を自前で準備する必要があったのです。するとホイヘンスよりもレンズを研磨する技術力に長けていたスピノザは,相当に腕が立つ職人であったと考えてよいでしょう。
 これは望遠鏡のレンズに限った話ではありません。ケルクリングはスピノザが磨いていた顕微鏡のレンズを使用し,ホイヘンスがスピノザのレンズを称賛していたのと同じようにそのレンズのことを褒めています。つまりスピノザの技術力が秀でていたこと,いい換えればスピノザが,少なくとも球面のレンズに関しては,望遠鏡に限定されずもっと一般的な意味において超一流の職人であったことは,確定してよい史実であると僕は判断します。
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東京中日スポーツ賞金盃&自作の動機

2016-02-10 19:24:34 | 地方競馬
 ダート競争では最も長い距離で争われる第60回金盃
 フォーティファイドは出負け。押して主張したアウトジェネラルの逃げ。2番手にユーロビート。3番手はスパイア。ジャルディーノとサミットストーンが並んで続き6番手にカキツバタロイヤル。ここから大きく離れてクラバズーカー,モンテエン,ブラックレッグの3頭。また差が開いてアーサーバローズとファイヤープリンス。コスモナイスガイ,フォーティファイド,プレティオラスの順で追走。最初の1000mは64秒6でミドルペースでしょうか。
 取り残された馬たちを除けば2周目の向正面ではさすがに隊列も短くなりました。3コーナーを回ってユーロビートがアウトジェネラルに並び掛け,直線に入ると先頭に。内からカキツバタロイヤル,外からジャルディーノの2頭が迫り,最後は外のジャルディーノが交わして優勝。2馬身半差の2着にユーロビート。いつものように後方に待機し,大外から末脚を伸ばしたプレティオラスがカキツバタロイヤルを交わして迫ったもののクビ差の3着まで。
 優勝したジャルディーノは南関東重賞初勝利。3歳時にクラシックでも入着。古馬と対戦するようになって苦戦しましたが,昨年から本格化。8月から4連勝中で前走はトライアルで勝っていました。このレベルとの対戦は初めてで,どこまで通用するのか判然としないところもありましたが,見事に突破しました。斤量面の有利さはあったものの,今日の相手関係から考えると,重賞での好走があってもおかしくないのではないかと思います。たぶん距離適性の勝利ではなく,1600mから2000mくらいがベストでしょう。従兄に2012年の京都ジャンプステークスを勝ったマサノブルース。Giardinoはイタリア語で庭園。
 騎乗した大井の真島大輔騎手は昨年11月のロジータ記念以来の南関東重賞制覇。第55回以来5年ぶりの金盃2勝目。管理している大井の荒山勝徳調教師は金盃初勝利。

 スピノザが機械を用いてレンズを研磨したことがあったと断定できるのは,書簡三十二の当該部分のテクストが,スピノザの経験則を根拠にしているからです。同時にこのテクストは,それが球面レンズに限定され,平面レンズは除外されているのですから,スピノザは球面レンズも平面レンズも機械を用いて製作したことがあったと解さねばなりません。機械を用いて製作した球面レンズに関しては,自分の手で磨いたレンズほどには精巧に作製できなかったけれども,平面レンズの方は,自分が手で磨いた場合と同等か,よりよく研磨されたレンズが製作できたことを,スピノザはその経験を通じて知っていた筈だからです。
                                    
 このことからすでにスピノザのレンズ研磨の腕がかなり高いものであったことが確定できます。少なくとも球面レンズを研磨するという場合には,スピノザの職人としての技術は当時の機械水準を上回っていたことが明らかになるからです。とはいっても,その当時の機械の水準というのは著しく低かったという可能性も一応はあるでしょうから,別の観点からもこのことの根拠を補強しておきましょう。
 ホイヘンスは以前から望遠鏡の製作に従事していて,そのためにスピノザが称賛するほど見事な磨き皿を回転させるための機械を,おそらくは自作したのです。このことから分かるのは,ホイヘンスはこの機械を導入する前に研磨していたレンズの出来栄えに,不満があったということです。そうでなければそんな機械をわざわざ自作する必要はないからです。
 スピノザがその機械を称賛できたのは,実際にその機械を見たからです。そうでないと機械に対する称賛は不可能です。でもスピノザはそれを見た上で,それを用いても良質の球面レンズを製作することはできないと断じたのです。これがスピノザの経験則ということは,機械を用いて作ったレンズよりも,スピノザが手で磨いたレンズの方が優るという意味です。ですがホイヘンスが磨いたレンズとホイヘンスが機械を用いて作るレンズとの比較がここに含まれているとは確定できません。むしろホイヘンスは自身の腕に不満があったから,機械を自作したと考えられるからです。
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静の涙&書簡三十二

2016-02-09 19:46:01 | 歌・小説
 先生が残酷な恐怖を感じたとする血の色や,私に対してKが変死したと言った際の奥さんの認識について読解した下の四十八から五十にかけてのテクストのうちには,これらとは別の観点から僕の関心を惹く部分があります。
                                    
