スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

アイリッシュチャンピオンステークス&スヒーダム

2024-09-15 19:25:39 | 海外競馬
 日本時間で昨日の深夜にアイルランドのレパーズタウン競馬場で行われたアイリッシュチャンピオンステークスGⅠ芝2000m。
 隊列が定まるまでに少々の時間を要しました。シンエンペラーは先頭から3馬身差くらいの4番手を抑えながら進みました。直線に入るところでは5番手に。直線で前の馬の間を割ろうとしましたが,馬が進んでいかず,勝ち馬と2着馬が外から抜けた後に外に出すと,もう1頭追い込んできた馬を差し返す形で勝ち馬から約1馬身差の3着でした。
 直線で馬と馬との間を割ることができなかったのが馬の気性によるものであるとしたら,それは課題として残ったといえるでしょう。この後は凱旋門賞に出走するようです。この馬自身は距離が伸びた方がよいような内容でしたが,日本馬はヨーロッパの馬に対して2000mでは上位になりますが,2400mになるとどうしても劣りますので,2400mでの力関係というのが最大の壁になりそうです。
 シンエンペラーに帯同したラファミリアはキルターナンステークスGⅢ芝2400mに出走。前半は好位を進みましたが途中で一杯。8着でした。この馬は1勝馬ですから仕方がない結果でしょう。

 スヒーダムSchiedamという地名は『スピノザ往復書簡集Epistolae』に出てきます。1665年1月28日付でブレイエンベルフWillem van Blyenburgに送られた書簡二十一は,スヒーダムから出されています。またその前に同じブレイエンベルフに宛てた,同年同月の5日付の書簡十九は,ランゲ・ボーハールトという地名から送られていますが,このランゲ・ボーハールトというのはスヒーダムの郊外と説明されていますので,同じ場所だったと思われます。スピノザは書簡十九の最後のところで,3週間か4週間はここに滞在するので,その間に手紙を送るのであればこちらに郵送し,それ以降になるのであればフォールブルフVoorburgへ送るようにブレイエンベルフに書いています。期間を考慮すれば,このランゲ・ボーハールトとスヒーダムというのが,同じ場所を意味していることは明白だといえます。
                          
 この頃のスピノザは自身も書いているように,フォールブルフのティードマンの家を借りて住んでいました。そこからスヒーダムに移動していたのは,ペストの流行が関連していたと推測されています。フォールブルフはハーグDen Haagの郊外で,そこではペストに感染してしまう可能性が高かったので,流行が収まるまでスヒーダムに避難したということです。したがってスヒーダムというのは,フォールブルフほどには大きな町ではなかったということでしょう。
 このスヒーダムに住んでいたのが,シモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesの兄弟姉妹でした。ですからスピノザをスヒーダムに誘ったのはシモン・ド・フリースで,むしろフリースから進言を受けて,スピノザがフォールブルフからの避難を決めたということだと思います。フリースは1667年に死んでしまうのですが,このときはまだ生きていたのですから,おそらくスピノザと一緒にスヒーダムに滞在していたものと思われます。
 フリースは裕福な商人でした。独身だったので遺産相続人にスピノザを指定しようとしたのですが,スピノザが断ったので,兄弟姉妹が相続しました。その代わりにスピノザには年金が支給されています。こうした事情もあり,フリースの弟には金銭的余裕があり,それで葬儀費用を出すこともできたのでしょう。
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長男の次男化&葬儀費用

2024-09-14 19:12:30 | 歌・小説
 『なぜ漱石は終わらないのか』の第九章の中で,長男と次男の関係の複雑さについて語られている部分があります。
                            
 この時代の家制度では,家督を長男がすべて相続することになっていました。次男は長男に何かがあった時の代理のような存在であって,だからたとえば『それから』では次男に代助という名が与えられているのです。逆にいえば漱石がそういう名を与えたということは,漱石はそのことに自覚的に小説を書いていたということになります。
 『こころ』では先生が叔父に財産を横領されます。叔父というのは父の先生の弟であって,家督を何も相続できなかったわけです。だからそういう人のことを長男は養う義務があったのであって,その長男が死んだ以上,先生には叔父を養う義務があったともいえます。そう考えれば,叔父が先生の財産を横領したことは,叔父にとっては当然の権利であったとみることもできるのです。
 『』という小説は,この長男と次男の関係が破壊されているという主旨のことがいわれています。宗助は長男ではありますが,各地を転々とした上で東京に出戻ってきたのであって,経済的にはむしろ困窮しています。それで父親が形見として残した屏風を売ることになるのですが,この屏風は正月に出すようなこの家,野中家ですが,その野中家の象徴のようなものなのです。長男である宗助は本来であればそれを受け継がなければならない存在,単に屏風を動産として受け継ぐという意味ではなく,野中家を受け継ぐという意味でも受け継がなければならないのですが,それを経済的な事情によって売ってしまうのです。これは長男が相続した家督を経済的に次男が売ってしまうという物語としてあるべきプロットなのであって,ここでは長男である宗助が次男化してしまっているのです。
 長男の次男化というのが『門』という小説の主題のひとつを構成していると解すると,またこの物語の中に違った意味を見出すことができるかもしれません。

 コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaでは,宿主が懇願を受けて葬儀の世話をしたとあります。この宿主がスペイクを意味するのは間違いありませんが,だれから懇願を受けたかは定かではありません。スピノザの友人だったかもしれませんし,もしかしたら地域の公職者であったかもしれません。そしてこの葬儀にかかる費用の全額に関しては,リューウェルツJan Rieuwertszがすべてを支払うという約束の保証になったと書かれていますが,この部分は日本語の文章として不自然であるように思えます。リューウェルツは葬儀の費用をスペイクに支払うことを保証したという意味であって,日本語の意味からすれば,リューウェルツは保証人になったということだと思います。
 ただしここで示されているのは3月6日付の手紙です。これは1688年3月6日とされていますが,それでは遅すぎますから,訳者の渡辺が訳注でいっているように,1667年の誤りでしょう。スピノザが死んだのは1677年2月21日で,25日に埋葬されたとされています。葬儀は埋葬の日だったと思われますから,リューウェルツが保証したという手紙はそれよりも後です。したがって,とりあえずスペイクが葬儀費用を立て替えておいて,その費用について後にリューウェルツが保証したというようにも読めますし,葬儀費用について事前にリューウェルツは何らかの方法でその費用を支払うという約束をしておいて,その約束を基に葬儀代をスペイクが立て替えたというようにも読めます。この部分の真相は分かりません。
 リューウェルツからスペイクに宛てられたこの手紙には,スヒーダムSchiedamの友人がスピノザの愛顧に報いるために,スペイクに支払うべき金額のすべてをリューウェルツに送ってきたので,それを同封するという主旨のことが書かれていたとありますから,この3月6日付の手紙がスペイクに届いた時点で,スペイクが立て替えた葬儀のための費用は支払われたのだろうと僕は解します。したがって,この手紙の中で葬儀費用についてリューウェルツが保証したという記述が,何を意味するのかが分からないのです。なおここに出てくるスヒーダムの友人は,シモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesの弟であったと思われます。
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報知盃東京記念&秘匿の理由

