書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

AQUATECT。

2012年04月24日 14時48分03秒 | ネタ帳
 リケンテクノスのAQUATECTという高親水性ハードコートフィルムというのがあって、本来は防水カメラやスマートフォンの液晶パネルに水滴がついて見にくくなるのを防ぐためのものなんだけど。撮影レンズの前には使えないのかなと思って実験してみた。







 gooブログの仕様で一定サイズ以上の画像がうpできないんだけど、意外と結構使えそうな感じ。望遠とか静止画の場合には画質の低下が問題になるかも知れないけど、広角とか標準画角なら大丈夫そう。

 とは言ってもフィルム表面が乾いている状態では水滴が馴染み難いので、常にフィルム表面を濡らしておく必要がある。単純にペットボトルから直接とか霧噴きで水をかけると、水膜が馴染んで画像が安定するまで1~2秒かかるので、面倒臭いっちゃ面倒臭い。フィルム表面に拡がった水膜は乾きやすくて、多少の雨粒程度では水膜の補充にもならない。豪雨とかなら何もしなくても良さそうな気がするけど、そんなシチュエーションってほとんどないし。

 あ、シュチュエーションではなくて、シチュエーションなのね。シミュレーションと一緒で間違いやすいかも。

 サンプル撮影時に多少風があって、埃が水膜に付着すると平面性が悪くなるので、水をかけて洗い流してしまえば元に戻るんだけど、防水カメラならまだしも防滴カメラだと水を直接かけるわけにはいかないので、ここも工夫が必要。

 酸化チタニウムを用いた超親水性コーティングであっても水膜自体の精度に違いはないと思うので、紫外線照射を必要としない高親水性フィルムの方が簡便で扱い易いのではないかな。

 フィルム表面の水膜は、フィルムの下側に水が溜まる性質があるので、画角内に溜まった水が写り込んでしまうと画像が歪んでしまうので、フィルムを画角よりも大きくする必要性があると思う。とは言っても自己粘着フィルムの場合は粘着面から浮いている部分があるとフィルム自体の弾力性によって剥がれてきてしまうので、レンズの防水ガラスカバーが小さいカメラだとちょっと厄介かも。

Ende;
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いろいろ。

2012年04月24日 14時36分43秒 | 意識論関連
○いろいろ。

 「仲間にバカにされたから、見返したかった。」

 一体バスジャックをすることによって、何をどのように「見返す。」つもりであったのか。

 「バカにされた。」と言っても、暴力性の程度比較競争において「バカにされた。」のであれば、「バカにされた。」そもそもの価値観自体がバカげている。そこに自律的に気付くことができないことがバカの根源なのである。

 少数の子供の集団内部における合理性のない短絡的価値観というのは放置しておいて良いものではない。

 重大な事象が起こる背景には、必ず重大とまでは言えない程度の事象がたくさん起こっているはずである。現在の日本の教育システムでは、こうした子供達の小さな異常行動というものを子供達同士で検証させることを全くさせていない。

 「子供のやることはバカげたものである。」という固定観念によって、バカげた価値観を放置しているのは文系大衆観念による思考停止性によるものである。

 子供だけで放置することによって本能的に形成される「社会性。」では、バカげた価値観であるということを子供に認識することは出来ず。封建的社会形成によって特定の子供が主張する価値観によって集団全ての価値観が統率的に染まってしまい、自発的な合理的思考というものは行われなくなってしまうのである。

 生物学における「社会性。」、すなはち本能的な社会形成習性というものは、統率的にヒエラルキー順位を決定しておくことによる気分的安心しか作り出すことはなく。習性というものは単なる生存という結果として結果的に組み込まれたシーケンスに過ぎず、本能習性自体には合理的目的など存在せず、単なる気分的な安心満足しかもたらすことはない。

 こうした生物学上での「社会性。」というものの形成過程というものは、目的意識に基づいて選択されたものではなく、イヌや昆虫などの下等動物においても作り出されるものでもあり、あくまで結果的に生存に適した結果として淘汰された行動に過ぎない。そのため本能的には「社会を形成することだけ。」が目的であり、論理的には何の目的もなく暴走しか促さない。

 本能的目的というものは、予め組み込まれたシーケンシャルな行動習性を作り出すことだけが目的であり。これは本質的には「目的。」ではなく、本能習性の「結果。」以上の何物でもない。

 文面上では本能的であっても「目的。」と表さざるを得ないために、あたかも意識的/論理的に選択された行動「目的。」と混同しがちであるが。これは自然言語上において従来全く分類されることがなかったために致し方ない。

 本能的目的というものは、本能自体が結果であり、結果が導き出す結果であっても目的には理論的にはならないのだが。他に表現する手立てが今のところ見つからない。新しく名称を作り出すと反って理解しずらくなる可能性もある。



 子供に限らず、無意識的集団内部においての観念の暴走というものは。そこに本質的意識、自発的判断というものが働かないからである。

 自発的に価値観の検証をしない場合、本能的な社会形成習性によって特定の個体の価値観に統率されてしまうのである。

 特定の個体として無意識的に認識される「リーダー。」というのは、外見的に自信に満ち、短絡的決断力によって、あたかも絶対的な価値観を持っているかのような錯覚を促すように振る舞う性質があり。あくまで外見上の観念に過ぎないので自己検証を行う保障もない。

 多くのヒトは、こうした外見上の自信や権威性といったものを短絡的に「統率力。」であると錯覚し、気分的に安心して服従するようになるのである。

 生物学的社会形成習性による「統率力。」というものは、あくまで統率することだけが目的であって、その統率には目的というものがない。目的もなく統率されている状態が本能的にヒトは安心なのである。

 同一の価値観を共有しておくことが気分的に安心あり、こうした本能習性というものは常に目先の相手や集団に対して働く性質がある。

 本質的に合理性を追求すれば、目先の相手や集団だけでなく。合理性のある普遍的な価値観に基づいた行動選択が可能となるのであるが。意識そのもの、自発的な論理検証が働かなければ、目先の相手や集団に迎合するだけに陥ることになる。