 Kの自殺の後の処理を主に担ったのは奥さん,後の先生の奥さんになるお嬢さんのの母親で,先生はその奥さんに命ぜられるままに医者や警察に行ったのです。その後でふたりは協力してKが自殺した部屋を掃除し,Kの遺体をを挟んだ先生の部屋の方に寝かせました。そこまで済ませた後,先生はKの実家へKが死んだ旨を知らせる電報を打つためにまた出掛けます。
 帰ったとき,Kの枕元には線香が立てられていて,その傍らに奥さんとお嬢さんの静が並んで座っていました。このときお嬢さんが泣いているのと奥さんが目を赤くしているのをを見た先生は,悲しい気分に誘われたと書いています。
 これ自体は感情の模倣であり,何ら不思議な出来事ではありません。まして先生はお嬢さんへの好意を自覚していました。第三部定理二一によれば,自分が愛する者への感情の模倣は,愛しているがゆえに生じやすいことが分かります。他面からいえば,先生がお嬢さんの悲しみを表象して自分も悲しくなったのは,確かに先生がお嬢さんを愛していたことの証明であるともいえるでしょう。
 ですが,遺書の中では先生はKを親友であったと規定しているのです。その親友が,先生に対して残酷な恐怖を与えるような方法であったとはいえ死んでしまったのです。先生にとってそれ自体が悲しみであったとしてもおかしくはありません。なのに先生はKの死を悲しむお嬢さんの涙を見るまで,Kの死には悲しみを感じなかったといっているのです。ここにはどことなく尋常でないところがあると思えないでしょうか。
 なぜ先生が静の涙を見るまでKの死に対する悲しみを感じることができなかったのか。これは考えてみる価値がある題材であるように思います。

 スピノザが理論と方法論に秀でていただけでなく,レンズを研磨する職人としても一流であったことを示すために,オルデンブルクに宛てた書簡三十二の中で,望遠鏡について言及しているテクストを改めて解読してみます。
 まずスピノザがいっているのは,ホイヘンスが望遠鏡のためのレンズの研磨に熱心に従事し,それは書簡を書いている1665年11月の時点でもそうであるということです。そしてそのためにホイヘンスが磨き皿を回転させる機械を作ったと報告しています。作らせたのではなく作ったと記述しているので,これはホイヘンスの自作だったと僕は考えています。その機械は見事なものであるとスピノザは称賛しています。
 ですがこの称賛は機械に対してのものであり,レンズについてではありません。スピノザはホイヘンスが機械の導入によってどんな成果を得られたかは知らないし,それについては興味すらないという意味のことをいっているからです。なぜなら,球面のレンズを研磨する場合には,どんな機械を用いるよりも手で磨く方がより安全でうまくいくことをスピノザは経験から知っていたからです。
 これは当時の機械の水準を基にしたスピノザの経験則なので,現代と事情が異なることは理解しておかなければなりません。また,スピノザが手で磨く方が安全であるというとき,それが磨く人間の身体にとって安全であるという意味なのか,それともレンズを製作するために研磨するガラスにとって安全であるという意味なのかは僕には判別できません。さらにこれは球面のレンズに限定した記述なので,もしも平面のレンズを研磨するのであれば,機械を用いた場合でも,少なくとも人間が手で磨くのと同じ水準のレンズを製作できること,あるいは人間が磨くより精巧なレンズを製作できることも,スピノザは自身の経験から理解していたといわなければなりません。ただ,望遠鏡のレンズにはどうしても球面のレンズが必要なので,機械を用いても高性能の望遠鏡を作製するのは難しいとスピノザは判断していたということです。
 これらのことから断定できるのは,スピノザも機械を用いたことはあったということです。
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第三部定理二三&方法論と実践

2016-02-08 19:24:56 | 哲学
 第三部定理二五証明する場合には,第三部定理二一でいわれている事柄が重要なポイントになります。これと同じように,第三部定理二六を論証する場合にも重要なポイントになる定理Propositioがあります。それが第三部定理二三です。
                                     
 「自分の憎むものが悲しみに刺激されることを表象する人は喜びを感ずるであろう。これに反して自分の憎むものが喜びに刺激されることを表象すれば悲しみを感ずるであろう。そしてこの両感情は,その反対の感情が自分の憎むものにおいてより大でありあるいは小であるのに応じて,より大であり,あるいはより小であるであろう」。
 最後の方は判別しにくい表現になっているかもしれません。ですがそう難しく考える必要はありません。憎んでいる人がより大きな悲しみtristitiaに刺激されれば自分はそれだけ大きな喜びlaetitiaを感じ,逆に大きな喜びに刺激されていると表象すれば自分はそれだけ大きな悲しみを感じるという意味です。
 つまり人は憎んでいる相手の喜びを否定し,悲しみを肯定するという傾向conatusを有するのです。そういう傾向があるconariということは,おそらく自身を顧みればだれしも思い当たるところがあるのではないでしょうか。そしてここから,憎んでいる人を喜ばせるものを否定し,悲しませるものを肯定するという第三部定理二六が出てくることは,とくに説明を要さないでしょう。
 ただし,いかに憎んでいるとはいえ,相手が人間であるなら,この種の喜びと悲しみは葛藤を伴うものです。というのは人間には感情の模倣imitatio affectuumという傾向もまたあるからです。人間は自分の愛するものの感情だけを模倣するのではなく,同類のものの感情を一般的に模倣します。なのでどんなに憎んでいる相手でも,喜んでいればその喜びを,悲しんでいるならその悲しみを模倣する傾向も有しているからです。