2024-09-13 18:51:25 | 地方競馬
 昨晩の第61回東京記念
 一旦は先頭に立ったラッキードリームを外から追い抜いていったランリョウオーの逃げ。一時的に2馬身くらいのリードにはなりましたが,1周目の正面では控えたラッキードリームが追いついてきました。3番手はナッジとカイルとウラノメトリア。6番手にアイブランコで7番手がデスティネとミヤギザオウ。ドスハーツは10馬身ほど離れた最後尾。2周目の向正面に入って3番手はナッジとウラノメトリアの2頭。4番手以下がカイル,アイブランコ,ミヤギザオウ,デスティネの順に。最初の1000mは67秒5という滅多にないほどの超スローペース。
 2周目の3コーナー手前からペースアップ。ランリョウオーにラッキードリームが並びかけて3番手もナッジとウラノメトリア。5番手にアイブランコ。直線でランリョウオーが一杯。先頭に立ったラッキードリームの外からナッジが追い,ナッジが前に出るとラッキードリームも一杯。抜け出したナッジが優勝。ウラノメトリアが3馬身差の2着でアイブランコが1馬身4分の3差で3着。ラッキードリームが2馬身差で4着。
 優勝したナッジは南関東重賞初制覇。北海道でデビューしてサンライズカップに優勝し,JBC2歳優駿も2着。南関東に転入して3歳の時はクラシック路線で善戦を続け,暮れにオープンで南関東での初勝利。それを考えれば南関東重賞を勝つのに時間が掛かったという気がします。このレースは力関係がはっきりしていると思われたのですが,前走でナッジが勝ったこのレースのトライアルで,離された3着と5着に敗れていた馬が2着と3着に入りました。それを思うとナッジ以外の有力馬が凡走したという印象も否めないところです。距離は長い方が力を出せるのでしょう。父は2012年に青葉賞とセントライト記念,2013年に日経賞と天皇賞(春),2014年に天皇賞(春)を勝ったフェノーメノでその父はステイゴールド。母のひとつ上の半姉に2011年のアイビスサマーダッシュとセントウルステークスを勝ったエーシンヴァーゴウ。Nudgeは小突く。
 騎乗した大井の矢野貴之騎手は10日のゴールドジュニアに続いての南関東重賞41勝目。東京記念は初勝利。管理している大井の佐野謙二調教師は南関東重賞2勝目。東京記念は初勝利。

 スピノザが使用していた机をリューウェルツJan Rieuwertszに送ったことについて,スペイクコレルスJohannes Colerusに話さなかったことには,ふたつの理由が考えられます。
                            
 ひとつは,スペイクがそのことの重大性に気が付いていなかったという場合です。スペイクは自分がリューウェルツに渡したのは単に机であって,その中にスピノザの遺稿が入っているということを知らなかったとしたら,そのことはスペイクにとってとくに大きな意味があることではありませんから,あえてスペイクに話す必要はありません。むしろスピノザが死んだ後に自分がなした多くの事柄のうちのひとつとして,もう忘れてしまっていたということさえありそうです。コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaにはスピノザの遺品がどのようなものであったのかということが,かなり詳細に書かれているのですが,それはすべて記録を基にコレルスが調べたものであって,スペイクから伝えられたことではありません。いい換えればスピノザの遺品にどのようなものがあったかということは,スペイクはコレルスに何も話していないのかもしれません。もしかしたら遺品がどのようなものであったのかということ自体がスペイクにとっては意味のある情報ではなかったのであって,机もそのひとつであったのかもしれません。
 もうひとつ,逆にスペイクは事の重大性に気付いていたからあえてそれを秘匿したということも考えられるでしょう。スペイクがその机をリューウェルツに送ったからスピノザの遺稿集Opera Posthumaが発行される運びになったのですが,その遺稿集はすぐに発売禁書の処分を受けました。これは逆にいえば,意図があったかどうかということは別に,スペイクが禁書の発行に貢献を果たしたということ意味します。他面からいえば,スペイクは禁書に指定されるような本の発行を防ぎ得る立場にあったのに,それをしなかったということを意味します。これはスペイクにとって公にしたくないことであったとしてもおかしくないでしょう。だからスペイクはこのことをコレルスには伝えなかったというケースも考えられると思います。
 いずれにせよこのことはコレルスの伝記に書かれなかったのですが,リューウェルツの名前は出てきます。
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スポニチ盃アフター5スター賞&机

2024-09-12 18:59:29 | 地方競馬
 昨晩の第31回アフター5スター賞
 ブラックストームは発馬であおって4馬身の不利。ハセノエクスプレスが前に出て内からエンテレケイア,外からカラフルキューブが追っていく形。ローウェルとジゼルが並んで続きマックスを挟んでプリンスリターンとスターシューターが併走。ラヴケリー,スワーヴシャルル,ブンロートの順で続きました。2馬身差でカセノダンサーで4馬身差の最後尾にブラックストーム。前の3頭は内からエンテレケイアが前に出て,ハセノエクスプレス,カラフルキューブの順に落ち着きました。前半の600mは34秒6のハイペース。
 3コーナーからも前の3頭は雁行。2馬身差でローウェルが続き,外から追い上げてきたのがマックスとスターシューター。直線に入るとカラフルキューブは一杯。ハセノエクスプレスの外からマックスが追い上げてきて,抜け出したエンテレケイアを追いました。差は一時的に詰まったのですが,そこからまたエンテレケイアが一伸び。鋭く逃げ切ったエンテレケイアが優勝。マックスが1馬身4分の1差で2着。ハセノエクスプレスが4分の3馬身差で3着。
 優勝したエンテレケイア習志野きらっとスプリントから連勝で南関東重賞2勝目。ここにきて本格化したという印象で,スピード能力を生かしての勝利。タイムからは重賞では厳しそうですが,南関東重賞のスプリント戦ではトップに立ったとみてよいと思います。父はアジアエクスプレス。Entelecheiaは哲学用語で完成された現実性。
 騎乗した金沢の吉原寛人騎手スパーキングサマーカップ以来の南関東重賞36勝目。第21回以来10年ぶりのアフター5スター賞2勝目。管理している浦和の小久保智調教師は南関東重賞69勝目。第21回,22回に続く9年ぶりのアフター5スター賞3勝目。

 これはあくまでも物語であって,実際にそうであったといいたいわけではありません。ただ,フッデJohann Huddeに対する配慮とライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに対する配慮の間には差があったということは厳然たる事実であって,その理由をどこに見出すかといったときに,僕が物語として提示した仮説を全面的に否定できるわけではないと思います。もちろんだからシュラーGeorg Hermann Schullerがスピノザの最期を看取ったのだとしなければならないわけではないですが,この仮説に対してわずかでも有利な条件になることは事実だと思います。とはいえコレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaが示しているのはその医師はマイエルLodewijk Meyerだったということであって,事実としてそうであったかもしれません。一方でこの医師がシュラーであった可能性もないとはいえないのであって,それも否定する必要はないでしょう。ただ,マイエルであるかシュラーであるかのどちらかなのであって,それ以外の人物ではなかったと思います。
                           