 「格好良い。」とは、その感情の元は親という服従対象に対する信頼への感情である。バスジャックをそそのかされた子供のように、「バスジャックをしたらすごい。」などという、価値観の意識誘導に簡単に引っ掛かるというのは、「それの一体何が凄いのか。」についての論理的検証が自律的にできないからであり、目先の他人が促す価値観に簡単に誘導される自発的価値観が全くないことの証明である。

 暴力への羨望というものは、その根底に強さへの依存性が含まれている。しかし、本能が促すアプリオリな文系大衆観念に基づく強さへの依存性というものには合理的必然性が全くなく、その場限りの気分「空気。」によって左右される一貫性や普遍性というものを全く持たない。

 シエラレオネの少年ゲリラ達の内部における価値観も、このように目先の集団内部だけで作り出されたものであり。本能的な社会形成習性というものの本能的目的結果というものには何ら意識的目的が存在せず、短絡的に力(暴力)に依存してしまいがちなのである。

 ハリウッド映画の多くや、時代劇に見られるように、暴力的破壊によって一面的正義を下すことがヒトにとっては快楽をもたらすのである。

 つまり、ヒトという種の生物は暴力的破壊による短絡的最終解決に快楽を感じるものなのである。しかし、ヒトの多くはそれが普通で一般的であるために、こうしたヒトの持つ危険性というものに対して気分的安心を抱き、忘れてしまうのである。

 映画や時代劇のように、とってつけたような悪人というのは現実には存在せず。実際の犯罪者というのは親族も友人もいる一個のヒトであり、短絡的に殺してしまえば全ては解決するような簡単なものではない。

 一個のヒトが、自律的に社会的責任判断を出来なくなる(したくなくなる)過程においては、個人の先天的個体差や成育環境によっても異なるものであるが。基本的に当人に自発的な行動選択の検証性が欠落していることが原因である。

 しかし、子供においては自発的行動選択云々を論ずることは酷である。子供は子供自身では何も選択していない状態であり、構造的に自律判断というものは出来ない状態にあるからだ。

 しかし、子供は必ず大人にならざるを得ない存在であるから。子供に対して自律判断が可能にできるような環境を整えることは大人にとっての社会的責務である。これは血縁関係を持った子供の有無に関わらない。

 ヒトが自律的に社会的責任判断を行えるようになるためには、本質的自発性による行動選択が必要不可欠である。自律とは自発の中にあり他にはないからである。

 個人が主体的/自主的動機によって存在している場合、社会というものは自己存在と等価であるから、社会安全性というものは自ずと求めるものである。

 しかし、個人に本質的主体性/自主的動機がなく、親大人や世間という多数他人からの評価報酬だけを強迫観念的に求めている場合。そもそもが評価報酬という「エサ。」に対する動物的な機械的条件反射行動に過ぎないため、自発的には社会安全性にも持続可能性にも意識が働くことが原理的にない。

 言うなれば、自分の世間的立場を維持することだけで精一杯で、他人の迷惑になど省みる精神的余裕が全くないのである。

 あくまで精神的余裕がないだけであるため、どんなに物質的に満たされても脳は餓えたままであり。行動に影響を及ぼすことはない。意識がなければ「学習すること。」はできず、環境によって刷り込み「学習された。」行動を漫然と繰り返す以外に何も自発的には選択することはできないし、したくもないのである。

 カルト宗教の教祖や、カルト国家の将軍様達が自律的に自分の行動を変えることが出来ないのは、彼らがただ既に存在していた環境に流され、多数他人に迎合することしか出来ないからである。

 要するに、どんなに人数が多い集団であっても、その集団の誰にも意識がなく、漫然と既に存在している固定観念を盲信し何ら論理的検証を行わない限り。結局は通り魔やバスジャック同様、その場の空気雰囲気だけで行動が決定されてしまうから体制腐敗に陥ることになるのである。


 キチガイのやることは予測がつかない。予測がつかないからキチガイである所以でもあるが、自発的に社会安全性や持続可能性を求めていれば、結果的にキチガイではなくなる。

 自発的純粋行為というものは他人との気分的共感を求めないため、本能的社会形成習性によって強迫観念的に共感を求める者にとっては気分的に「怖い。」だの「気持ち悪い。」といった勝手な観念によって排除差別の対象にしたがる傾向が見られるが、これこそが本能由来の文系大衆観念というものである。

 自発的純粋行為というものに対する観念的拒絶反応こそが、個人の主体的意欲や個人差というものを許容する心の広さを失う原因である。

 目先の集団への迎合による安心ばかりを脅迫的に追求してしまい、意識がそれだけでいっぱいになってしまって精神的余裕を失い、目先の集団「以外。」への配慮というものが失われてしまうのである。

 本当の心の広さというものは、無為無策に感情任せにしておいて発揮されるものではなく。本質的合理性を自主的/自発的に追求する本質的な意思というものによって発揮されるものである。


 文系観念上においては、社会的責任判断であっても社会的な評価によって導き出されるものであるとされる。しかし、社会的評価を目当てにした条件反射行動である限り他律であり、これは何ら「自律。」的判断ではない。

 社会的評価といっても、実際には時代に左右され得る普遍性を持たない世間的評価にしかならず、世間的評価に依存してしまえばナショナリズムを利用したプロパガンダに対しての抑制としては働くことはない。

 単なる多数決ではナチズムを止めることは出来ないのである。

 多数決的に倫理を求めることは多数が間違った価値観を持っている場合には無効であり、社会的責任判断という倫理性というものは科学的/論理的に導き出すものであって、時代などの不確定要素を含む世間多数によって導き出すべきではない。

 社会環境や本能習性といった本質的には自発的に選択していない条件によって選択される行動というものには意識的目的というものがない。文系大衆観念主体の文学の多くでは、自己やヒトがなぜ社会的責任判断をできなくなる原因というものは自己自身/ヒト自身の内部にはないという帰結に至る話が非常に多いが、これは自己/ヒトというものが世間環境や先天的本能習性以外には行動選択不可能な存在であるという文系大衆観念に由来する思考停止が働いているからである。