 マルタンが推理しているように,フェルメールがカメラ・オブスキュラの高性能のレンズを必要としていたとしてみましょう。
 このためにフェルメールに貢献できる人物が,単にレンズを製作するための学問に高い知識を有している人物ではないことは明白です。光線屈折学に高い知識を有していたとしても,それを応用するための方法論にも同じ程度の知識を有していなければ,高性能の望遠鏡のレンズを製作することは見込めないのと同じことが,カメラ・オブスキュラのレンズを製作するにあたっての理論と実践の間にも成立するからです。
 書簡三十九書簡四十は望遠鏡のレンズに特化したスピノザの理論と方法論に関する高い知識を示しているのだけれども,ここからカメラ・オブスキュラのレンズに関してもスピノザは同じように高い理論的知識とその理論を応用する方法論があったと推定してもいいだろうと僕は考えます。ではだからスピノザがフェルメールに対して貢献することができる人物であったと結論していいのかといえば,まだその十分な要件を満たしてはいません。なぜなら,理論を応用する術を知っているということと,その術を実践できるということは,また違ったことであるといわなければならないからです。
 この場合にフェルメールにとって,光学に高い知識を有しているというだけの人物は,フェルメール自身が求めている人物とはまったくいえません。むしろ理論的知識に関しては高度ではなくても,その応用に卓越した方法論を有した人物がいたとしたら,そちらの方が有益であった筈です。でもそれだけでも完璧ではないのです。なぜなら理論を応用して高性能のレンズを製作する方法に熟知している人物が,その方法論の通りに実際にレンズを製作することができるとは限らないからです。むしろ方法論は知らずとも,それを教えればその通りにレンズを製作することができる腕利きの職人が存在したとすれば,その人物こそ最もフェルメールに貢献できたとする余地があるのです。
 「天文学者」のモデルがスピノザであるためには,スピノザは方法論を熟知している職人であるという二役を満たさなければなりません。
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国際自転車トラック競技支援競輪&理論と応用

2016-02-07 19:19:47 | 競輪
 向日町競輪場で3日制のGⅢとして実施された国際自転車トラック競技支援競輪の決勝。並びは村上‐安部の東日本,稲毛‐西岡の和歌山,窓場‐沢田の近畿,才迫‐星島の山陽で西川は単騎。
 沢田がスタートを取って窓場の前受け。3番手に村上,5番手に才迫,7番手に西川,8番手に稲毛の周回に。残り3周のバックで稲毛が上昇。ここに才迫が続きました。才迫はホームでさらに外から上昇して稲毛の前に。これを村上がバックの入口で叩き,西川が続いて打鐘。村上の3番手に西川,4番手に才迫,6番手に稲毛,8番手に窓場の一列棒状に。稲毛は後ろの窓場を気にし過ぎて動けず。窓場はホームから発進していきましたが,これを見た才迫が先捲りを打つ形に。安部は才迫は止められず,番手の星島の位置を奪いにいきましたが,内に潜った西川に前に出られました。才迫は村上を捲りきると直線でも後ろとの差を広げていくような快勝に。スイッチした西川が2車身差の2着。安部が1車身差で3着。
 優勝した広島の才迫開選手はこれがS級での初優勝。11日に全日本選抜が開幕する関係で,GⅢとはいってもそこまで強力なメンバーではありませんでした。ですがFⅠでも優勝経験がなかったわけで,番狂わせといってもいいかもしれません。101期の23歳ですからまだまだこれから力をつけていく筈の選手であり,すぐにというわけにはいかないと思いますが,ゆくゆくは記念競輪やビッグでの活躍を期待してもいいだけの素質はもっている選手だと思います。