 スピノザの死後のことで,スペイクが関わったのだけれど,コレルスの伝記では触れられていない重要なことがひとつあります。
 スピノザは生前,もしも自分が死ぬようなことがあったら,おそらくスピノザが哲学の研究に使っていたと思われる机については,遺品として整理するのではなく,アムステルダムAmsterdamのリューウェルツJan Rieuwertszに送るようにスペイクに依頼していました。どのような形であったのかは分かりませんが,スペイクがこの依頼を忠実に守ったことははっきりしています。というのはこの机の中にスピノザの遺稿が入っていたのであって,編集者でもありまた印刷業と書店業を営んでいたリューウェルツの手にこの机が渡ったから,遺稿集Opera Posthumaの発刊が可能になったからです。したがってこのことは,それこそアムステルダムから来た医師が,スピノザが置いておいた金品をポケットに入れてその日のうちに帰ってしまったなどということと比べればよほど重要なことなのであって,伝記の中に記しておくべき事柄であったと思われます。しかしコレルスJohannes Colerusはこのことを記していません。これはたぶんコレルスがそのことを知らなかったからなのであって,つまりスペイクがそのことをスペイクに秘匿したからだと思われます。
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東京モノレール賞ゴールドジュニア&功績

2024-09-11 19:23:07 | 地方競馬
 昨晩の第5回ゴールドジュニア
 ラブミーメアリーが逃げて2番手にプリムスパールス。3番手にフリーダムでこの3頭が集団で先行。クロビーンズとユーロジータビートが並んで続きました。4馬身差でムサシエクスプレス。2馬身差でランベリーとオーシンレーベン。4馬身差でシビックドリーム。2馬身差でアレゴウドウレモン。後方2番手にシューボーイで3馬身差の最後尾にオニアシと,6番手以下はばらばらの追走。前半の600mは36秒4のハイペース。
 3コーナーからはラブミーメアリー,プリムスパールス,ユーロジータビートの3頭が雁行になりました。コーナーの途中でプリムスパールスは脱落。逃げたラブミーメアリーはユーロジータビートは振り切って直線で一旦は抜け出しましたが,直線の半ばで一杯。内から5頭目あたりを追い込んできたオーシンレーベンが先頭に立ちましたが,その内から馬群を捌いたランベリーが追いついてきて,2頭の競り合い。内から競り落としたランベリーが優勝。オーシンレーベンが半馬身差で2着。大外を追い込んだシビックドリームがクビ差まで迫って3着。
 優勝したランベリーは4月にデビュー。デビュー戦は大敗でしたが立て直した2戦目で勝利。その後は2着,3着で,2歳の重賞で勝つ戦績ではありませんでした。このレースは先行勢が総崩れとなるレースで,展開面の恩恵がありました。前走で1600mのレースを使っていたのですが,厳しい展開となって,その経験が生きたという面もあったと思います。父はモーニン。祖母の父はアグネスデジタル。母の6つ下の半妹に2020年のNARグランプリで2歳最優秀牝馬に選出されたソロユニット。L'Embellirはフランス語で美しくする。
 騎乗した大井の矢野貴之騎手は優駿スプリント以来の南関東重賞40勝目。第2回以来となる3年ぶりのゴールドジュニア2勝目。管理している大井の赤嶺本浩調教師は南関東重賞5勝目。ゴールドジュニアは初勝利。

 書簡七十および書簡七十二が公表されれば,スピノザとライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizとの間で書簡を通しての交流があったということが判明してしまうということは,この両方の書簡を読んだことがある人物でなければ分からない筈です。遺稿集Opera Posthumaの編集者のうち,その内容を事前に知っていたのは,書簡七十をスピノザに送り,書簡七十二をスピノザから受け取ったシュラーGeorg Hermann Schuller以外にあり得ないでしょう。ですからこの2通の書簡が遺稿集に掲載されなかったのは,ライプニッツの意向を汲んだシュラーの功績であったのではないかと僕は思うのです。ということは,それ以外の,この事前に交わされていたライプニッツとスピノザの間の書簡が遺稿集に掲載されなかったことも,シュラーの功績だったのではないでしょうか。
                            
 一方,シュラーとライプニッツは書簡で交流を続けていたのですが,書簡七十と書簡七十二を通してだけしかスピノザとライプニッツの書簡での交流があったということをシュラーが知らなかったら,ふたりの間での書簡というのは,哲学とか神学に関連するものだけであったと早合点してもおかしくはありません。そうなると,そうした書簡については掲載しないようにすることは可能であったかもしれませんが,書簡四十五および書簡四十六に関してはそうした内容を有していないので,そもそもそういう書簡があったということを見落としてしまい,掲載に至ってしまったということはあり得るでしょう。つまりシュラーは事前にライプニッツに関する書簡というのを,ほかの編集者たちが知らないうちに抜き取っておいたのだけれど,自身がそういうような書簡があるとは思うに至らなかった2通の書簡に関しては抜き取り忘れてしまったということです。
 もしも実際にこのような物語があったのだとしたら,シュラーが事前に書簡を抜き取る好機というのは,スピノザが死んだときであったと思われます。シュラーはこのことを編集者たちの知らないうちになさなければならなかったと同時に,スピノザも知らないうちになさなければならなかったのですから,もしもスピノザの臨終の場にシュラーがいたら,シュラーにとってそれは最大のチャンスだったでしょう。
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リコー杯女流王座戦&手違い

2024-09-10 18:54:20 | 将棋
 6日に指された第14期女流王座戦挑戦者決定戦。対戦成績は西山朋佳女流三冠が9勝,香川愛生女流四段が1勝。
 振駒で香川女流四段の先手。先手が工夫を凝らした序盤で,後手の西山女流三冠のノーマル四間飛車のような将棋になりました。
                            
 ここで先手は☗6六歩と突き☖3二飛に☗3七角と引きました。このために後手に☖4二角と引かれ3筋の交換を受けるために☗2六角と上がりましたが今度は☖2二飛と回られました。
 これで角を引くとまた☖3二飛でこれは千日手になります。先手での千日手はつまらないので☗4六歩と打開したものの☖2四歩☗同歩☖同飛で歩の交換に。
                            
 飛車角が重くこれで先手は作戦負けです。この後も一方的に殴られるだけの展開になってしまいました。第1図からの実戦の構想は拙かったようです。序盤に工夫していたのですが,おそらく四間飛車になることは想定していなかったので,準備が足りていなかったということだったのではないかと推測されます。
 西山女流三冠が挑戦者に。女流王座戦の五番勝負はタイトルを失った第11期以来の出場です。

 オランダ語版De Nagelate Schriftenを出版するときに手違いといえるミスはあったとはいえ,フッデJohann Huddeに対する編集者たちの配慮は行き届いていたものであったと僕は思います。これに対してライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに対する配慮は,手違いがあったといえるようなミスといえないのであって,部分的にとはいえはっきり配慮の欠如があったと僕は思うのです。そしてこの差異がどこから発生したかといえば,それはライプニッツがドイツの宮廷図書館の館員にすぎなかったのに対し,フッデは編集者たちも在住しているアムステルダムAmsterdamの市長であったことに帰することもできるでしょうが,フッデに対して何を配慮するべきなのかということは編集者たちの間で共有されていたのに対し,ライプニッツに対してどのような配慮をすればよいかということは,必ずしも共有されていなかったからではないかという見方もできると思うのです。つまり,ライプニッツに対して配慮をしなければならないということを知っていたのは編集者の一部であって,そのためにいくつかの配慮がなされたのだけれども,完全に配慮をすることはできなかったという可能性です。
 『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』にあるように,ライプニッツはスピノザと面会するためにオランダに入国したとき,まずアムステルダムでパリで知り合ったチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausの紹介状をもとに,シュラーGeorg Hermann Schullerと会っています。このとき以降,ライプニッツとシュラーの間には書簡での交流が始まりました。ですからライプニッツがスピノザとの交流のすべてを秘匿したいという希望を有しているということを,シュラーは知っていたのです。シュラーは同時に遺稿集Opera Posthumaの編集者のひとりですから,編集者たちの間でライプニッツに関する情報が共有されていなかったとしたら,シュラーがそれを共有していなかったということはないのです。いい換えれば,ライプニッツに対する配慮をなしたのはシュラーであって,しかもそれは,ほかの編集者たちとの情報の共有なしに,もしかしたらほかの編集者たちが知らないうちに,シュラーが独断でした配慮であった可能性があります。書簡七十書簡七十二は,シュラーが関係しているものなので,シュラーは事前に内容を知っていた筈です。
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韓国国際競走&配慮の欠如