 倫理をWeb上の文章から多数抽出するプログラムを人工知能であるとするのはとんでもない大間違いである。単なる多数抽出であれば文系大衆観念の方が多数を占める可能性も高く、倫理判断としての機能を果たす保証はない。ヒトの判断の9割は無意識的な外見に依存しがちであることを忘れるべきではない。

 多数抽出によって「概ね。」正しい結論が導き出せるとしても、倫理という社会的責任判断というものは「概ね。」論によって導き出すべきようなものではないのである。


 工学/科学や理論というものは、世界の全ての安全性を確保可能な絶対的なものではなく、あくまで論理的に理解認識可能な範囲内においての有効性しか持ち得ない。しかし、気分や観念というものというのは論理的認識を阻害することはあっても、何ら特定範囲における有効性の証明すら全く持ち合わせておらず。単なる偶発的な結果以外を全くもたらさない不確定で不安定なものに過ぎないのである。

 ヒトという種の生物に、どのような行動習性/本能があることを多数抽出しても、それによって気分的に安心したり不安に陥ったりするだけでは何ら行動選択の正当性を抽出することは出来ない。

 目先の気分や本能に左右されずに、常に自発的に論理検証を行う「考え。」によってこそ人間としての行動選択というものが導き出されるのである。

 目先の集団への表面的外見上の優位性のアピールのために、社会全体の持続可能性や安全性というものを放棄しておいた方が精神/感情的には楽であろう。

 バスケットボールが下手くそだからといってバスジャックをすれば優位性が得られるという価値観は、目先のバカな子供達の内部における、その場限りの格好良さを求めているだけであり。本能的社会形成習性が促す迎合性によって、目先の集団の価値観に簡単に意識誘導されてしまうのである。

 漫画家の倉田真由美が強迫観念的に「みんな、同じ。」であることに安心するのも、こうした観念に多数人気が集まることも、全ては目先の多数他人という世間体に対する本能無意識による行動バイアスである。


 科学的認識における客観性というもの、一歩引いて俯瞰する意識というものは、目先の感情や観念によって簡単に失われがちであり。本能的にはヒトという種の生物は「そういうもの。」なのである。しかし、ヒトというのは本能以外にも選択することが可能であり、世間環境や本能習性による「結果。」以外にも行動選択することが可能なのである。

 可能でありながら行わないというのは無責任なのだが、多くのヒトはこれを気分的感情によって簡単に放棄しがちである。


 東大の入学式において、ノーベル賞受賞者の根岸氏が「自分の好きなことを探すことが大切。」と論じていたが。東大の入学試験に合格する程の高い成績を得るためには、子供の頃から学力成績に対する機械条件反射的価値観への刷り込み学習が行われていた場合が少なくないはずである。ほとんどの新入生達は「このオッサン何言ってんだ。」的にキョトンとしていたのは、それまで盲目的に学歴学力に執着させられてきた学生達にとって、「自分が本当に自発的に好きなこと。」など全く尊重されたことのないものであり。唐突な価値観転換をさせられている故の不信感によるものである。

 本質的自発性というものは、小学校低学年から社会とは何かを広く知ることによって長い時間をかけて醸成されるべきものであり、大学に入学してから唐突に価値観転換させられるべきものではない。

 とは言え、子供達の自発性を養うためには大人達の価値観から変える必要性があることは確かであり。唐突な方針転換であるとはいえ、これからの社会の在り方を子供達自身に考えさせる自発性を醸成するためには、どこかで誰かが唐突な方針転換の苦痛を味わう必要性がある。

 私としては「ご愁傷様。」としか言いようがない。

Ende;
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自己犠牲。

2012年04月24日 14時35分10秒 | 意識論関連
○自己犠牲。

 持続可能性のない社会には、一分一秒たりとも人間として存在し「続ける。」論理的価値などないのである。自己が存在し「続ける。」ためには、自己を含む社会全体の持続可能性と等価であり。どちらか一方だけを求めるのは論理的に間違いである。

 占い師の類の人生相談などでは、「社会のため。」的に自己犠牲を美徳とするような観念に基づいた行動選択を奨めるが。自己を犠牲にする者が社会を優先することは原理的にない。通り魔だの特攻自爆テロといったものは全て自己犠牲を美徳とした文系大衆観念による短絡的快楽の追求に過ぎず。単なる洗脳による気分的満足の追求でしかない。

 美徳というのは合理的判断ではなく、単なる主観的観念に過ぎない。ところが美徳というのは本能感情と直結しているため、簡単にヒトの意識の表層を覆いつくし、その気分的安心満足によって論理検証性を奪うのである。

 「自分一人が犠牲になれば世界が変えられる。」という英雄的な気分的満足によって自暴自棄に暴走破壊活動をすることは簡単である。社会的自己犠牲というものは積極的に行うようなものではなく、むしろ積極的危険に対して発揮する消極的なものでなければならない。積極性自体は意思ではなく、単なる感情に過ぎない。

 消極的選択というものは英雄性を伴わず、誰にも認知評価されることが少ない。他者からの認知評価がないにも関わらず選択してこそ本当の自律判断と言うことができるのである。内部告発をしても英雄にはなれず、単なる裏切り者としか世間的には評価されないものなのである。

 利己的欲望を追求するのも、自己犠牲によって英雄的評価を求めることも。結局は本能的快楽の追求にしかなっていない。これらに共通するのは短絡的思考放棄であり、「これさえやっときゃ。」的な頭の悪さである。

 そもそも他者世間から煽られて行う自己犠牲というものには本質的自発性がない。

 この種の者が言い出す条件反射的主張が、「じゃあ、どうすればいいんだよ。」である。どうすれば良いのかを他人に尋ねている時点で、自発的には何も選択したくないことの証明であり。問題が自分自身の内部に存在することを認識したがらない盲目性こそが根源的問題であることは、誰も認識したがらないのである。