 書簡三十九書簡四十からいくつかのことが理解できます。
                                    
 第一にスピノザが光線屈折学について高度な理論的知識を有していたことです。僕には内容の正否は分からないのですが,知識が高度であったということに関しては多言を要さないでしょう。
 第二に,スピノザが有していたその知識は,人間がものを視るという場合よりも,望遠鏡のレンズの製作により多く関連付けられていたということです。他面からいえばスピノザにとっての光線屈折学というのは,医学的な意味での人体の解明という見地から重要であったというよりも,天体観測や顕微鏡観察といった光学的な見地から重要であったということです。これはもしかしたら一般に光線屈折学という学問がそういう性質のものであったのかもしれませんが,スピノザの場合にこれが妥当するということについても詳しい説明は不要でしょう。
 第三に,実際に望遠鏡を製作するにあたって,その光線屈折学の理論をどのように応用すればよいのかという知識もスピノザにはあったということです。いい換えれば望遠鏡を製作するための理論とそれを実践するときの注意点をスピノザはよく理解していたということです。この点はたぶん重要なのです。理論的知識があったとしても,それを適用すれば高性能の望遠鏡が製作できるというわけではありません。むしろこの理論を製作という実践に使用する場合には,理論の中の何を重視しなければならず,何を無視してもよいのかということを合わせて知っておく必要があります。つまりたとえば望遠鏡を製作するという行為は,単に光線屈折学を適用する行為というよりは,それを応用するような行為であるといえます。このいい方をそのまま用いるとするなら,スピノザは理論について高度な知識を有していて,その理論を応用する方法論についても同じ程度の高度な知識を有していたということになります。
 これらはいずれも望遠鏡のレンズに特化して書かれてはいます。しかしここから,カメラ・オブスキュラのレンズの理論と応用についても,スピノザは程度の高い知識を有していたと結論しても,さほど無理があるということはできないでしょう。
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自殺の方法&書簡四十

2016-02-06 19:04:08 | 歌・小説
 先生は自ら生命を断つことを決意したとき,自分の死が奥さんに対して残酷な恐怖を与えることを避けることを同時に決意しました。これは『こころ』の最終章の中にある通りです。そしてこの残酷な恐怖というのが,先生の場合には血の色と直結しています。これは当該部分のテクストを読めば明白であるといっていいでしょう。
                                    
 奥さんは血の色に残酷な恐怖を感じるであろうと先生が推定したのは,先生自身の過去の経験と直結しているというのが僕の考え方です。すなわち学生時代にKが先生を第一発見者とするべく部屋を仕切っていたを少しだけ開けて自殺したときの血の色が,先生の恐怖感に直接的に結びついていると僕は考えるのです。そのとき先生が感じた恐怖というのは,単に物理的なものに対する恐怖であったとはいえないと僕は思います。ということは奥さんも先生の血の色を見ることで,先生が感じたのと同じような恐怖を感じることになると先生は想像していた可能性もあるでしょう。
 そこの部分は判然とはしませんが,先生はこの種の恐怖を奥さんに与えないために,血の色を見せないで自殺するのだと宣言しています。それどころか奥さんには頓死したと思われたいという胸の内を明かしています。つまり自殺なのだけれども,事故死でもしたかのように思われたいといっているのです。ですから先生はそのような方法で自殺したと考えるのが妥当でしょう。
 私と先生は鎌倉の海で出会います。上の三で私は先生を追って海に入ります。すると先生が手足の動きを止めて仰向けのまま波の上に寝ます。この先生の姿が水死体を連想させるのはいうまでもありません。この水死体は血の色を見せず,かつ事故死であると推定することもできます。つまり先生が決断した自殺の方法ときわめて合致しているといえるでしょう。
 先生は海に入って自殺した。でもそれは事故死のように思われた。『こころ』の下に続くストーリーとして,大いにあり得そうに僕には思えます。

 イエレス書簡三十九に対して,補完的な説明を求める手紙をスピノザに送りました。それに対してスピノザが返答したのが書簡四十です。
 この書簡にはみっつの主題が含まれています。この理由は,この書簡がイエレスからの別々の2通の書簡に対してまとめて答えたものだからです。現状では先にイエレスが出した手紙への答えの部分,書簡でいうと最初のふたつの主題に関しては関係ありませんので,最後の主題についてだけここでは説明します。ただしこれも僕がここでいうのはスピノザが何をいっているのかということだけであって,その内容が正しいのか間違っているのかに関する判断ではありません。僕はそれについて判断不可能であるのは,書簡三十九の場合と同様です。
 この部分に対するイエレスの質問というのは,書簡三十九について,望遠鏡のレンズの形として円が最も優れているということを,もっと詳しく説明してほしいというものでした。ですがスピノザにはこのことは簡単だったようで,補充的な説明というのは少ししか加えていません。
 望遠鏡でたとえば星を観察するという場合,その星から望遠鏡の前方のレンズに届く光線というのが,平行になっている必要があります。ですがこれはあくまでも理論なのであり,実際には平行ではありません。星は観察者からきわめて遠方に実在するので,望遠鏡のレンズは,星からみれば点であるとみなせます。なので実際には平行ではない光線を平行とみなせることになります。いい換えれば望遠鏡を実際に製作する際には,すべての光線がレンズに対して平行でなければならないという理論は無視してよいことになります。
 ただしそれを無視することができるのは,レンズが円形であるからです。円形であると光線がレンズを通過するときに,同じ数の焦点に集中するからです。つまりそのような特質を有するような形状というのが,望遠鏡のレンズの形状として最適なのです。そしてそういう特質を有する形状は円だけなのです。円弧は一点から発する光線が直径上のほかの一点に必然的に集中させる特質を有するからです。これは観察対象のほかの点から来る光線についても同様です。
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王将戦&書簡三十九

