書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

タイトルが思いつかなかった。

2012年04月30日 15時07分27秒 | 意識論関連
 経済効果などの「目先の効用。」というのは、いうなればカンフル剤に過ぎず。カンフル剤ばかり乱用していれば不健康に陥るのは当たり前のことである。特定の薬剤の効果に依存して「これさえやっときゃ、全ては上手くゆく。」という短絡的発想に依存してしまうのは文系大衆観念的な無責任という以外にない。

 優先されるべきは社会持続可能性や安全性なのは合理的に考えれば当たり前のことであって、過剰な利益だの世間的成功などというものに意識を奪われているから本当に大切なものを見失うことになるのである。

 オリンピックで盛り上がるなどというのは、目先の経済効果を狙った場当たり的な金儲けの話でしかない。ましてやメダルの色が何色であるかなど、実質的には社会的貢献にも何にもなりはしないのである。

 マスコミや多数大衆がメダルの色にこだわるとしても、そんなものは一時の狂乱興奮に過ぎず、何ら社会持続可能性にも安全性にも寄与することはない。

 スポーツや芸術といったものは、全て気分的高揚や快楽を得るための主観的なものに過ぎず。それによってどんなに多くの経済波及効果をもたらすとしても、客観的には社会的貢献になるわけではない。

 事実上経済的に萎縮が不可避な日本において、カンフル剤的オリンピックの招致が必要とは思えない。

 永遠に経済が成長し続けるなどという幻想/神話に依存したいというのは、気分感情本能が求めるものであって、経済成長自体は持続可能性や安全性とは相反する要素を含む場合も多く、経済成長を「目的。」とするのは人間としての社会性には価しない。

 経済萎縮というと、「萎縮。」という言葉の気分的雰囲気に惑わされて、あたかも貧乏人が増えるかのような錯覚を促すかも知れないが。意図的計画的に経済縮小させていけば、むしろ無駄な金持ちを増やさずに平等分配に近づけることも可能なはずである。

 金だけが目的動機で働く場合には過剰に金に対する異常な執着が発生するのであり、これは本質的には個人の主体的目的ではなく、環境依存的な機械条件反射的行動に過ぎず。また、目的すら存在しない。

 ヒトが人間として経済活動に参加するのは、個人の主体的動機によって社会持続可能性という「人間としての社会的目的。」に基づいて行われるべきものであり。環境依存的で短絡的な本能主体の金儲けを動機とした結果的経済成長可能性にばかり依存するのは、人間として出来損ないなのである。

 単なる気分的安心だけを追求すれば、「今までずっとそうだった。」ことに依存しがちなのは、ドーパミンが作り出す常習性の「結果。」であり。意識的で合理性のある目的ではない。


 従来の生物学上における生存を絶対価値「目的。」に置いた論証の全ては、あくまで本能によって促された行動の結果に過ぎず。結果に対してその場限りの理由付け、意味付け、目的付けをするのは論理的思考を撹乱することはあっても、論理的思考を組み立てることにはならず。これが結果的に文系大衆観念として本質的合理性の追求を阻害することになるのである。

 「自分さえ良ければ。」というのは「考え。」ではない。自分だけが良い状態というのは理論的/原理的に存在しないからである。ヒトという種の生物は個人一人だけで生存持続を維持することは出来ず、あくまで社会全体と一体であり構造的に不可分である。従って論理的「思考。」が働いていれば利己的行動選択は行われるはずのないものであり、平等分配を求めるというのは人間において極めて当然の選択である。

 しかし、これを断片的に「目の前の相手。」だけで実証しても、本能習性として常に平等分配に価する行動選択が行われる証明にはならない。

 「目の前の相手。」だけにしか意識が働かないのは本能習性による意識狭窄性であり、これは環境状況に左右されやすい不確定要素である。

 「目の前の相手。」以外や、仲間知人以外についても意識を働かせるというのは本能習性とは異なる意識的思考によって導き出されるものであって、無意識には行われるようなものではない。

 状況場合によっては目の前の人であっても危害を加えることもあるのがヒトという種の生物の本能習性であり。これを抑制するのは社会制度だの空気といった、多数他人によって作り出される環境依存的行動結果に依ることなく、個人が主体的/自律的に抑制できなければ、社会というものは目的を失い破綻への暴走を突き進むことに陥るのである。