2024-09-09 19:04:13 | 海外競馬
 韓国のソウル競馬場で行われた昨日の国際競走。
 コリアスプリントGⅢダート1200m。このレースは3頭が先行態勢。その中からジャスパークローネの逃げに。リメイクは2番手集団の内目を追走。直線に入るとジャスパークローネがついてきた馬たちとの差を広げ,一旦は抜け出しました。そこに外に出して襲い掛かってきたのがリメイク。鋭い脚で差し切って優勝。ジャスパークローネが2馬身差の2着に逃げ粘りました。
                            
 優勝したリメイクリヤドダートスプリント以来の優勝で重賞5勝目。コリアスプリントは昨年からの連覇。父は2016年にUAEダービーを勝ったラニ。母の父はキングカメハメハ。日本馬による海外重賞制覇はUAEダービー以来。韓国では昨年のコリアカップ以来。騎乗した川田将雅騎手はリヤドダートスプリント以来の海外重賞7勝目。コリアスプリントは連覇で2勝目。管理している新谷功一調教師はリヤドダートスプリント以来の海外重賞5勝目。コリアスプリントは連覇で2勝目。
 コリアカップGⅢダート1800m。クラウンプライドが逃げてウィルソンテソーロとライトウォーリアは前後するように中団から。先にライトウォーリアの方が動き,3コーナー過ぎに単独の2番手に上がりました。後から動いたウィルソンテソーロがさらに外から捲り直線の入口では2番手に。ただまだ5馬身ほどのリードをとっていたクラウンプライドには追いつけず,逃げ切ったクラウンプライドが優勝。ウィルソンテソーロが5馬身差で2着。ライトウォーリアは勝ち馬から13馬身差の4着。
 優勝したクラウンプライドマーキュリーカップから連勝で重賞4勝目。コリアカップは昨年からの連覇。父は2009年のきさらぎ賞と2010年のマイラーズカップを勝ったリーチザクラウンでその父はスペシャルウィーク。母の父はキングカメハメハで祖母の父はアグネスタキオン。母の3つ上の半姉が2012年のロジータ記念を勝ったエミーズパラダイスで5つ下の半弟が昨年の福島記念を勝ったホウオウエミーズ。騎乗した横山武史騎手は海外重賞初勝利。管理している新谷功一調教師はコリアスプリントに続いて海外重賞6勝目。コリアカップは連覇で2勝目。

 『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』では,遺稿集Opera Posthumaを手にしたライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizが書簡七十を読んで苦悶したと書かれています。しかし書簡七十は遺稿集に掲載されていなかったので,これはスチュアートMatthew Stewartによる創作です。この近辺はかなり詳しく叙述されているのですが,これだけ大きな創作が含まれているわけですから,ほかの部分にも創作が含まれていると解しておくのが賢明でしょう。
 編集者によるライプニッツに対する配慮があったことは間違いないと思います。ところがなぜか書簡四十五書簡四十六は遺稿集に掲載されたのです。したがって少なくともライプニッツとスピノザとの間に書簡のやり取りがあったということは公になってしまいましたし,これらの書簡の内容から,この後もふたりの間での書簡のやり取りは継続したであろうということも類推されることになったのです。
 この二通の書簡にはそれとは別の配慮がなされていました。書簡四十五でライプニッツは,スピノザとフッデJohann Huddeは親しいので,ライプニッツの光学の研究に関する講評をフッデにもしてほしいと依頼しています。書簡四十六ではスピノザはそれを受けて,フッデにそれを依頼したけれども現時点ではフッデは多忙なので,すぐには講評できないが,時間ができれば講評してくれるだろうという主旨のことをいっています。
 もしもこれらのことが遺稿集に掲載されれば,スピノザとフッデとの間の関係も公になっていました。ところが編集者たちはそれがフッデの要望に反することになるということが分かっていたので,その部分は名前を伏せるという処置を講じました。実は遺稿集のオランダ語版が出版されたときに,おそらく手違いでフッデの名前が掲載されてしまったために,ここでライプニッツが講評を依頼しているのがフッデであるということが判明してしまったのですが,少なくともラテン語版の遺稿集を出版したとき,編集者たちはフッデの要望を汲み取って配慮をしていたのは明らかなのであって,このフッデに対する徹底した配慮と比較したとき,ライプニッツに対する配慮の欠如はより明らかだといえるでしょう。この二通が掲載されたのは,手違いというには度を越しているからです。
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平安賞&共有

2024-09-08 19:07:05 | 競輪
 向日町記念の決勝。並びは脇本に武藤,窓場‐山田の京都に大森,清水‐松岡の西国で大槻と松谷は単騎。
 大森がスタートを取って窓場の前受け。4番手に脇本,6番手に松谷,7番手に清水,最後尾に大槻で周回。残り3周のバックの半ばから清水が上昇を開始。大槻も続きました。清水はコーナーで脇本の外に並び,そのまま併走。バックの手前からそのまま発進し,窓場を叩いて打鐘から先行。最後尾になってしまった松谷が内を進出。ホームで大槻の後ろに入りました。バックに入って窓場が発進。後方から脇本も捲ってきて捲り合戦に。大槻はインを突きましたが松岡と接触して直線の入口で落車。窓場が一旦は先頭に立ちましたが,大外の脇本が僅かに差し切って優勝。窓場が8分の1車輪差で2着。この両者の間に進路を取った武藤が4分の3車身差の3着でその外の山田が4分の3車輪差で4着。脇本よりも外を回った大森が半車輪差で5着。
                            
 優勝した福井の脇本雄太選手は福井記念以来の優勝で記念競輪15勝目。向日町記念は2021年2022年に優勝していて2年ぶりの3勝目。このレースは窓場と脇本が別々に戦うことを選択したので,あまり強固なラインが結成されませんでした。清水が先行するのは意外な展開でしたが,前受けした窓場にとっては悪くなかったと思います。松谷に入られてしまったのはたぶん誤算で,その分だけ発進のタイミングはやや遅れてしまったかもしれません。それでもやや離れた後方から前をまとめて捲り追い込んでしまった脇本が強かったというほかないでしょう。別々に戦ってワンツーですから,その選択も悪くなかったといえそうです。