2016-02-05 19:51:17 | 将棋
 昨日から大田原市で指された第65期王将戦七番勝負第三局。
 郷田真隆王将の先手で相掛かり。引き飛車にした先手が右の銀を動かす前に▲7六歩と突いたのをみて後手も引き飛車に構えました。全般的にいってこの将棋は先手が攻めあぐねた感がありますので,序盤は先手の失敗だったのではないかと思います。
 終盤で華麗な寄せが決まりました。
                                     
 先手が2八の飛車を引いて下段からの攻めに備えたところ。後手は△2五桂▲4六角△3七桂成▲同角という手順で桂馬を交換して△7四桂と打ちました。先手は▲5五銀と逃げました。
 ここで△8九歩成と成り捨て▲同飛に△8六歩。先手は取らずに▲7五歩と打ったのですがそこで△8五桂とただのところに跳ねました。
 取ると飛車が素通しになって先手玉は寄るようです。なので▲7四歩とこちらを取りましたが△7七桂成▲同金に△8八銀とまたただのところに打つ手が発生。
 これは取れば△7九角で寄りますから▲7六金△8九銀不成の飛車交換は必然。このまま△7八飛と打たれてはいけませんから▲7九銀と受けましたが△8八角とまたただのところに打つ手が決め手になりました。
                                     
 先手は手掛かりがないので攻め合いにいくのが難しく,その機を生かして後手が一気に寄せてしまった将棋といえるでしょう。
 羽生名人が勝って2勝1敗。第四局は16日と17日です。

 イエレスに宛てた書簡のうち,まず書簡三十九に注目します。これはデカルトの光線屈折学が主題となった書簡です。ただし,僕は光学には無知ですから,内容の真偽は不明です。以下に示すのは,そこでスピノザが述べている事柄であり,それが正しいかどうかの僕の判断ではありません。
 イエレスがどういう主旨の質問をしたのか,この書簡からは僕には不分明です。ただ,スピノザが述べていることからすると,スピノザはデカルトが示した理論には不十分なところがあると考えているようです。デカルトは映像が眼底に現れる場合,光線が目から遠いところで交叉するのか近いところで交叉するのかだけで決定されるといっているというのがスピノザの読解です。これに対してスピノザは,光線屈折学を正しく理論化する際には,光線が目の表面で交叉し合う場合に形成する角度を考慮に入れなければならないとしています。そしてこのことが,望遠鏡のレンズを製作する場合に特に重視しなければならない理論なのだけれども,デカルトはそれを黙殺してしまっているとしています。
 要するにスピノザの考えでいえば,デカルトが示した理論は,望遠鏡を製作するという場合には不十分だということになります。他面からいえば,デカルトの理論だけを応用して望遠鏡を製作すると,高性能の望遠鏡を製作することは不可能だということになるのでしょう。
 一方でスピノザは,デカルトが光線が目の表面で交叉し合うときの角度という原因を無視したのは,円形をほかの形に優越させないためだったかもしれないといっています。つまりスピノザの考えだと,望遠鏡のレンズは円形が最も優れているのですが,デカルトはそういう結論を出すことを嫌ったのではないかとスピノザは考えていることになります。
 デカルトの理論だけを応用すると,望遠鏡の長さだけを重視して望遠鏡を製作しなければなりません。このために高性能の望遠鏡を製作するためには,きわめて長い望遠鏡を製作する必要が生じます。しかし目の表面の交叉箇所の角度の理論を応用すると,望遠鏡のレンズの焦点距離を調整するだけで高性能の望遠鏡を製作できるのです。
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社会契約&イエレスの特異性

2016-02-04 19:25:53 | 哲学
 現実的に存在する人間は,生まれながらに与えられている自然権jus naturaeの一部を譲渡することによって,かえって自然権の拡張に成功するというケースが生じます。スピノザの政治理論は基本的にこのことを基礎にしていると僕は考えています。ある人間の自然権とはその人間がなし得ることと同義なのですから,スピノザの政治理論において政治が果たす役割というのは,第一義的には人間がなし得る事柄を大きくするという点にあるというのが僕の解釈です。
 ひとりよりもふたりの方がなし得る事柄が大きくなる限りにおいて,そのふたりは互いに互いの自然権の一部を譲渡し合う方がより大きな自然権を獲得できます。そこでもっと多数の人間が同じように自然権を譲渡し合うならば,一人ひとりがそれだけ多くの自然権を獲得できることになるでしょう。ここから主権という概念notioが発生します。すなわち現実的に存在する人間が主権者に自然権を譲渡することで,その主権者の下にある人民は大きな自然権を獲得することになります。こういう意味での自然権の譲渡が,スピノザの哲学における社会契約であると僕は解します。社会契約説はホッブズThomas Hobbesの政治論の最重要概念ですが,政治理論に限定するなら,スピノザはそれを基本的に踏襲していると僕は思います。とりわけ『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』にみられる社会契約の概念は,明らかにこうした自然権の譲渡と同じ意味になっているといえるでしょう。
                                