 オウム真理教などのカルト集団における暴走性というものは、社会全体における暴走性の雛形でもある。暴走に加担している者の多くは気分的感情的精神的には安心満足していられるのであろうが、その安心満足こそが客観的に合理性追求する思考を喪失させ、何ら目的のない結果的暴走へと導くことを認識しなければならない。

 多くのヒトは「自分だけは大丈夫。」だと「思う。」であろう、そう「思って。」いた方が安心で満足であるのは本能習性であり、当たり前で自然な結果である。それ故に現状社会の問題の多くが放置され、何ら対策というものが採られることがないのである。

 きっと、ナチス政権下のドイツ人の多くも「自分だけは大丈夫。」だと信じ込んでナチスに加担したのであろう。太平洋戦争における日本人の多くも、こうした無意識的安心によって自分達の暴走を放置したのであろう。

 自分が概ね安全であることをどんなにたくさん枚挙抽出しても、自分自身が無意識に呆然としていても常に安全であることの証明にはならない。

 ヒトの多くはヒトという種の生物における概ねの安全性だけに注目しておけば、ヒトは自動的本能的に安全性が確保されているものであると勝手に錯覚して安心するものである。

 気分的に安心しているのは勝手だが、それによって思考を停止させて目先の本能欲望のままに行動しておいて良い証明であるかのごとく錯覚するのは勝手という訳にはいかない。


Ende;
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何ペルガー症候群。

2012年04月30日 15時04分07秒 | 意識論関連

○何ペルガー症候群。

 アスペルガー症候群という臨床医学上での分類があり。先天的に他者との同調迎合性が希薄なヒトのことを指すようである。

 逆に言うと本能的な同調迎合性による強迫観念的なまでの他者との同一化に固執することも一種の症状であろう。これを暫定的に、アスペルガーの反対だから昨日ペルガー症候群とでも呼ぶことにしておくことにしておく。

 アスペルガー症候群の子供というのは、子供の集団内部においては昨日ペルガー症候群の子供からの強迫観念的排除差別を受けやすい。昨日ペルガー症候群の子供というのは異常なまでに多数他者との同調迎合に固執するため、多数他者との同調迎合に興味が希薄なアスペルガー症候群の子供に対して執拗なまでにヒステリックに排除差別をしたがる。

 アスペルガー症候群の子供というのはヒトの集団の内部では少数派なので、アスペルガー症候群の子供というのは多数他人からの排除差別を受けやすいことになる。

 昨日ペルガー症候群の子供というのは、多数のヒトの本能的な社会形成習性によって統率し、多くのヒトを目的のない観念に誘導することができるため。多くのヒトは自分が無意識本能的に無意味な差別行動を強いられていることすら認識することが出来ないことが多い。

 結果的にアスペルガー症候群の子供は排除差別を受けることに陥り、精神不安定を招き犯罪に至るケースがあるのではないか。

 ヒトというのは自然の産物であるから不確定で偶発的な突然変異によって極端な個体差を持つ場合がある。これは不可避である。

 犯罪というものは基本的には当人の自律的責任判断によって抑制されるべきものではあるが。子供が勝手に作り出す観念的価値観に基づく排除差別によって特定の子供だけに精神的負担がかかる状態を放置するのは、大人の方の無責任であろう。

 占い師やカルト宗教の教祖、アドルフ:ヒトラーといったペテン師というのは、空気を読むことに優れた昨日ペルガー症候群である可能性がある。漫画家の倉田真由美などもこの類であろう。故に多数からの「人気。」が得られる。

 人気があって気分的に安心しておけば安全性が確立されるものであるという錯覚は、文系特有の大衆観念に過ぎず。こうした実証不能の観念に基づいた考えしかしないから何ら問題が解決しないのである。

 大学生らに見られる酒の一気呑みによる急性アルコール中毒事故も、その場の空気に迎合してしまうことによって引き起こされるものである。先輩だの目上の者に対する盲目的な服従や、そうした集団に対する迎合性によって無為無策に重大事故の危険性を放置してしまう無意識的気分こそが集団全体の「空気。」という実証不能の観念への歯止めを失わせるのである。

 気分のままに無為無策に目先の多数集団に迎合しておけば、昨日ペルガー症候群の者達というのは安心して自信たっぷりに合理性のない身勝手な観念を多数に強要することが可能であろう。彼らには自律的に自分の行動選択を検証する意識も意思もなく、ただ目先の気分的満足を得るためだけに集団を扇動するのである。

 集団心理とは、多数集団における気分的な優越感による気分的/本能的満足である。本能という結果には実際には目的が存在しないために、集団優越感を得るためだけに危険な薬物中毒への扇動を行うことに陥るのである。