 個々の場面、個々個人の行動判断というものは、自律的で主体性を持たなければならない。他人からの評価だの世間的報酬といった、本質的主体性を持たない動機による行動選択からは原理的に自律判断というものは出て来ない。

 私は神ではないから、あなたが自律的に社会的責任判断をしても評価もしなければ報酬も与えない。世間的に排除差別の対象になったとしても排除差別しているのは私ではなく、無意識な多数大衆であり。私の知ったことではない。

 多数大衆が無意識ではなく、正当な責任行動選択に対しての評価を与えるような社会であれば、不当な差別や排除には遭わないであろう。そうした社会を築くためには、先ず自己自身が自律的意識を持つことである。

 一人の力は微力である。しかし無力ではなく、むしろ多数によって強い力とすることも可能である。

 本論は意識論である。従って無意識である気分的勇気だの元気を促すことを目的とはしておらず、あくまで自律的な社会的責任行動判断を求めるだけである。それこそが本質的な合理的判断であるからだ。

Ende;
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死んだら全て終わり。

2012年04月24日 14時34分02秒 | 意識論関連
○死んだら全て終わり。

 生存は結果であり、結果である以上そこには目的も意味も存在する必要性はない。

 文系大衆観念的には存在の意義や価値というものがあらゆる生物には予め存在しているものであるという錯覚が存在するようであるが、生存や存在自体には目的も意味も存在する必要性はない。起こったことの全てに意味をこじつける必要性はないのである。

 生死に関わることであれば、あたかも絶対的な優先重大事項であると「思う。」であろうが、生存というのは常に暫定であり永遠ではない。ヒトにとって本能感情的には重大な生存価であっても、人間存在としての価値において生存というのは絶対的な価値にはなりえない。

 目先の個人的本能が優先すれば、社会全体における持続可能性や安全性は意識の上から排除されがちな傾向がヒトにはある。しかし、社会全体の持続可能性や安全性が確保されない社会に自己が生き続ける合理的根拠など存在しないのである。

 ドーパミンの持つ常習性が作り出す本能的な自己保存行動選択である気分的「安心。」というものは、本能的には最大優先事項として扱われるものである。しかし、これは本能に由来する仕組みによって作り出される価値観であって、本質的には自己自身の論理的選択によって決定されているものではない。

 自己保存とは利己である。都合の良い時だけ「人は一人では生きてゆけない。」などと論じておきながら、一方では「死んだら全て終わり。」とする文系大衆観念には論理整合性が欠落している。

 自己個人が死ぬとしても、社会自体は全く「終わり。」でも何でもない。個人の主観的価値観だけに依る「全て終わり。」という論証には、本質的な合理性が存在しないのである。


 論理整合性のない文系大衆観念を相手にして論ずることは徒労である。その場限りの感情だけによって言い逃れや取り繕いをされていては何ら論理的検証も出来なければ、当然原因究明も対策も言及することが出来ないからである。

 ヒトの全ては必ず死ぬ。死ぬのであれば社会持続可能性や安全性といったものが不要であろう。だが、それは今すぐ死ぬ者においての論理に過ぎず、社会持続可能性や安全性が確保されない社会に生き続ける合理的根拠も存在しないのである。「死んだら全て終わり。」という主張は、個人の生死に関わる事柄においては本能的価値観を優先しておきながら、一方では「一人では生きてゆけない。」と社会における自己存在を求める文系大衆観念特有のご都合主義によるものである。

 生きてゆく過程においては社会への依存を主張しておきながら、死ぬ段階においては「全て終わり。」などと社会の存在を無視するのは、社会的な「甘え。」に過ぎない。

 個人が社会という多数他人への依存が不可欠である以上、個人もまた他人に対しての被依存性を持たなければならない。これは権利と義務であって、権利だけを主張するというのは本能主体の動物的「ヒト。」の主張であり、人間性が欠落している。

 社会公平性というものを社会に求めるのであれば、個人が他者に対しても公平であろうとすべきである。他者に対して不公平な者が社会(多数他人)に対して公平性を求めるというのは身勝手な主張である。

 社会持続可能性や安全性を求めるというのは、自分が死んだ後の社会についてへの配慮、意識の広さによるものである。「死んだら全て終わり。」などという話には、個人の生存という本能主体の無意識的価値観に基づく意識狭窄性によって導き出された主張に過ぎない。

 ヒトの多くは本能的欲求を持ち出されると簡単に思考が停止してしまう傾向がある。ゴルフのパターだの将棋の勝ち負けといった世間的評価成功といった欲望に直結する話を持ち出すと、簡単に本質的知能というものについての論理検証性が失われてしまうのも、その一例である。


 既に起こったことに対して、事後正当化のための屁理屈をこじつけたがる性質がヒトにはある。養老孟司が「私は30年間も安月給で大学勤めをした。だから、そこには意味があったんだ、そう思わなきゃやってられないじゃありませんか。」などという単なる個人的感情を多数の文系大衆観念者達と共有することによって、あたかも論理的証明であるかの如く撹乱することが可能であり、こうした文系大衆観念の共有こそが洗脳ペテンの根源である。

 文系大衆観念というものは、論理的な根拠証明を放棄し、個人的心情の多数共有による気分的安心によって作り出されるものである。

 起こったことの全てが偶然に由来するものであるとしても、これから起こりうることの全てを無視して寝ていて良いという論拠には全くならない。むしろ、既に自分の脳に組み込まれた無意識的本能による危険性を認識することが重要なのであり、何が偶然で何が必然であるかを区別認識することこそが科学的認識というものの価値である。

 「起こったことの全ては偶然であると称して寝ていても構わない。」と言われて、あらゆる事象に意味だの目的をこじつけることに意識誘導されているから、いつまで経ってもバカが治らず同じ過ちを繰り返し続けることに陥るのである。