 ただ,これはあくまでも政治理論なのであって,実践政治という面ではスピノザは違った考えをもっているようにも思えるのです。『神学・政治論』でみられるような社会契約は,『国家論Tractatus Politicus』では後退しているように僕には思えるからです。それは時を経てスピノザの考え方に変化が生じたからかもしれません。けれども僕には,『神学・政治論』は理論について言及しているのに対し,『国家論』は実践について言及しているからではないかと思えるのです。
 『スピノザとわたしたちSpinoza et nous』は,理論をそのまま実践に移そうとしているように僕には思えます。僕が違和感を覚える理由のひとつが,その点にあったかもしれないのです。

 編集者による書簡掲載にあたっての価値規準の判断が,僕が想定した通りのものであったなら,次のことが帰結しなければなりません。
 スピノザが遺稿集Opera Posthumaの編集者あるいは生きていたら編集者になったであろう人物に送った書簡のうち,遺稿集に掲載されたものは,シモン・ド・フリースSimon Josten de Vries宛が2通,ピーテル・バリングPieter Balling宛が1通,マイエルLodewijk Meyer宛が1通,シュラーGeorg Hermann Schuller宛が2通,ヨハネス・バウメーステルJohannes Bouwmeester宛が1通で,イエレスJarig Jelles宛は5通,無記名のものも含めると6通になります。
 このうち,イエレス以外に宛てた書簡はそのすべてが哲学に関係しています。バリンクに宛てたものは直接的には哲学が題材になっているとはいい難いものですが,スピノザの分析は明らかに哲学的といえるもので,編集者たちもそのように判断したから掲載されたものと僕は解します。
 これに対してイエレス宛と明記されている5通の内訳は,明らかに哲学と関連しているといえるものは1通だけで,3通は純然に自然科学が主題となり,残りの1通は『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』のオランダ語訳に関係するものです。さらに哲学と関連している1通も,冒頭部分はむしろ政治論になっています。
 相手がだれであるかは関係なく,これらの書簡はそのすべてが質問に対する答えです。要するにスピノザの親友たちのうち,イエレスだけはスピノザの哲学に特化して質問をしたのではないことになります。むしろほかの人たちに比べるなら,イエレスの哲学に関する関心は低かったといえるでしょう。他面からいえば,ほかの人たちは自然科学にはあまり関心がなかったか,精通していなかったといえるかもしれません。
 もう少し交際範囲を広げても,このイエレスの特異性は理解できます。ホイヘンスChristiaan Huygensとの文通は掲載されていませんが,ホイヘンスが『神学・政治論』を高く評価したのは間違いなく,単に自然科学にだけ興味をもっていたということはできません。またフッデJohann Huddeに至っては,おそらく自然科学を通してスピノザと交流をもったと推定されるのに,純粋に哲学的質問をスピノザにするようになりました。イエレスはやはりスピノザの親友の中では特異な存在だったといっていいでしょう。
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ユングフラウ賞&選別規準

2016-02-03 19:40:37 | 地方競馬
 桜花賞トライアルの第8回ユングフラウ賞
 逃げたのはワイズアンサー。オウカランブ,クラトイトイトイが続き,これらを先に行かせるような形でモダンウーマンが単独の4番手。この後ろはタケショウメーカー,クライフターン,リンダリンダ,ラッキーバトルの4頭がほぼ一団。その直後のポッドガゼールまでが集団で,残りの馬たちは置かれました。最初の600mは37秒1のミドルペース。
 向正面に入ってリンダリンダがモダンウーマンの外まで上昇。やや離れてタケショウメーカーとクライフターン,その後ろにポッドガゼールとラッキーバトルという隊列に変化。3コーナー手前で大外からリンダリンダ,内からモダンウーマンが上昇。オウカランブとクラトイトイトイを交わし,直線の入口では逃げたワイズアンサーも交わしました。ここから内のモダンウーマンがリンダリンダを突き放していき快勝。リンダリンダを追うように上昇してきたポッドガゼールがリンダリンダを差して3馬身差の2着。最後は一杯になったリンダリンダが4分の3馬身差で3着。
 優勝したモダンウーマン東京2歳優駿牝馬以来の実戦で南関東重賞3連勝。今日はうまくインコースを回ってこれた分の有利さがあったことは確かですが,最も重い斤量を背負ってこれだけの差をつけたのですから,能力が抜けているのも間違いないところ。桜花賞でも最有力候補でしょう。1600mへの距離の延長はさほど心配することはないと思いますが,桜花賞コースは内枠が絶対的に有利ですから,外目の枠に入った場合には,波乱の可能性もあるかとは思います。父はサウスヴィグラス。母の父は2000年のアンタレスステークス,2001年のアンタレスステークス,2002年の平安ステークス,2003年の平安ステークスとマーチステークスを勝ったスマートボーイ。祖母の半弟に2002年の阪神ジャンプステークスを勝ったミレニアムスズカ
 騎乗した川崎の山崎誠士騎手は昨年のユングフラウ賞以来の南関東重賞制覇。連覇で2勝目。管理している川崎の佐々木仁調教師はユングフラウ賞初勝利。