 書簡三十四,書簡三十五,書簡三十六は編集者たちの手許に残りましたので,遺稿集Opera Posthumaに掲載されました。ただしこれら3通は,宛先が伏せられて掲載されたのです。当然ながらこれはフッデJohann Huddeに対する配慮であって,宛先を示してしまえば書簡の内容からフッデとスピノザの間で書簡を通しての交流があったということが明るみに出てしまい,フッデの要望を満たすことができなくなります。だから宛先を伏せた上で,編集者たちはこれらの書簡を遺稿集に掲載したのです。これは実際に有効だったのであって,これらの書簡はスピノザがホイヘンスChristiaan Huygensに出したものであると想定されてきた歴史があります。
 フッデに対する配慮はほかにもあったのですが,それは後で説明します。僕の考えでは,フッデに対する配慮がこのように行き届いたものとなり得たのは,フッデの要望がどういうものであるかということについて,編集者たちの間で共有されていたからです。編集者たちがどのような役割をもっていたのかは分からないのですが,それぞれの編集者がそれぞれの役割を果たすことによって,スピノザとフッデとの関係が分からないような形で遺稿集の発刊が可能になったのだと僕は思うのです。
 フッデと同様の要望を有していたのがライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizです。ライプニッツに対しても編集者は配慮をしています。
 書簡四十五書簡四十六を読むと,スピノザとライプニッツとの間で哲学や神学を巡る書簡上の議論があったことが推測できます。また現にそういう議論が交わされたということは,書簡七十および書簡七十二の内容から確定的に史実として解してよいように思います。スピノザとライプニッツとの間で交わされた議論ですから,本来であれば遺稿集に掲載するに値する内容をもっていたということが容易に推測されます。ところがそれらの書簡は,何通あったかは分かりませんが,遺稿集には掲載されませんでした。また,そうした書簡があったことを確定させる内容の書簡七十と書簡七十二の2通も,遺稿集には掲載されていません。これはライプニッツがスピノザと交流があったことを秘匿したいと思っていて,編集者がそれを知っていたからだとしか思えません。
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王座戦&フッデの要求

2024-09-07 19:22:01 | 将棋
 4日に鶴巻温泉で指された第72期王座戦五番勝負第一局。対戦成績は藤井聡太王座が15勝,永瀬拓矢九段が7勝。千日手が二局あります。
 振駒で永瀬九段の先手となり角換わり。後手の藤井王座が☖3三金型を選択。後手の早繰銀に対して先手が腰掛銀から銀矢倉に。先手が歩を損する代償に馬を作り,後手も角を打ったので,角換わりというより先手の矢倉に後手の雁木という戦型に近い戦いとなりました。
                          
 ここは手が広そうな局面。2筋の突破を目指すなら香車を打つところですが,打ち場所が2六,2七,2八と三箇所ある上,☗3五歩,☗5三歩,☗6五歩などもありそう。実戦は☗2八香と打ったのですが,どうも残り時間の関係で,その後の指し方を分かりやすくするという意図があったようです。
 ☖3一桂などと受けてくれれば先手が有望なのですが,後手は反撃に転じました。☖7六歩☗同銀☖7七歩☗同金☖7五歩☗6五銀☖5六銀☗同金☖7六桂というのがその手順。
                          
 これでどう応じても先手は自玉よりも早く後手玉を寄せる手段がなく,後手の勝勢となっていました。結果的に☗2八香が甘かったということになるのですが,第2図以下も一直線に攻めあって後手の勝ちというわけでもないので,後手の強さが光り輝いたという印象の一局でした。
 藤井王座の先勝。第二局は18日に指される予定です。

 フッデJohann Huddeは自身とスピノザの間に親密な交際があったことが世間に発覚することを危惧していました。アムステルダム市長がスピノザと親密な交際があったということは,一種のスキャンダルになりかねないからです。だから遺稿集Opera Posthumaの編集者と直接的なコンタクトを取り,そういうことが知られないようにする配慮を求めたのではないかと僕は思います。これは逆にいえば,遺稿集が発行されること自体は,フッデは許容していたということでしょう。
 おそらくそうしたコンタクトの中で,フッデは自身がスピノザに送った書簡を自分の手元に返却することを求めたのではないでしょうか。編集者たちはその要求に応じ,実際にそれをフッデに渡したのだと思います。だからスピノザがフッデに送った書簡は遺稿集に掲載されましたが,フッデからスピノザに宛てられた書簡は掲載することができなかったのだと推測されます。スピノザがフッデに送った書簡の内容は,フッデの質問に解答するという性質のものですから,本来であればフッデからスピノザに宛てられたものも掲載された方が,内容は分かりやすくなった筈です。
 スピノザからフッデに宛てた書簡が掲載されたのは,フッデがそれについては許容したか,そうでなければスピノザが出した書簡はフッデ自身の手許にあるわけですから,それと同じものを編集者たちが所有しているということに思い至らなかったからであるかもしれません。いい換えればスピノザが同じものを2通書いて,1通をフッデに送り,もう1通を自身で所持していたとは思わなかったからかもしれません。もしフッデにそのような習慣がなかったとすれば,その習慣をスピノザにも当て嵌めるということは大いにあり得ますから,この可能性もあるといわなければないでしょう。なお,フッデとスピノザとの書簡はオランダ語で交わされていたようですが,スピノザはそれをラテン語に翻訳し,したがって遺稿集に掲載されたのはスピノザが翻訳したラテン語文であったようです。
 どういった経緯があったにせよ,書簡三十四,書簡三十五,書簡三十六は遺稿集に掲載されることになりました。ただし掲載にあたっても配慮はなされたのです。
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スポーツニッポン杯若武者賞&配慮

2024-09-06 19:08:44 | 地方競馬
 昨晩の第2回若武者賞
                            
 好発はヤギリケハヤとベアバッキューンでしたが,あっさりとベアバッキューンの逃げに。ファイアトーチが2番手に上がり3番手にヤギリケハヤとルナフォルトゥーナ。5番手にゴールドモーニンとミヤギエンペラー。4馬身差でプレミアムハンド。7馬身差の最後尾にレッドサラマンダー。向正面に入ってベアバッキューンのリードが4馬身くらいに。2番手と3番手も2馬身くらいの差がつき,ミヤギエンペラーは3番手の2頭に追いついてきました。2馬身差でゴールドモーニン。2馬身差でプレミアムハンド。レッドサラマンダーは10馬身くらい離されました。ミドルペース。
 3コーナーを回ると2番手のファイアトーチが苦しくなり,内からミヤギエンペラー,外からゴールドモーニン。直線の入口でもベアバッキューンのリードは5馬身くらい。直線に入るとさらにリードが広がり,楽に逃げ切って優勝。外から2番手に上がったゴールドモーニンが9馬身差で2着。ミヤギエンペラーと内から追い上げてきたヤギリケハヤが競るところ,大外から伸びたプレミアムハンドが差して半馬身差の3着。ヤギリケハヤが半馬身差の4着でミヤギエンペラーが半馬身差で5着。
 優勝したベアバッキューンは7月に900mでデビューし8馬身差の圧勝。8月にこのレースのトライアルの1400メートル戦を7馬身差で勝ってここに出走。このレースも9馬身の差をつけましたので,現状のスピード能力で圧倒したという結果。スピードが持ち味ですから,本質的には距離は短い方がいい馬だと思います。父は2018年に安田記念,2020年に根岸ステークスとフェブラリーステークスを勝ったモズアスコット。母の父はネオユニヴァース
 騎乗した川崎の町田直希騎手は一昨年のしらさぎ賞以来の南関東重賞14勝目。若武者賞は初勝利。管理している川崎の鈴木義久調教師は開業から12年11ヶ月で南関東重賞初勝利。

