スヒーダムSchiedamという地名は『スピノザ往復書簡集Epistolae』に出てきます。1665年1月28日付でブレイエンベルフWillem van Blyenburgに送られた書簡二十一は,スヒーダムから出されています。またその前に同じブレイエンベルフに宛てた,同年同月の5日付の書簡十九は,ランゲ・ボーハールトという地名から送られていますが,このランゲ・ボーハールトというのはスヒーダムの郊外と説明されていますので,同じ場所だったと思われます。スピノザは書簡十九の最後のところで,3週間か4週間はここに滞在するので,その間に手紙を送るのであればこちらに郵送し,それ以降になるのであればフォールブルフVoorburgへ送るようにブレイエンベルフに書いています。期間を考慮すれば,このランゲ・ボーハールトとスヒーダムというのが,同じ場所を意味していることは明白だといえます。
この頃のスピノザは自身も書いているように,フォールブルフのティードマンの家を借りて住んでいました。そこからスヒーダムに移動していたのは,ペストの流行が関連していたと推測されています。フォールブルフはハーグDen Haagの郊外で,そこではペストに感染してしまう可能性が高かったので,流行が収まるまでスヒーダムに避難したということです。したがってスヒーダムというのは,フォールブルフほどには大きな町ではなかったということでしょう。
このスヒーダムに住んでいたのが,シモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesの兄弟姉妹でした。ですからスピノザをスヒーダムに誘ったのはシモン・ド・フリースで,むしろフリースから進言を受けて,スピノザがフォールブルフからの避難を決めたということだと思います。フリースは1667年に死んでしまうのですが,このときはまだ生きていたのですから,おそらくスピノザと一緒にスヒーダムに滞在していたものと思われます。
フリースは裕福な商人でした。独身だったので遺産相続人にスピノザを指定しようとしたのですが,スピノザが断ったので,兄弟姉妹が相続しました。その代わりにスピノザには年金が支給されています。こうした事情もあり,フリースの弟には金銭的余裕があり,それで葬儀費用を出すこともできたのでしょう。
コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaでは,宿主が懇願を受けて葬儀の世話をしたとあります。この宿主がスペイクを意味するのは間違いありませんが,だれから懇願を受けたかは定かではありません。スピノザの友人だったかもしれませんし,もしかしたら地域の公職者であったかもしれません。そしてこの葬儀にかかる費用の全額に関しては,リューウェルツJan Rieuwertszがすべてを支払うという約束の保証になったと書かれていますが,この部分は日本語の文章として不自然であるように思えます。リューウェルツは葬儀の費用をスペイクに支払うことを保証したという意味であって,日本語の意味からすれば,リューウェルツは保証人になったということだと思います。
ただしここで示されているのは3月6日付の手紙です。これは1688年3月6日とされていますが,それでは遅すぎますから,訳者の渡辺が訳注でいっているように,1667年の誤りでしょう。スピノザが死んだのは1677年2月21日で,25日に埋葬されたとされています。葬儀は埋葬の日だったと思われますから,リューウェルツが保証したという手紙はそれよりも後です。したがって,とりあえずスペイクが葬儀費用を立て替えておいて,その費用について後にリューウェルツが保証したというようにも読めますし,葬儀費用について事前にリューウェルツは何らかの方法でその費用を支払うという約束をしておいて,その約束を基に葬儀代をスペイクが立て替えたというようにも読めます。この部分の真相は分かりません。
リューウェルツからスペイクに宛てられたこの手紙には,スヒーダムSchiedamの友人がスピノザの愛顧に報いるために,スペイクに支払うべき金額のすべてをリューウェルツに送ってきたので,それを同封するという主旨のことが書かれていたとありますから,この3月6日付の手紙がスペイクに届いた時点で,スペイクが立て替えた葬儀のための費用は支払われたのだろうと僕は解します。したがって,この手紙の中で葬儀費用についてリューウェルツが保証したという記述が,何を意味するのかが分からないのです。なおここに出てくるスヒーダムの友人は,シモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesの弟であったと思われます。
ひとつは,スペイクがそのことの重大性に気が付いていなかったという場合です。スペイクは自分がリューウェルツに渡したのは単に机であって,その中にスピノザの遺稿が入っているということを知らなかったとしたら,そのことはスペイクにとってとくに大きな意味があることではありませんから,あえてスペイクに話す必要はありません。むしろスピノザが死んだ後に自分がなした多くの事柄のうちのひとつとして,もう忘れてしまっていたということさえありそうです。コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaにはスピノザの遺品がどのようなものであったのかということが,かなり詳細に書かれているのですが,それはすべて記録を基にコレルスが調べたものであって,スペイクから伝えられたことではありません。いい換えればスピノザの遺品にどのようなものがあったかということは,スペイクはコレルスに何も話していないのかもしれません。もしかしたら遺品がどのようなものであったのかということ自体がスペイクにとっては意味のある情報ではなかったのであって,机もそのひとつであったのかもしれません。