 スピノザがイエレスに送って遺稿集に掲載された書簡と,未掲載の措置が採られた書簡四十八の二の2通との比較からすると,自然科学であれ哲学であれ,スピノザが何らかの学術的内容を含む書簡をイエレスに対して送った場合には,編集者はそれは遺稿集に掲載する価値があると無条件で判断したと解しておくのが最も安全なようです。しかしその学術的内容に遺稿集の編集者が直接的に関係していたような場合には,スピノザが送った書簡の方も掲載には値しないと判断されたようです。これは純然に書簡の内容を価値判断したというよりも,相手がだれであるかを規準として判断したという可能性を含みます。なので実際に書簡の内容を掲載価値の規準に置いたとしたら,本来は掲載するべきものが排除され,それより価値が低いものが掲載されたということがあったと仮定しておく方がよいように思えます。
                                    
 これが選別の判断であったとしたら,マイエルが『聖書解釈としての哲学』の講評を求める書簡を送っていたとしても,マイエルからのものだけでなくスピノザからのものも未掲載になるので,そういった行為をマイエルはしなかったとは断定できないことになります。また,講読会のメンバーであったバリンクもリューウェルツを出版者として『燭台の上の光』という本を匿名で出版していますが,その講評をスピノザに求めなかったとは断定できません。バリンクは編集者ではありませんでしたが,生きていれば編集者になった人物であり,編集者が同じような考えを示したとしてもおかしくはない人物だからです。同じように生きていれば編集者になったであろうシモン・ド・フリースが送った書簡八は掲載されているとはいえ,これはフリースの著書と関係しているわけではありません。書簡九を掲載する上でこちらも掲載した方が分かりやすいという判断が適用されたのではないでしょうか。アルベルトから送られた書簡六十七は,僕にはまったく価値がない書簡であると思えるのですが,スピノザの返事の理解を容易にするために掲載されたのと同じような判断が,それよりは価値がずっとあるフリースからの手紙についてもされたというのが僕の考えです。
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玉藻杯争覇戦&ほかの書簡

2016-02-02 19:17:44 | 競輪
 高松記念の決勝。並びは深谷‐浅井‐有賀の中部,村上‐南の近畿,原田‐池田の四国で石井と山田は単騎。
 スタートは浅井が取って深谷の前受け。4番手に原田,6番手に村上,8番手に山田,最後尾に石井で周回。残り3周のバックの出口から村上が上昇。山田と石井も続きました。ホームの入口で村上が深谷を押さえると深谷は引き,石井の後ろに原田が入って一列棒状に。バックから深谷が発進。打鐘前に誘導を外していた村上が応戦して先行争いになりましたがこれは深谷がかましました。ですが3番手の有賀は離れ,村上が3番手,5番手に原田,6番手に有賀の隊列に。石井は動こうとしましたが前に進まず,バックから原田が発進。こちらはいいスピードでしたが追いつかれる前に3番手の村上に発進され万事休す。浅井が村上をブロックするところのインにうまく山田が入り浅井を捌くと,村上の後ろの南が深谷と山田の間へ。内から深谷,南,山田の3人がほぼ並ぶようにゴールイン。優勝は逃げ粘った深谷。8分の1車輪差の2着は写真判定で山田。微差の3着に南。
                                     
 優勝した愛知の深谷知広選手は大宮記念に続きこれで記念競輪3場所連続制覇となる通算12勝目。高松記念は2012年2013年に連覇していて3年ぶりの3勝目。ここはこのシリーズの結果と近況から浅井との勝負になるだろうと思っていました。展開上は離れてしまいましたが,有賀がいた分だけの有利さもあったと思います。かましにいったところで村上の抵抗があったので,楽なレースだったとは思いませんが,それでも粘るあたりはやはり復調しているとみてよさそうです。捌かれてしまったものの浅井もしっかりと仕事はしていて,ここしばらくはこのふたりが中心となっていきそうな気配です。