 スペイクマイエルLodewijk MeyerともシュラーGeorg Hermann Schullerとも面識がなかった場合は,スペイクがアムステルダムAmsterdamから来たシュラーを,マイエルと誤認してしまうということがあり得ます。たとえばスピノザがマイエルが来るとスペイクに伝えておいたものの,それはスピノザの勘違いで実際に来ることになっていたのはシュラーであったとか,マイエルが来る予定であったけれど都合が悪くなったので代理としてシュラーが来たというような場合は,スペイクはアムステルダムから来たシュラーのことをマイエルであると思い込むということがあり得るからです。そして現にその可能性を否定する十分な要素はないので,この医師はマイエルでなくシュラーであったかもしれません。このことについては現時点での資料では確定することができないというほかないでしょう。
 これは前にも架空の物語としていったことではありますが,この医師がシュラーであったとするときには,ごくわずかな利点が生じると僕は考えています。ここでそのことを改めて説明しておくことも徒労ではないでしょう。
 スピノザの死後,編集者たちは協力して遺稿集Opera Posthumaの発刊にこぎつけました。ただその発刊にあたって,配慮しなければならないことがありました。『エチカ』が代表するようなスピノザの著作については,そのまま原稿を掲載すればよいのですが,『スピノザ往復書簡集Epistolae』については,相手もあることなので,そのままの掲載が憚られるケースがあったからです。というのは,スピノザと書簡のやり取りをしていた人物の中には,まだ存命中で,社会的に高名な人物が何人か含まれていたからです。そうした人の中には,スピノザと書簡上の,あるいは実際上の交際があったということが世間に知られることがマイナスに働くというケースがありましたから,一定の配慮をすることが編集者たちには要求されたのです。
 そうした高名な人物のひとりに,その時点でアムステルダムで市長をしていたフッデJohann Huddeがいました。岩波文庫版では編集者たちが一方的にフッデに配慮したという説明になっていますが,たぶんフッデは編集者たちとも面識があったので,直接的に希望が伝えられたのではないかと推測します。
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サンケイスポーツ盃戸塚記念&面識

2024-09-05 18:58:13 | 地方競馬
 昨晩の第53回戸塚記念。クラジャンクが出走取消となって13頭。
                            
 ヨルノテイオーが逃げて4馬身くらいのリードを取りました。サントノーレとローリエフレイバーが2番手。3馬身差でシシュフォスとムットクルフェとペルセヴェランテ。7番手にグラッシーズマンとアジアミッション。9番手にキタノヒーロー。10番手にマコトロクサノホコとオーウェル。12番手がフロインフォッサルで最後尾にカタルシス。ヨルノテイオーのリードは1周目の正面でも変わりませんでしたが,2番手の2頭と4番手の差は縮まりました。ミドルペース。
 2周目の向正面でキタノヒーローが外から上昇していったことでレースが動きました。ヨルノテイオーのリードがみるみるうちに縮まっていき,3コーナーからサントノーレが内から前に出て先頭に。マコトロクサノホコが単独の2番手に追い上げ,その後ろにローリエフレイバーとペルセヴェランテとシシュフォスの3頭。直線に入るとシシュフォスが単独の3番手に。先頭に立っていたサントノーレは直線で差を広げていって圧勝。シシュフォスはマコトロクサノホコにも追いつけず,後方から大外を追い込んできたフロインフォッサルが強襲。内の2頭を差し切って6馬身差で2着。マコトロクサノホコがクビ差の3着でシシュフォスがクビ差で4着。
 優勝したサントノーレは前走の京浜盃から連勝。南関東重賞は鎌倉記念以来の2勝目。重賞を勝っているくらいですから能力は上位。京浜盃の後に骨折があり,復帰戦という点は心配でしたが,能力発揮に大きく影響するほどではなかったようです。この馬は重賞でも通用することがもう分っていますし,たぶん古馬相手でも通用すると思います。父は2016年に北海道2歳優駿を勝ったエピカリスでその父はゴールドアリュール。母の父がサウスヴィグラスで祖母の父がサクラローレル。Saint Honoreはパリにある通りの名称。
 騎乗した大井の笹川翼騎手はルーキーズサマーカップ以来の南関東重賞20勝目。第49回以来となる4年ぶりの戸塚記念2勝目。管理している大井の荒山勝徳調教師は第39回以来となる14年ぶりの戸塚記念2勝目。

 書簡六十八から分かるように,スピノザはハーグDen Haagに住むようになってからも,アムステルダムAmsterdamまで出掛けることがありました。これと同様に,アムステルダムにいたと思われるシュラーGeorg Hermann SchullerやマイエルLodewijk Meyerが,しばしばハーグを訪れていたとすれば,そのときにはスピノザと会うためにスペイクの家にも来たと思われます。この場合は,マイエルやシュラーとスペイクの間に面識があったと考えるべきであって,スペイクがマイエルを他人と間違えることはなかった筈です。よってこの場合は,アムステルダムから来た医師はマイエルであるとスペイクがコレルスJohannes Colerusに伝えているわけですから,確かにこの医師はマイエルであったといわなければならないでしょう。
 さらに,この医師がマイエルではなくシュラーであったとする場合には,シュラーがハーグを訪問することもなかったとしなければなりません。マイエルとスペイクとの間に面識がないのであれば,スペイクは別人をマイエルであると思い込むことはあり得ますが,シュラーとスペイクの間に面識があったならば,マイエルをシュラーと間違えるということは生じ得ないからです。その場合はアムステルダムから来た医師のことをスペイクはシュラーであると認識することになりますから,その医師をマイエルであったとスペイクに伝えることはあり得ないからです。
 したがって,もしもアムステルダムから来た医師が本当はマイエルではなくシュラーであったということを主張する場合には,スペイクとマイエルの間には面識はなかったし,スペイクとシュラーの間にも面識はなかったということが条件になります。これがあったかなかったかを確定することは僕にはできませんが,なかった可能性を否定することができないということは認めます。たとえば書簡七十の冒頭で,シュラーはスピノザが元気であるかどうかを尋ねています。もしもシュラーが頻繁にスピノザと会っていれば,そのような質問をする必要はないでしょう。なので,シュラーとスペイクの間に面識がなかった可能性は否定できません。マイエルに関してはまったく分かりませんから,マイエルとスペイクの間に面識がなかった可能性も否定できません。
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ヒューリック杯白玲戦&医師

2024-09-04 19:13:47 | 将棋
 8月31日に台場で指された第4期白玲戦七番勝負第一局。対戦成績は西山朋佳白玲が33勝,福間香奈女流五冠が40勝。これはNHK杯の女流予選を含んだ成績です。
 ヒューリックの会長による振駒で福間女流五冠が先手となり,中飛車。後手の西山白玲の向飛車で相振り飛車でしたが,先手が左玉にしましたので,対抗形に類似した将棋でした。
 後手から仕掛けて桂損の代償に飛車を成り込みました。この辺りは後手がうまくやっていたのですが,先手の端攻めに対する応対を誤ったために逆転。先手が勝勢といっていい局面まで進みました。
                                      