もうひとつ,逆にスペイクは事の重大性に気付いていたからあえてそれを秘匿したということも考えられるでしょう。スペイクがその机をリューウェルツに送ったからスピノザの遺稿集Opera Posthumaが発行される運びになったのですが,その遺稿集はすぐに発売禁書の処分を受けました。これは逆にいえば,意図があったかどうかということは別に,スペイクが禁書の発行に貢献を果たしたということ意味します。他面からいえば,スペイクは禁書に指定されるような本の発行を防ぎ得る立場にあったのに,それをしなかったということを意味します。これはスペイクにとって公にしたくないことであったとしてもおかしくないでしょう。だからスペイクはこのことをコレルスには伝えなかったというケースも考えられると思います。
いずれにせよこのことはコレルスの伝記に書かれなかったのですが,リューウェルツの名前は出てきます。
これはあくまでも物語であって,実際にそうであったといいたいわけではありません。ただ,フッデJohann Huddeに対する配慮とライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに対する配慮の間には差があったということは厳然たる事実であって,その理由をどこに見出すかといったときに,僕が物語として提示した仮説を全面的に否定できるわけではないと思います。もちろんだからシュラーGeorg Hermann Schullerがスピノザの最期を看取ったのだとしなければならないわけではないですが,この仮説に対してわずかでも有利な条件になることは事実だと思います。とはいえコレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaが示しているのはその医師はマイエルLodewijk Meyerだったということであって,事実としてそうであったかもしれません。一方でこの医師がシュラーであった可能性もないとはいえないのであって,それも否定する必要はないでしょう。ただ,マイエルであるかシュラーであるかのどちらかなのであって,それ以外の人物ではなかったと思います。
書簡七十および書簡七十二が公表されれば,スピノザとライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizとの間で書簡を通しての交流があったということが判明してしまうということは,この両方の書簡を読んだことがある人物でなければ分からない筈です。遺稿集Opera Posthumaの編集者のうち,その内容を事前に知っていたのは,書簡七十をスピノザに送り,書簡七十二をスピノザから受け取ったシュラーGeorg Hermann Schuller以外にあり得ないでしょう。ですからこの2通の書簡が遺稿集に掲載されなかったのは,ライプニッツの意向を汲んだシュラーの功績であったのではないかと僕は思うのです。ということは,それ以外の,この事前に交わされていたライプニッツとスピノザの間の書簡が遺稿集に掲載されなかったことも,シュラーの功績だったのではないでしょうか。
オランダ語版De Nagelate Schriftenを出版するときに手違いといえるミスはあったとはいえ,フッデJohann Huddeに対する編集者たちの配慮は行き届いていたものであったと僕は思います。これに対してライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに対する配慮は,手違いがあったといえるようなミスといえないのであって,部分的にとはいえはっきり配慮の欠如があったと僕は思うのです。そしてこの差異がどこから発生したかといえば,それはライプニッツがドイツの宮廷図書館の館員にすぎなかったのに対し,フッデは編集者たちも在住しているアムステルダムAmsterdamの市長であったことに帰することもできるでしょうが,フッデに対して何を配慮するべきなのかということは編集者たちの間で共有されていたのに対し,ライプニッツに対してどのような配慮をすればよいかということは,必ずしも共有されていなかったからではないかという見方もできると思うのです。つまり,ライプニッツに対して配慮をしなければならないということを知っていたのは編集者の一部であって,そのためにいくつかの配慮がなされたのだけれども,完全に配慮をすることはできなかったという可能性です。