 目先の多数の迎合服従によって気分的な安心満足を得ることだけに意識を奪われ、彼らはなぜ自分がそれを行っているのかは全く理解しておらず。ただ本能習性のままに危険な行為を行っているので、全く自律的には改善することが出来ない。

 精神年齢の低い者というのは、多数の仲間によって興奮していないと不安なのであり。強迫観念的に興奮状態を作り出さなければいられないため、結果的に暴力的破壊や差別といった非人間的行動に陥らざるを得ない。

 自律的に改善できない無為無策性というものは、それが無意識であるからであり。こうした無意識性こそがあらゆる集団の「体質。」というものを作り出す原因である。組織集団における「体質。」というものは、その体質自体を自律的には全く改善できないからこそ「体質。」なのであり。自律的に改善できていれば組織「体質。」にはならない。


 ヒトの多くは本能的好き嫌いによって気分的に安心することばかりを追求しがちであるが、その気分的好き嫌いによる排除差別というものがヒトの精神を破壊し危険なヒトを作り出しているとすれば、これは犯罪者だけを糾弾処罰しておけば犯罪や事故がなくなるという短絡的なものではない。

 「ヒトは全部違う。」という、極めて科学的で合理的な根拠に基づきヒトを育てる必要性がある。

 しかし、ヒトの多くは同じであることに強迫観念的に固執し、特定の個人への排除差別によって気分/本能的満足を求め、何ら合理性のない異常な同一化への強制的「統率。」をしがちである。

 統率行動というのは本能的な社会形成習性によって、結果的にヒトの習性として組み込まれたものであり。こうした統率性というものの結果として人間としてあるまじき排除差別に至ることは許されることではない。

 目先の変わり者を多数で排除差別しておけば満足であろう、しかし、そうした排除差別によって社会安全性が失われることまでは、子供の頭だけでは考えが及ばないものである。だから教育によって子供だけの勝手な観念的価値観に流されないように、大人による論理的思考促進が必要なのである。

 こうした論理的思考促進というものは、SQ的なペーパーテストで高い得点を得れば良いという短絡的なものではなく。子供個人が自発的に自分の行動や社会の在り方を考えるようになることが大切なのである。

 どんなに偏差値の高い大学に合格しても、自律的に社会的責任判断が出来ないのであれば、これは単なるバカに過ぎないことを認識すべきである。新入生歓迎コンパで一気呑みを強要するようなバカ学生を誰も止めることが出来ないのであれば、人間として糞の役にも立たないことを知るべきである。


 昨日ペルガー症候群であれば、大衆の脳を酔わせて世間的に成功することも簡単であろう。最悪の場合カルト宗教団体を作り上げて都営地下鉄三田線に毒ガスを撒き散らすことも可能であろう。大衆にとって世間的成功というのは羨望という目先の欲望と直結しており、本質的な社会的存在価値とは何ら論理的関係性もないことには意識が働かないものなのである。

 たとえ昨日ペルガー症候群であったとしても、それをそれと認識することによって多数他人との迎合性に流されないように行動選択することは不可能ではない。

 可能であることをやらないのは、気分的にやりたくないからに過ぎず。精神の怠惰に過ぎない。

 目先の多数他人の集団によって作り出される偏った価値観というものを、それと認識するためには目先の多数と話を丸めたり、その場の空気に流されることなく自律的に判断する意思/意識というものが不可欠である。そのためにも小学校低学年から自発性を育み、自律的に本質的合理性を追求できるような教育をしなくてはならない。

 戸塚ヨットスクール的な手抜き短絡洗脳では、こうした自発性は全く育たず、周囲の環境に簡単に流されるような意思薄弱児童を大量生産するだけであり。全く社会的には役に立たないのである。バカな親にとって従順で扱い易い子供を生産することというのは、決して社会的責任を果たしたことにはならない。


 文系大衆観念上における統率力というものは、実際には人間社会において統率するに適していることを論じているのではなく。単に統率したがるとか統率が上手いだけの昨日ペルガー症候群に過ぎない。

 昨日ペルガー症候群であれば、文系観念上においては「社会性。」があることになっており、あたかも人間として何の問題も存在しないかのように分類しがちであるが。実際には現状世間に対して何の批判も疑問も持たない無為無策なただのバカな文系大衆観念による論理的根拠のない身勝手な雰囲気的決めつけに過ぎず、実質的な人間としての社会性の論証にはなっていない。