 自己が現時点において存在すること自体に意味だの目的があるわけではない。個人の生存や存在というものは、個人が主体的に意味や目的を見つけるものであって、自己以外から予め準備提供されるようなものではない。

 自己存在の意味というものを予め「誰か。」に準備提供されるはずだという観念は、本能的社会形成習性によって作り出されるものであり。「誰か。」という他者に対する盲目的依存性、「甘え。」によるものである。

 「ヒトは何処から来て、何処へ行くのか。」という問いがあるが。「何処へ行くのか。」という目的は「何処から来た。」のかという結果とは無関係である。ヒトという種の生物が、虐殺だの強姦の結果として生存していたとしても、虐殺や強姦が正当化できるわけではないからだ。

 「ヒトは今までこうだった。」ことを大量に抽出枚挙しても、「ヒトとは永遠にこうである。」ことの論証にはならない。

 ヒトは初期的には動物であるから、本能的無意識行動バイアスによって意識の9割以上を構造原理的に占めている。従って本質的な意識としての論理的思考は1割にも満たず、行動バイアスとしての機能を構造原理的に持っていない。

 バイアスとは「程度。」問題である。行動バイアスというのは気分的な程度問題に過ぎず、構造的に合理性を持たない。構造的に合理性判断が困難であることを断片的に枚挙しても、合理性判断をしなくて良い論証にはならないのである。

 文系大衆観念上では、ヒトという種の生物の傾向性を枚挙することで気分的に安心することで満足したり怖がるだけで、論理的思考を全くしたがらない。ヒトという種の生物の、どのような傾向性を枚挙しても、傾向性自体は結果以上の何物でもなく。気分的にどんなに安心満足しようが怖がろうが、意識的に選択される目的とは無関係なのである。

 「ヒトとはこういうものである。」ことをどんなに大量に抽出枚挙しても、意識的目的選択可能性の反証には全くならない。

 結果の大量抽出枚挙によって、あたかも意識的目的選択不可能性であるかのように錯覚するから文系大衆観念というのは論理的思考が全く出来ないのである。

 ヒト、或は自己というものの傾向性が如何なるものであろうとも、自律的に論理的行動選択をしなくて良い理由には全くならない。ところが文系大衆観念によるアプリオリな思い込み上では、本能習性という傾向の多数抽出さえしておけば、本能習性のままに無意識に流されておいても良いものであると勝手に錯覚する性質がある。

 「だって、そういうものだから。」とか「だって、みんなそうだから。」といった結果の多数抽出さえしておけば、気分的に安心し満足し、目的行動の論理検証性を放棄をするのは子供じみた言い逃れに過ぎない。

 目的行動の論理検証、「考え。」というものは、気分的にしたいとかしたくないといった「思い。」で放棄して良いようなものではない。しかし、そもそも自己存在の動機自体が世間からの評価報酬である者の場合、自発的な目的行動の論理検証をしたがらないものであり、結果的に自律的な社会安全性や持続可能性には意識が働かないものなのである。

 自己存在の動機自体を自己内部に持たず、目先の世間からの評価に依存している以上。あらゆる「考え。」もまた他者から問題を提供され、その問題についての解答以外には意識は働かない。与えられた問題への解答による他者からの評価報酬しか意識が働かないからである。こうした状態こそが無意識的な条件反射であり、チンパンジーの瞬間記憶能力テストでの成績評価と構造原理的に全く同じものなのである。

 マイケル:サンデルの講義で頭が良くならないのは、サンデルが提供した問題の内部でしか考えが働かないという構造原理的な意識誘導が存在するからであり。むしろサンデルらの講義特有の「よく出来ました。」的な誉め言葉によって気分的に満足したことを、あたかも「自分の頭が良くなった。」と勝手に錯覚しているだけなのである。

 ヒトの多くは気分的に良くなると、頭が良くなったと錯覚する性質がある。限定的な問題内部についての検証をしたことによって、あたかもあらゆる物事への検証性が獲得できたような気分に陥り、むしろ自らの無思考性を意識から外すことによって気分的に満足するのである。

 問題を提供されなくても追求する自発性、評価報酬に依存しない徹底性というものは、本質的自発性によってのみ促されるものであり。他人から提供された問題内部でしか考えが及ばない自発性の欠落によって、あらゆる文系大衆観念というものは論理検証されることなく放置無視されてきたのである。

 文系大衆観念というものは、すなはち自発性の欠落によって作り出されたものであり。本能的シーケンスによってアプリオリに陥る普遍的ヒトの習性の結果である。


 「権威に服従しない社会は崩壊する。」と、大衆の多くは観念的に納得するであろう。しかし、これは論理的根拠には全くならず、単なる気分的な安心満足によって思考放棄している錯覚であることを、多くのヒトは認識できない。

 権威というものは論理的、科学的に証明されたものではない。権威性とは多数によって認証されただけの文系観念上における服従安心対象に過ぎない。

 権威に盲目的に服従しておけば気分的に安心であろう。ヒトとは封建的ヒエラルキー社会を形成しておけば気分的に安心するように本能的仕組みがあるからだ。

 権威者が、「ヒトという種の生物には、他者との平和共存の傾向性がある。」と述べれば、あたかもヒトという種の生物は常に本能的無意識に平和共存に至る選択が可能であると錯覚し。多くのヒトは気分的に満足して自律的論理検証を放棄することが出来る。

 ヒトには他者との平和共存の傾向性も確かに存在するであろう。しかし、本能というのは特定の「誰か。」が目的意識に基づいて選択したようなものではなく、あくまでも結果以上の意味が存在せず、ヒトには残虐性や無責任性といったものも明らかに存在するのである。

 本能による行動選択によって、どのような結果をもたらすのかをある程度予測することは可能である。実際権威者と見なした相手に盲目的に服従しておけば残虐で無責任な行動に至ることも立証されている。