 書簡十二書簡九も哲学的に重要な内容を有していますが,中身については今は検討しません。ひとつだけいっておくことがあるとすれば,これらの書簡をみれば,スピノザは『デカルトの哲学原理』を出版する前後の時点において,『エチカ』の第一部の前半部分に関して,それ以後は変わることない確たる見解を有していたということです。
 掲載された書簡十二と遺稿集には未掲載だった書簡十五以外にも,スピノザとマイエルの間で書簡のやり取りがあったということは確実と僕は考えています。マイエルが『聖書解釈としての哲学』を出版したのはこれより後のことで,その後のふたりの書簡が遺稿集に掲載されていないということは,確かにふたりが仲違いしたことの根拠になるかもしれません。ですが,コレルスはスピノザの死を看取った医師をマイエルとしているのであり,それが本当はシュラーであったとしても,コレルスは宿主の証言を得ているのですから,マイエルも医師としてスピノザを診察していたのは間違いないと僕には思えます。なので未掲載のほかの書簡が存在したことも確実であり,それが掲載されていないことは,スピノザとマイエルが不仲になったということの証拠とはいえないのではないかと判断します。
 ただし,仮にそういった書簡があったとしても,次のようなこともまた確実視できると思います。
 スピノザがイエレスに宛てた書簡で遺稿集に掲載されたものは,哲学が主題になっているものも自然科学だけが主題になっているものもあります。これらの書簡はスピノザがイエレスの質問に答えたものと考えるのが妥当で,しかしイエレスが質問した書簡の方は掲載されなかったのです。ですからもしもマイエルが同じような内容のことをスピノザに質問したとしたら,スピノザはそれに確実に何らかの返事を送るでしょう。したがって遺稿集の編集者はイエレスへの書簡と同じような措置をとった筈です。つまりそうした内容のスピノザからマイエルへの書簡が掲載されていないということは,そういう書簡は存在していないということです。つまりマイエルはそういう質問をスピノザに書簡ではしなかったといえるでしょう。
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岡田美術館杯女流名人戦&書簡九

2016-02-01 19:40:07 | 将棋
 関根名人記念館で指された昨日の第42期女流名人戦五番勝負第三局。
 里見香奈女流名人の先手。序盤に駆け引きがあったように思いますがノーマル中飛車に落ち着きました。対して清水市代女流六段が右の金を6四に上がるという急戦策。非常に珍しい指し方で,僕の力では把握しかねますが,先手が途中で5九に飛車を引いた手が最大限に生きるような展開となり,そのあたりは先手が指しやすかったのではないかと思えます。ただ,左右の桂馬を跳ねていったのは急ぎ過ぎだったようで,それ以降は混戦になっているようです。
                                      
 後手が2四に桂馬を打って先手が受けたところ。ここで☖3三桂と跳ねて一気に終盤に。この手の善悪は推し量りかねます。
 ☗3四銀と出ていくのは仕方ないところでしょう。後手の☖4五桂も当然に思えました。そこで☗4六歩と打って桂馬を取りにいきました。危険な感じがしましたが,これで凌げていたのかもしれません。
 ☖1六桂打☗同香☖同桂は後手が前から狙っていた攻め筋。桂頭の玉寄せにくしの格言通りに☗1七王と上がるのも有力だったと思いますが☗3九王と下に逃げました。
                                      
 ここは選択肢がある局面で,実戦は☖3七歩と打ちましたが☗4五歩と根元の桂馬を取られ,後で☗4四桂と打てる形になり先手が抜け出しました。ここでは☖8六飛と角を入手するか,飛車を受けに利かしたままにするなら☖6六金と入り込む手が有力で,それだと勝負はどう転んだか分からなかったようです。
 里見名人が勝って2勝1敗。第四局は14日です。

 書簡八に対するスピノザの返答が書簡九です。畠中によればこれも原書簡が残っていて,編集の痕跡があるのだそうです。ただしこの編集はいずれは書簡を公開するつもりでいたスピノザ自身の手によるもののようです。したがって遺稿集Opera Posthumaに掲載されたのは,スピノザが公にしようと思っていた形のものであると考えてよいでしょう。たぶんスピノザはほかにもこのような編集を自身の手でなしていたと推測できます。こういったスピノザ自身の編集が,遺稿集の編集者たちが書簡を取捨選択し,また改変する際の参考材料になったものと僕は思います。
 この書簡はシモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesに宛てられたものですが,書簡八への返答なのですから,フリース以外にも読む人がいることをスピノザが書いている時点で想定したことは疑い得ません。少なくとも講読会のほかのメンバーがこれを読まないということはあり得ないからです。その証拠にスピノザ自身がこの書簡の中で,あなたたちの講読会とか,あなたたちの疑問というように,フリース以外の人を想定している語句を残しています。この時点では分かりませんが,マイエルLodewijk Meyerも後には講読会の会員になっていたのであり,書簡十二も同じ想定の下に書かれていると僕は解するのです。確かに書簡十二ではスピノザは二人称単数しか用いていないのですが,おそらくそれはこの書簡は,2通の返事をまとめたものだからです。このうちの1通は畠中が推測しているようにおそらく『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』を出版する依頼であり,これは購読会とは無関係に,マイエルが単独で願い出たものと思われます。
 書簡九と書簡十二にはさらに共通する点があります。書簡十二に副題が添えられているように,書簡九にもオランダ語版の遺稿集De Nagelate Schriftenには「定義と公理の本性について」という副題がつけられているのです。書簡十二は間違いなくスピノザの存命中から友人の間では閲覧されていたものでした。書簡九も同様であったと考えてよいでしょう。ならばそれを書くに際してのスピノザの想定も同じだった筈だといえます。
 なお,書簡九は公理Axiomaについても言及されていますが,ほぼ定義Definitioに関してのみ説明されているものです。
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