『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』にあるように,ライプニッツはスピノザと面会するためにオランダに入国したとき,まずアムステルダムでパリで知り合ったチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausの紹介状をもとに,シュラーGeorg Hermann Schullerと会っています。このとき以降,ライプニッツとシュラーの間には書簡での交流が始まりました。ですからライプニッツがスピノザとの交流のすべてを秘匿したいという希望を有しているということを,シュラーは知っていたのです。シュラーは同時に遺稿集Opera Posthumaの編集者のひとりですから,編集者たちの間でライプニッツに関する情報が共有されていなかったとしたら,シュラーがそれを共有していなかったということはないのです。いい換えれば,ライプニッツに対する配慮をなしたのはシュラーであって,しかもそれは,ほかの編集者たちとの情報の共有なしに,もしかしたらほかの編集者たちが知らないうちに,シュラーが独断でした配慮であった可能性があります。書簡七十と書簡七十二は,シュラーが関係しているものなので,シュラーは事前に内容を知っていた筈です。
『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』では,遺稿集Opera Posthumaを手にしたライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizが書簡七十を読んで苦悶したと書かれています。しかし書簡七十は遺稿集に掲載されていなかったので,これはスチュアートMatthew Stewartによる創作です。この近辺はかなり詳しく叙述されているのですが,これだけ大きな創作が含まれているわけですから,ほかの部分にも創作が含まれていると解しておくのが賢明でしょう。
編集者によるライプニッツに対する配慮があったことは間違いないと思います。ところがなぜか書簡四十五と書簡四十六は遺稿集に掲載されたのです。したがって少なくともライプニッツとスピノザとの間に書簡のやり取りがあったということは公になってしまいましたし,これらの書簡の内容から,この後もふたりの間での書簡のやり取りは継続したであろうということも類推されることになったのです。
この二通の書簡にはそれとは別の配慮がなされていました。書簡四十五でライプニッツは,スピノザとフッデJohann Huddeは親しいので,ライプニッツの光学の研究に関する講評をフッデにもしてほしいと依頼しています。書簡四十六ではスピノザはそれを受けて,フッデにそれを依頼したけれども現時点ではフッデは多忙なので,すぐには講評できないが,時間ができれば講評してくれるだろうという主旨のことをいっています。
もしもこれらのことが遺稿集に掲載されれば,スピノザとフッデとの間の関係も公になっていました。ところが編集者たちはそれがフッデの要望に反することになるということが分かっていたので,その部分は名前を伏せるという処置を講じました。実は遺稿集のオランダ語版が出版されたときに,おそらく手違いでフッデの名前が掲載されてしまったために,ここでライプニッツが講評を依頼しているのがフッデであるということが判明してしまったのですが,少なくともラテン語版の遺稿集を出版したとき,編集者たちはフッデの要望を汲み取って配慮をしていたのは明らかなのであって,このフッデに対する徹底した配慮と比較したとき,ライプニッツに対する配慮の欠如はより明らかだといえるでしょう。この二通が掲載されたのは,手違いというには度を越しているからです。
コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de SpinozaではアムステルダムAmsterdamから来た医師のことが,事実上はマイエルLodewijk Meyerとされていますから,ナドラーSteven Nadlerはこの医師がマイエルであったと解しています。ただ『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』の記述は,確定的になっているわけではなく,この医師がシュラーGeorg Hermann Schullerであった可能性も示唆されています。これは,実際はこの医師がシュラーであったという説が,識者の間で流通しているからです。それは後にシュラーが,チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausに対してスピノザが死んだときに自身がい合わせたといっていること,およびライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに対して,スピノザの死の前後にスピノザの所持品を確認したと伝えていることに由来しています。スピノザの伝記としては古典の部類に入るといっていい『スピノザの生涯Spinoza:Leben und Lehre』において,フロイデンタールJacob Freudenthalがすでにこの医師はシュラーであったということを確定的に書いています。