 厳密にいうとここまでの先手の攻め方にも危ういところがあったかもしれませんが,まだ先手の勝勢です。ここで☗7一馬と逃げておけば,後手から有効な反撃がないため先手の勝勢が続きました。
 実戦は☗6六馬とこちらの馬を龍取りに引きました。このために☖7七香の勝負手を与えることに。
 ここで反省して☗同馬☖5三歩ならまだ先手が残していたようです。ただ,馬を引いたのは☖7七香を軽視していたからで,そうであれば馬を捨てる順には進めにくかったのだと思います。よって☗同桂と取ったのですが,☖8九銀☗6八玉☖8八飛☗7八香☖6七歩☗同馬☖5三歩という手順で馬を取られ,逆転しました。
                                     
 ☖7七香と打たれた局面でも先手にチャンスはあったのですが,指し手の流れからはその手順には進めにくい要素がありましたので,☗6六馬が実質的な敗着であったと思います。
 西山白玲が先勝。第二局は14日に指される予定です。

 コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de SpinozaではアムステルダムAmsterdamから来た医師のことが,事実上はマイエルLodewijk Meyerとされていますから,ナドラーSteven Nadlerはこの医師がマイエルであったと解しています。ただ『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』の記述は,確定的になっているわけではなく,この医師がシュラーGeorg Hermann Schullerであった可能性も示唆されています。これは,実際はこの医師がシュラーであったという説が,識者の間で流通しているからです。それは後にシュラーが,チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausに対してスピノザが死んだときに自身がい合わせたといっていること,およびライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに対して,スピノザの死の前後にスピノザの所持品を確認したと伝えていることに由来しています。スピノザの伝記としては古典の部類に入るといっていい『スピノザの生涯Spinoza:Leben und Lehre』において,フロイデンタールJacob Freudenthalがすでにこの医師はシュラーであったということを確定的に書いています。
 フロイデンタールは,そもそもスペイクコレルスJohannes Colerusに対する報告が曖昧なものであって,GSというイニシャルにするべきところをLMとしたのだという意味のことをいっていますが,これは根拠が分かりません。コレルス自身はマイエルにもシュラーにも会ったことはない筈なので,イニシャルを意図的にであれ勘違いであれ書き換えるという必要性があるようには思えないからです。なので僕はスペイクがこの医師はマイエルであったとコレルスに伝え,しかしマイエルのなしたことに対するスペイクの話には信憑性を欠く要素があると判断したので,それをイニシャルで示したというように解します。これはつまり,アムステルダムから来たこの医師について,それはマイエルであったという認識をスペイクがもっていたと解釈するという意味です。
 この解釈を採用した場合,もしも実際にこの医師がマイエルではなくシュラーであったという場合には,絶対的な条件が発生します。もしもスペイクがこの医師について,それはほかならぬマイエルであったと断定することができるのであれば,この医師は間違いなくマイエルであったというほかないのですから,シュラーであったとするには無理があります。つまりスペイクはほかの人物をマイエルと間違え得るのでなければなりません。
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農林水産大臣賞典不来方賞&イニシャル

2024-09-03 19:01:39 | 地方競馬
 第56回不来方賞
 逃げたのはカシマエスパーダで2番手にサトノフェニックスとパッションクライ。4番手のサンライズジパングまでは一団。2馬身差でフジユージーンとタイセイミッション。5馬身差でサクラトップキッドとブラックバトラーとルボートン。3馬身差でバウンスライト。2馬身差でマルーントリックで最後尾にベルベストランナー。スローペースでした。
 3コーナーを回ると2番手がサトノフェニックス,パッションクライ,サンライズジパングの3頭で併走。ここからパッションクライが脱落したので直線の入口ではサトノフェニックスとサンライズジパングの2頭が2番手。逃げたカシマエスパーダに対してサトノフェニックスは内,サンライズジパングは外へ。外のサンライズジパングがカシマエスパーダを差して抜け出し快勝。逃げ粘ったカシマエスパーダが3馬身差で2着。サトノフェニックスは突き放されて4馬身差の3着。
 優勝したサンライズジパングは若駒ステークス以来の勝利で重賞初勝利。デビュー2戦目をダートで勝った後,JBC2歳優駿で2着。暮れのホープフルステークスで3着に入ったため,今年は芝のクラシック路線を走りました。久々のダート戦でしたが,JBC2歳優駿はフォーエバーヤングから1馬身半差でしたので,力量は上位である可能性が高かった馬。今日の結果をみると,ダートの適性の方がより高いということになると思います。父はキズナ
                            
 このレースは今年から重賞になりました。騎乗した武豊騎手と管理している音無秀孝調教師は不来方賞初勝利。

 スピノザの伝記ですから,アムステルダムAmsterdamから来た医師がスピノザに対してどのような処置をしたのかということを記述することには意味があります。しかしその後にスピノザの金銭とナイフをポケットに入れてその日のうちにアムステルダムに帰り,スピノザの葬儀に姿を現さなかったなどということは,スピノザの伝記としての情報としては不要といえます。なのでこのようなことがなぜ事細かに書かれているのかということは僕にとって疑問ですが,ただひとつ確かにいえるのは,この詳細をコレルスJohannes Colerusに伝えたスペイクは,よほどこの医師に対して腹に据えかねるものをもっていたということです。とはいえその理由が,医師のスピノザに対する態度だけであったと断定することはできないのであって,伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaには書かれていないスペイクに対する医師の態度にスペイクは怒りを感じていたので,このようなことをコレルスに伝えたという可能性も考えておく必要があるでしょう。
 この医師は伝記の中にはフルネームは伏せられ,LMというイニシャルで示されています。これはスペイクが本名をコレルスに伝えなかったからかもしれませんが,スペイクがこの医師に対して怒りを感じていたのは確実だと僕には思えますので,あえて名前を伏せる必要はなく,もしもスピノザの伝記を書くのであれば,むしろこの医師の行動を事細かにコレルスに書いてほしかったのではないかと思えます。なので本名を伏せてイニシャルで記述したのは,コレルスのこの医師に対する配慮だったのではないかと推測します。いい換えればコレルスは,スペイクに伝えられたことの信憑性に多かれ少なかれ疑問を感じたので,フルネームは記さずにイニシャルで記述したのではないかと思います。コレルスがスペイクの話に対して全体を通してどれだけの裏付けをとっていたのかは分かりませんが,この点は信憑性を欠くところがあるとみていたのは確かであるように思えます。
 LMというのはスピノザの友人関係からしてマイエルLodewijk Meyerのことを指していることは疑い得ません。つまりスペイクは,スピノザの死を看取ったアムステルダムから来た医師は,マイエルであるといっていることになります。
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瑞峰立山賞争奪戦ウインチケット杯&スペイク家

2024-09-02 19:23:46 | 競輪
 昨日の富山記念の決勝。並びは新山‐菅田‐守沢の北日本に内藤,石塚‐古性の近畿に井上‐香川の西国で吉田は単騎。
 古性がスタートを取って石塚の前受け。5番手に吉田,6番手に新山で周回。残り3周のバックに入ると石塚が誘導との車間を開けて待機。新山も吉田との車間を開けました。残り2周のホームから新山が石塚を叩きにいくと石塚も発進。新山が古性の横あたりまで上がったところで打鐘。古性の牽制はあったのですが,新山は屈せず,残り1周のバックで石塚の前に出ようかの勢い。古性が石塚と新山の間を突いて自力で動くと新山は一杯。古性マークの井上は古性に続けず,新山マークの菅田が古性にスイッチ。しかし古性が後ろとの差を広げて優勝。菅田の後を追った吉田が直線で菅田を差して1車身半差で2着。菅田が4分の1車輪差で3着。
 優勝した大阪の古性優作選手はオールスター競輪から連続優勝。記念競輪は5月の函館記念以来となる12勝目。富山記念は初優勝。このレースは石塚と新山のどちらが前受けするかが最初の焦点。枠は守沢の方が内だったのですが,発走後のスピードが違いすぎて古性が誘導の後ろに入ったため,石塚の前受けとなりました。石塚と新山では脚力には差があるのですが,前受けした石塚の突っ張り先行が残り半周くらいまでいきましたので,古性には有利に。狭いところを突いて自力を出さなければならなくなりましたが,古性自身には余裕があったように感じられました。脚力は上位で展開も有利でしたから,当然の優勝といえるでしょう。