 断片的安全性だけを頼りに本能の持つ危険性を無視するというのは、単なる気分的満足に過ぎず、極めて無意識的であり合理性が欠落している。

 何が安全で、何が危険であるのかを認識区別し、選択するのは意識であって本能ではない。生物本能は個人の目先の生存に適することはあっても、人間として、社会安全性や持続可能性に適するようには構造原理的に出来ていないからである。

 意識的にあらゆる全ての事柄を区別認識することはできないが、何が可能で何が不可能であるかを区別認識するのもまた意識である。認識不能な事柄における選択については科学的認識というものは役に立たないが、本能的行動バイアスの全てが常に安全である保障はなく、むしろ科学的に認識可能な安全性を無視して保障のない本能を優先させてしまう傾向があることが問題なのである。

 酒を呑まずに自動車を運転したからといって重大事故に至らない保障があるわけではない。しかし、酒によって脳が麻痺した状態の方が重大事故に至る可能性が高いことに異論はなかろう。

 科学的証明というものは、この世の全ての安全性を担保できるような万能なものではない。しかし、安全性を高めることには寄与できるとしても、損ねることにはならない。

 科学が万能でないからといって、本能由来の観念の正当性を証明したことにはならないのである。

 偶発的に本能的行動バイアスが上手く作用したことがあるとしても、常に本能的行動バイアスが上手く作用することの論証にはならないのだが。本能的行動バイアスによって上手く作用した経験程、あたかも既に自分の中に組み込まれた本能的な行動バイアスが特別に優位であるかのような錯覚を促すために、ヒトの多くは本能的行動バイアスを優先してしまうのである。

 ギャンブルや投資で多額の損失を補えるという根拠のない錯覚も、このようにして暴走するのである。

 将棋やレーシングカーの操縦などにおける無意識的能力の高さというものは、あくまで日々の鍛練習熟によって得られるものであり、決して先天的に組み込まれた能力などではない。

 ところが、ヒトの多くは概ね上手く作用した結果だけに基づいて、自分の無意識的行動バイアスの全ては常に安全であると簡単に安心し、錯覚する傾向がある。

 概ね上手く作用した結果の多数枚挙によって、あたかも絶対的に上手く作用すると錯覚するのである。

 概ね自分にとって利己的に上手く作用した結果が多い場合、自分というものが予め先天的に意味を持つものであると錯覚するのである。

 自分の行動選択が、概ね自分にとって有利に働いたことによって気分的に安心して無意識本能任せにしておくことが出来るようになるのである。

 こうした無意識による「馴れ。」というものこそが、ドーパミンの持つ常習性によって作り出された行動学習の正体である。

 多くの場合騙されたことがない者の場合、論理的根拠もなく「自分は絶対騙されることはない。」と勝手に思い込むことによって、自己存在が他人とは異なる特別なものであると錯覚し、「自分だけは大丈夫。」であると気分的に安心するのである。

 東大の学長が論じたように、「全てを疑え。」というのが正しい判断を導く。だが、多くのヒトは今まで信じ込んできたものを疑い、検証することを怖れ。盲目的に信じ込み続けることの気分的安心「甘え。」を放棄することが困難である。

 盲目的に多数や権威を信頼することに依存してきた者にとって、その依存を断ち切ることに対して精神的恐慌をきたすため、何が何でも多数や権威性への盲信を捨てることが出来なくなってしまうのである。

 文系大衆観念的には、「甘え。」を断ち切るためには精神論的な努力辛抱根性によって、無理矢理我慢し、堪えることによって達成出来ると勝手に勘違いする。

 精神論的な忍耐というものには、個人の許容量というものがあり。努力辛抱根性的な忍耐我慢によって全てがどうにかなるようなものではない。煙草の依存症治療同様に、無意識下に行動学習された条件反射的価値観というものを矯正するためには、地道で小さな努力の積み重ねによる「慣れ。」が肝要である。一朝一夕にどうにかなるようなものであると「思う。」ことこそ、短絡的な文系大衆観念というものである。

 世間という多数他人や、それによって認証された権威に対する盲目的服従迎合というものは、長い期間に渡る刷り込み行動学習によって作り出されたものである。依存症というのは無意識下に安心快楽として刷り込まれてしまったものであり、急激に依存症を治すことは原理的にも不可能である。依存症の類というものは、ある程度の時間期間に渡る、地道な「慣れ。」によって矯正するべきものであって、短絡的に忍耐我慢によって治るようなものではない。

 ドーパミンが持つ常習性による「慣れ(馴れ)。」というものは、その性質に無為無策に流されるのではなく。積極的に意識的目的のために利用する道具として扱うべきなのである。


 社会性、或は社交性といったものを持たないことを。多くの大衆文系観念者達は人間性の欠如と勝手に錯覚する。しかし本能的な社会形成習性というものは「ヒト。」としての本能の程度問題に過ぎず、何ら社会安全性や持続可能性に影響を及ぼすものではない。むしろ社交性、或はコミュニケーション能力と称して多数権威に盲目的服従迎合をしてしまうことの方が人間性の欠落を招くことの方が圧倒的に多いことを、多くのヒトは認識したがらない。

 文系の観念上では、社交的でない生物的コミュニケーション能力の低い者に対する観念的恐怖心によって、あたかも生物的コミュニケーション能力が低いことこそが人間性の欠落であるかのような錯覚を抱きがちである。しかし、この観念には論理的合理性は全く存在せず、単なる本能的恐怖心によるヒステリックな拒絶反応に過ぎない。

 社交性がないことというのは、社交性に固執する者にとっては耐えがたい精神的に恐慌をきたすような地獄であると勝手に錯覚しがちであるが。社交性のない者にとっては社交性がないことは普通で自然なことであって、何ら精神的恐慌などきたすことはなく。むしろ精神的恐慌をきたすと勝手に錯覚していること自体が社交性に対する依存症の現れであり、勝手な主観的思い込みに過ぎない。

 文系大衆観念上における「社会性。」というものは、単なる外見上の気分的安心感を論じているだけであり。何ら論理的人間性や安全性の論証にはなっておらず。本質的な「人間としての社会性。」の論証とは無関係な観念に過ぎない。