フロイデンタールは,そもそもスペイクのコレルスJohannes Colerusに対する報告が曖昧なものであって,GSというイニシャルにするべきところをLMとしたのだという意味のことをいっていますが,これは根拠が分かりません。コレルス自身はマイエルにもシュラーにも会ったことはない筈なので,イニシャルを意図的にであれ勘違いであれ書き換えるという必要性があるようには思えないからです。なので僕はスペイクがこの医師はマイエルであったとコレルスに伝え,しかしマイエルのなしたことに対するスペイクの話には信憑性を欠く要素があると判断したので,それをイニシャルで示したというように解します。これはつまり,アムステルダムから来たこの医師について,それはマイエルであったという認識をスペイクがもっていたと解釈するという意味です。
この解釈を採用した場合,もしも実際にこの医師がマイエルではなくシュラーであったという場合には,絶対的な条件が発生します。もしもスペイクがこの医師について,それはほかならぬマイエルであったと断定することができるのであれば,この医師は間違いなくマイエルであったというほかないのですから,シュラーであったとするには無理があります。つまりスペイクはほかの人物をマイエルと間違え得るのでなければなりません。
スピノザの伝記ですから,アムステルダムAmsterdamから来た医師がスピノザに対してどのような処置をしたのかということを記述することには意味があります。しかしその後にスピノザの金銭とナイフをポケットに入れてその日のうちにアムステルダムに帰り,スピノザの葬儀に姿を現さなかったなどということは,スピノザの伝記としての情報としては不要といえます。なのでこのようなことがなぜ事細かに書かれているのかということは僕にとって疑問ですが,ただひとつ確かにいえるのは,この詳細をコレルスJohannes Colerusに伝えたスペイクは,よほどこの医師に対して腹に据えかねるものをもっていたということです。とはいえその理由が,医師のスピノザに対する態度だけであったと断定することはできないのであって,伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaには書かれていないスペイクに対する医師の態度にスペイクは怒りを感じていたので,このようなことをコレルスに伝えたという可能性も考えておく必要があるでしょう。
この医師は伝記の中にはフルネームは伏せられ,LMというイニシャルで示されています。これはスペイクが本名をコレルスに伝えなかったからかもしれませんが,スペイクがこの医師に対して怒りを感じていたのは確実だと僕には思えますので,あえて名前を伏せる必要はなく,もしもスピノザの伝記を書くのであれば,むしろこの医師の行動を事細かにコレルスに書いてほしかったのではないかと思えます。なので本名を伏せてイニシャルで記述したのは,コレルスのこの医師に対する配慮だったのではないかと推測します。いい換えればコレルスは,スペイクに伝えられたことの信憑性に多かれ少なかれ疑問を感じたので,フルネームは記さずにイニシャルで記述したのではないかと思います。コレルスがスペイクの話に対して全体を通してどれだけの裏付けをとっていたのかは分かりませんが,この点は信憑性を欠くところがあるとみていたのは確かであるように思えます。
LMというのはスピノザの友人関係からしてマイエルLodewijk Meyerのことを指していることは疑い得ません。つまりスペイクは,スピノザの死を看取ったアムステルダムから来た医師は,マイエルであるといっていることになります。
スペイクは妻とふたりで暮らしていたわけではありません。子どもがありました。『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』では,おそらく1670年にスピノザがこの家に住むようになったとき,すでに3人の子どもがいて,さらに1677年までには4人の子どもが産まれたとありますから,早逝してしまった子どもがいなかったならこの時点で6人ないし7人の子どもがいたことになります。コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaだと前日の予備の説教と,この日の午前中の礼拝はスペイクと妻だけで出掛け,午後の礼拝だけ一家総出で出掛けたと読めるようになっています。ただ実際にそうであったかは分かりません。最後の部分は,アムステルダムAmsterdamから来た医師とスピノザのふたりだけがスペイクの家に残ったことを強調するためにこのように書かれている可能性があるからです。とくに,1677年に産まれた子どもというのがこの時点でいたなら,この子は乳吞児ということになりますから,いくら教会に行くとはいえそういう子どもを残していくのは考えにくいように思えます。
スペイクの一家が礼拝から家に戻ると,アムステルダムから来た医師がスピノザが死んだことをスペイクに伝えました。出掛けるときは老いた鶏を調理したスープを食していた人が,礼拝から終わって帰ったら死んでいたのですから,スペイクにとって,あるいはスペイク家の人びとにとって,これは驚くようなことであったと思われます。医師はスピノザが机の上に置いておいた金貨ひとつといくらかの小銭,それから銀の柄のついたナイフをポケットに入れて,そのままその日の夕方発の船でアムステルダムに帰ってしまいました。二度とスピノザのことを顧みなかったとされていますので,その後の葬儀にも顔を出すことはなかったとスペイクはコレルスJohannes Colerusに伝えたかったのでしょう。