 老いた鶏を用意したのがだれであったか定かでありませんが,とにかくスペイク家の家人,たぶんスペイクの妻はそれを調理してから礼拝に向かいました。午前中の礼拝が終わってスペイクが妻とともに家に戻ると,スピノザはそのスープを食していたそうです。午後も礼拝があったので,スペイク家の人びとは揃ってまた出掛けたとあります。
                            
 スペイクは妻とふたりで暮らしていたわけではありません。子どもがありました。『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』では,おそらく1670年にスピノザがこの家に住むようになったとき,すでに3人の子どもがいて,さらに1677年までには4人の子どもが産まれたとありますから,早逝してしまった子どもがいなかったならこの時点で6人ないし7人の子どもがいたことになります。コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaだと前日の予備の説教と,この日の午前中の礼拝はスペイクと妻だけで出掛け,午後の礼拝だけ一家総出で出掛けたと読めるようになっています。ただ実際にそうであったかは分かりません。最後の部分は,アムステルダムAmsterdamから来た医師とスピノザのふたりだけがスペイクの家に残ったことを強調するためにこのように書かれている可能性があるからです。とくに,1677年に産まれた子どもというのがこの時点でいたなら,この子は乳吞児ということになりますから,いくら教会に行くとはいえそういう子どもを残していくのは考えにくいように思えます。
 スペイクの一家が礼拝から家に戻ると,アムステルダムから来た医師がスピノザが死んだことをスペイクに伝えました。出掛けるときは老いた鶏を調理したスープを食していた人が,礼拝から終わって帰ったら死んでいたのですから,スペイクにとって,あるいはスペイク家の人びとにとって,これは驚くようなことであったと思われます。医師はスピノザが机の上に置いておいた金貨ひとつといくらかの小銭,それから銀の柄のついたナイフをポケットに入れて,そのままその日の夕方発の船でアムステルダムに帰ってしまいました。二度とスピノザのことを顧みなかったとされていますので,その後の葬儀にも顔を出すことはなかったとスペイクはコレルスJohannes Colerusに伝えたかったのでしょう。
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農林水産大臣賞典サマーチャンピオン&老いた鶏

2024-09-01 19:00:34 | 地方競馬
 8月29日に実施予定であったものの,台風の影響で今日に順延された第24回サマーチャンピオン。JRAおよび高知の開催と重なったためラプタスは幸騎手から金山騎手,ホウオウスクラムは出水騎手から田中直人騎手,メイショウテンスイは西村淳也騎手から倉富騎手,サンライズホークはミルコ・デムーロ騎手から山口勲騎手,コパノパサディナは岩田望来騎手から川島拓騎手,テイエムトッキュウは北村友一騎手から石川慎将騎手にそれぞれ変更。飛田騎手は金沢へ遠征するためテイエムフェローは長田騎手に変更。
 発馬後の正面ではオールスマートとテイエムトッキュウの先行争い。3馬身差でテイエムフェローとメイショウテンスイ。3馬身差でコパノパサディナとサンライズホーク。アラジンバローズを挟んでラプタスとホウオウスクラム。タイガーインディが後方3番手。3馬身差でアビエルトで最後尾にテイエムフォンテ。先行争いはテイエムトッキュウが制したのですが,オールスマートが外に切り返して並んで行ったので,終始2頭で先行するレースになりました。ハイペース。
 向正面に入るとラプタスが内からするすると追い上げていき単独の3番手に。その後ろからアラジンバローズ,テイエムフェロー,メイショウテンスイ,サンライズホークの4頭が追い上げてきました。コーナーでも内を回ったラプタスが逃げたテイエムトッキュウの前に出て先頭で直線へ。追い上げてきたのはアラジンバローズでこの2頭の優勝争いに。競り落としたアラジンバローズが優勝。ラプタスが4分の3馬身差で2着。内を追い込んできたタイガーインディが2馬身差で3着。
 優勝したアラジンバローズは重賞初制覇。JRAで4勝。オープンでも2着があった馬で,昨年の9月に兵庫に転入。JRAでの実績からはここでも通用する余地はあったのですが,ずっと中距離を走っていた馬で,この距離への出走が初めてだったこともあり軽視してしまいました。2着馬とは6キロもの斤量差がありましたから,手放しで評価することはできませんが,距離はこのくらいの方がよいというのは間違いないでしょう。父はハーツクライ
 騎乗した兵庫の下原理騎手は2018年のサマーチャンピオン以来となる重賞4勝目。6年ぶりのサマーチャンピオン2勝目。管理している兵庫の新子雅司調教師は昨年のJBCスプリント以来の重賞8勝目。第18回以来となる6年ぶりのサマーチャンピオン2勝目。

 老いた鶏を調理したスープに関してはよく分からない点がふたつあります。
                            
 この部分の文章は,医師がそう命じたので,スペイク家で鶏を用意して調理したというようにも読めますし,鶏に関してはアムステルダムAmsterdamから医師が用意してきて,それをスペイク家の家人が調理したというようにも読めるようになっています。もし老いた鶏というのがそう簡単には用意できないものであったとしたら,この日の朝にそう命じられたスペイク家でそれを用意し,スピノザの昼食として提供するのは困難です。ですからそうであれば鶏は医師の方で用意していたという可能性が高いでしょう。一方,老いた鶏を調理したスープというのが,当時のオランダの家庭ではありふれたものであって,老いた鶏が家庭に常備されていることが多かったとするなら,医師がわざわざそれをアムステルダムからもってくる必要はないでしょうから,それを用意したのはスペイク家であったことになるでしょう。仮にスペイク家にはそれがなかったとしても,こういった状況ではそれを用意することは難しいこととは思えないからです。なのでこの点は,当時のオランダにおける老いた鶏を調理したスープというのが,一般的な家庭料理であったのかそうでなかったのかということから判断されなければならないと思います。
 もうひとつは医師のこの命令が,医療的な判断であったのか否かという点に関係します。たとえばスピノザは書簡二十八でバウメーステルJohannes Bouwmeesterに対して赤バラの砂糖漬けを所望しています。これはその当時は肺のカタル症状に効果的であるとされていたので,スピノザは医療上の効果を期待してそれを求めたのです。これと同じように,老いた鶏を調理したスープに,何らかの医療上の効果があると信じられていたなら,これは医療上の措置ということになるでしょう。しかし医師は単にそれがスピノザの好物であると知っていたから,スピノザにそれを飲ませてあげたかっただけかもしれません。後に示しますが,この医師はスピノザの友人でもあったからです。なのでこのことも,老いた鶏を調理したスープの位置づけが,オランダにおいてどうだったかを調べないと分からないのです。
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