 生物本能的な社会形成習性が希薄で観念的安心感をもたらさない者に対しての異常なまでの拒絶反応こそが、非人間的排除差別というものの根源である。そこに気付かず漫然と排除差別をし続けておいて「社会性。」もすったくれもあったものではない。

 自分の価値観の、一体何が論理的根拠を持たない実証不能の文系大衆観念であるかすら自律的に検証できずに、人間とは何かを論ずる資格はない。それは単なる「ヒト。」という種の大型類人猿に過ぎないからである。

 たとえどんなに学力学歴が高くても、年収が多くても、書いた本の販売部数が多くてもである。


Ende;
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選択可能性。

2012年04月24日 14時32分45秒 | 意識論関連

○選択可能性。

 数十億年に渡る淘汰の結果である現在の生物相だけを観測している限り、過去に起こったことの全てを説明することは原理的に不可能である。証拠の全てが保存されているわけではなく、全ては憶測による推理にしかならない。

 何より偶発性に依存した突然変異に起因する現象である遺伝的な進化変化については、目的的な「説明。」をすることは理論的に不毛である。突然変異には誰の目的意図も介在していないからである。

 進化に対する合目的的な「説明。」というのは、あくまで生存だの種の保存といった「結果。」を生物学者達が「目的。」であると勝手に決め付けた上で強引にこじつけたものであり。「説明のための説明。」に過ぎず、何ら論理的証明にはなっていない。

 ミミックオクトパス(学術名は知らない。)の能動的擬態だけを見れば、あたかもタコが意図的目的意識に基づいて行動選択をしているかのように「思え。」るのであろうが。こうした「思い。」には論理的根拠がない。

 脳を介する能動的物真似擬態といったものは鳥類の一部でも見られる。カメラのシャッター音を真似することによって、あたかもヒトが存在するかのように天敵が錯覚するとすれば、結果的には物真似は「成功。」したことになるが。何の物真似をするのかは鳥自身の気分次第であって、何ら目的意識が介在する必要性はなく。あくまで偶然の結果でしかないのである。

 ヨツコブツノゼミのように、従来の生物学における「説明のための説明。」が不可能な生物が存在しても何らおかしなことではなく。従来の生物学における「説明のための説明。」の方が間違っているのである。

 ヨツコブツノゼミの場合、捕食者からすればトゲが喉に刺さって食べ難いという効果はあろうが。コブ自体には意味がない。この場合における「意味。」とは、あくまで結果的に生存に適するかどうかについての断片的意味に過ぎない。

 「へんないきもの。」の著者である早川いくをも、ヨツコブツノゼミの説明において「何らかの意味が必ずあるはずである。」と述べている。しかし、良く考えてみて頂きたい。意味がある論理的必然性は一体どこにあるであろう。

 突然変異というのは、いうなれば「テキトー。」であって。支離滅裂な偶然性によるものである。それが結果的に生存に適するかどうかも環境に依存しており、どのような進化変化をしていようとも何らかの目的に適する必然性など必要ないのである。

 遺伝的に突然変異が組み込まれているのも、突然変異が組み込まれていない種の生物が淘汰された「結果。」に過ぎず。変異の程度が様々なのも、環境適応の結果に過ぎない。当然「適応。」自体も誰の目的意図によって自発的に選択されたものではなく、あくまで「結果。」以上の何物でもない。

 ヒトの本能的行動習性であっても、集団に迎合することによって破滅暴走に向かう結果を導くことも少なくはない。生物学者達が本能的な暴走というものの原因を環境状況といった外的要因にしたがるのは、生物学者自身の自律的行動選択の欠落による必然的帰結であり。自分がしたくない自律判断であれば誰もがしたくないと「思う。」のはとても「自然なこと。」でもある。

 自然本能のままに流されておけば破滅暴走に陥っても「仕方ない。」ものである。ヒトという種の本能習性のままに行動しておけば、原発が暴走しようと大量虐殺に至ろうと「仕方ない。」のである。しかし、こうした本能習性というものに抗がい、本質的に合理性のある持続可能性や安全性といったものを獲得するためには本質的な意識というものが不可欠である。ヒトは意識を持つことで人間として振る舞うことが可能になる以上、「仕方ない。」といった選択不可能性の証明など存在しない。あらゆるヒトに絶対に可能であるとは言わないが、可能であるにも関わらず気分的に「したくない。」からしないというのは、本能的であり無意識であり無責任なのである。

 破滅暴走というものは無意識である本能習性の産物である。この破滅暴走性に対する耐性として意識/論理検証性というものを結果的ではあれ獲得したヒトという種である以上、これを放棄するというのは人間として怠惰と言う他ない。

 どんなに気分的に嫌であろうとも、その「嫌。」という気分自体も自己選択によるものではない。

 「あらゆる生物の存在には何らかの意味が存在するはずだ。」という観念が、文系大衆にはある。それは自己存在の意味というものが予め決定していて、自己自身で存在の意義を持たなくても生存し続けることの正当性が自分以外に存在すると「思い。」たいからである。

 そう思うことで気分的に「元気が出る。」だの「勇気がわく。」からである。文系大衆観念というものの根源は、全てこうした気分的な本能的快楽によって促されるものであり。そこには合理的根拠や論理的意味といったものは存在しない。

 ヨツコブツノゼミのコブのように、結果的に組み込まれた本能には意味のないものが含まれていても何らおかしくはないのである。

 目先の多数他人や、それによって規定された権威への服従迎合というものに対してのCybernetics的説明というものを枚挙しても、本能的服従迎合の危険性の反証には全くならず。むしろ危険性を意識から遠ざける効果しか持っていない。

 詐欺師に騙されるヒトの脳の習性というものも本能的感情システムの「結果。」であり。これ自体は当人の意識的選択によるものではない。これはナチス政権に服従迎合したドイツ人や、原発の暴走を放置した東京電力の社員においても同様である。

 多くのヒトが引っ掛かった場合、それが集団催眠/洗脳であることすら認識したがらない傾向というものがある。多数派同調バイアスという本能的習性というものは、多数派に迎合した個体が結果的に生存に適した結果に過ぎない。

 頭が悪い方が生存に適しても何の不思議もない。実際シエラレオネでは残虐性を競うことこそが生存に適したのである。

 ヒトという種の生物が、その進化過程においてどのような淘汰が働いたのかは知る由もない。従って自己自身によって意識的選択を介していない本能習性による行動バイアスがどのような結果を導くのかは何の保障もないのである。

 多数派同調バイアス、或は正常性バイアスといったものが津波災害においての被害拡大を招いた。こうした気分本能的な行動バイアスこそが本能的社会形成習性として組み込まれており、その結果としてナチズムや東電イズムを作り出したのである。これらの行動バイアスというものは本能気分といった無意識によって作り出される。

 多数派同調によって服従することに安心し、正常性への勝手な思い込みによって危険性は無視される。そこには本質的な合理性の追求というものは存在せず、目先の断片的合理性だけが優先されているのである。こうした目先の断片的合理性のことをカントは純粋理性であると錯覚したのである。

 チンパンジーの瞬間記憶能力を見ていると、あたかもチンパンジーの理性によって成立しているものであると錯覚しがちであろう。非常に高度で高速な特定能力というものは、あたかも本質的知能によって作り出されていると「思い。」がちなのであろう。しかし、実際にはチンパンジーの瞬間記憶能力というものはエサに対する機械条件反射的に作り出された能力であり、環境依存的な結果以上の何物でもない。

 確かにチンパンジーの断片的能力は「凄い。」かも知れないが、それは程度問題に過ぎず知能の論証にはなっていない。

 どんなに記憶力が高くても学力成績が高くても、自律的に社会安全性や持続可能性を求める本質的な人間としての知能の論証にはならない。

 社会安全性や持続可能性を求められないのであれば、これは人間の社会にとって害はあっても利益にはならない。たとえ世間的/表面的に成功しているとしてもである。

 ヒトは見た目という無意識判断が9割以上である。故に時代に左右される世間的価値観や、表面的な成功といったものを主体的価値観として考えがちである。社会安全性や持続可能性を追求しても世間的評価や報酬には短絡的には直結することはなく、むしろ世間的には排除の対象となる場合も少なくはない。

 ヒトの多くは世間的な個人的利益/成功といった価値観に意識を奪われがちである。自己存在の価値というものを目先の世間に求めていれば自律は失われる。自律とは自己尊厳に基づいて行われるものであり、世間という環境に依存しない確固たる意思なくしては不可能なものなのである。



○自然。

 自然という熟語の読みには「しぜん」と「じねん」の二つの読み方がああるそうで、「じねん」の方は仏教由来の言葉だそうで因果律を持たないもののことを現すそうである。

 突然変異そのものは因果律を介在しない。因果律を介さない突然変異による結果である以上、変異の後にどのような淘汰過程の因果関係を並べても、根本自体に因果律が伴わないことは変えようがない。

 現在の生物学における生物の結果に対する「説明。」というものは、その説明の最も根本的な突然変異の偶発性を無視した「こじつけ。」に過ぎない。

 ある生物が生存に適した進化変化をしたことを、あたかも生物個体が自主的/主体的に変異を意図的に「した。」と現在の生物学は論ずるが。変異が生物個体の意図によって遺伝要因を変化させたことの論証には原理的にならない。

 脳機能を介する能動的擬態である物真似であっても、生物個体が天敵の視覚的撹乱を意図して行っている論証はなく。むしろ意図目的といったものを介さず、淘汰の結果的反射行動である本能のままに行動自体の淘汰が行われた結果に過ぎず。先天的本能として組み込まれたあらゆる機能というものには個体当人の目的意識が介在する余地はない。

 一見知能的に行動擬態/物真似を行っているように「見える。」としても、これこそが文系大衆観念による錯覚であり。こうした大衆観念による錯覚自体が先天的に組み込まれた無意識本能によって促されているのであり、こうした錯覚自体は当人個人の意図目的意識によるものではない。

 意図目的意識が介在していないからこそ論理検証性のない観念として多くのヒトは「リアリティ。」を「感じ。」るのであり、こうした「感じ。」によって錯覚は錯覚足りうるのである。

 従来の生物学は生存という結果に対して、あたかも目的が存在するかの如く膨大な「説明。」をしてきたが。これらの「説明。」というものは根本的に結果と目的を論理的に明確に区別していない「こじつけ。」以上の意味はなく、何ら論理的説明にはならない。

 別段釈迦の言っていることを立証する必要性はないが、突然変異という偶発性が自然の根本にある以上、これは因果律を伴わない「じねん。」の考えの方が科学的にも合理性があると言える。

 多くのヒトは断片的な説明だけで全てが論理証明であるかの如く錯覚しがちであるが。これは興味意識による論理検証性が足りておらず、本能由来の錯覚によって気分的に「納得。」することと「論理検証性。」を間違えているからである。

 生物の全てが環境と調和し、持続可能で安定しているわけではない。現在の自然界の安定性というのは数十億年に渡る変異淘汰変化による結果として「概ね。」の安定性を獲得しているに過ぎず。決して万能完全であるわけではない。

 ヒトという種の生物の本能的行動においても、「概ね。」安定的であるとしても。常に安定的で論理的判断ができるわけではなく、本質的合理性を持った社会持続可能性や安全性を基準とした選択というものは本能気分に流されることなく本質的意識によってのみ行われるものである。

 そして本質的意識/本質的合理性追求というものは本能的には組み込まれておらず、あくまで当人の自発的な思考意欲によってのみ促されるものである。

 本能的に組み込まれた行動というものは本質的合理性が伴うわけではなく、あくまで「概ね。」安定的なだけに過ぎず。環境や状況によっては簡単に暴走を招くものでもある。


Ende;
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