 ヒトラーや麻原、ポルポトといった虐殺扇動者達というのは、人間社会において統率するに適していないにも関わらず、多数の大衆によって支持され統率力を破壊や残虐行為に用いることしかできない。彼らは統率によって本能的な社会形成習性を満足させることだけが目的であり、結果的統率に目的が存在せず、目先の気分的安心満足を得るためだけの短絡的最終解決にしか至ることができない。

 酒の一気呑みを強要するというのは、規模は違えどヒトラーやポルポトとやっていることは同じである。正恩君と一緒で目先の多数と話を丸め、気分的に安心満足することだけが目的であり。その行為の先に暴走破綻があるとしても、強迫観念的にやめることが出来ず、狂乱興奮というものへの一種の中毒状態に陥っているのである。

 大衆観念的には最高指導者だけが全ての責任を負っているものであると錯覚しがちであるが、太平洋戦争における裕仁天皇が軍によって崇拝対象に祭り上げられていたのと同様に、若い正恩君には何ら目的も理念も何にもないのである。これはオウム真理教の教祖でも同じで、麻原自身も「弟子にそそのかされた。」と述べているように、彼ら統率者達には何の目的も意図も存在せず、周囲の者達が統率者を盲目的に崇拝正当化するための行為として、外部に対する破壊行為によってのみ忠誠忠実性をアピールする結果として、カルト集団というものは閉鎖腐敗に至るのである。

 ある程度の規模の集団であれば、統率者には目的意図や理念といったものが存在するものであると「思う。」のは、それこそが文系大衆観念に過ぎず。目的も意図も存在しないまま規模だけが暴走的に巨大化する集団というものは珍しいものではない。

 より多くの人が自律的に社会的責任判断を下せるようになれば、無意識的な洗脳集団というものに対するブレーキや告発による抑制が働くようになる。それによって社会持続可能性や安全性というものは確立されるようになるのである。



アスペルガー症候群には、特定の物事に対するこだわりの強さというものがある。

 特定の物事に対してこだわりを持たないということは、その場限りに周囲と迎合するだけの主体性のない者であるということであり。このような主体性のない者というのは自律性もまたない。

 ノーベル賞受賞者の多くは、特定の物事に対するこだわりが強いものであり。天才というものは基本的にアスペルガー症候群の傾向性があるといっても過言ではない。

 単に平均的に多数他人と迎合するだけで、主体的に物事にこだわりを持たない者の方が平均的な大衆凡人達にとっては観念的に安心ではある。しかしこれは安全性とは全く無関係であり、実際に残虐犯罪が起こってから「まさか、あの人が。」的な話は枚挙にいとまがない。連続殺人犯というのは挨拶は普通にできるものなのである。

 逆に言えば、多数によって少数を排除差別することについては、大衆の多くは何ら批判も抵抗もせずに、その場限りに暴力的多数に迎合服従しておいても平気なのである。だからイジメもカルトもなくならない。

 目の前で起こっている事象を程度規模が小さいからといって無視しておいて、大きな事象が起きてから不思議がっているというのは、寝ているとしか思えない。事象の大きさの違いという程度問題によって観念的に分類してしまうからこそ問題の本質を見失うことに陥るのであり、ヒトのやらかす過ちというものには程度の差こそあれさしたる違いなど実際には存在しないのである。

 ハインリッヒの法則にあるように、一つの重大事象の下には多数の小さな事象が隠れているものであり。小さく些細に思える事象に対する丹念な検証なくして重大事象の予防は出来ないのである。子供同士のイジメとナチスやポルポトによる虐殺を、程度問題による根本的違いであるという文系大衆観念/気分的なバイアスによって分類してしまうのは間違いである。程度が違っても、実際に行われている差別意識自体は全く同じものであり、むしろ程度規模の違いでしかないのである。

 文系観念上においては時代背景やその他複雑な要因によって重大事象は引き起こされるものであると錯覚しがちであるが、これは文系観念者自身の自律判断の欠落による勝手な解釈であって、自律判断の出来ない者にとっては時代背景などの外的要因にしておかなければ説明が出来ないという、いわばバカの論理に過ぎない。

 例えば連続殺人を行った犯人が、「自分がなぜ、そんなことをしたのかわからない。」だとか、「悪魔が乗り移った。」などと、あたかも自分の処為ではないかのように他人事にすりかえたがるのと同じ心理による観念である。

 自分の言っていること、行ったことを自分では説明できなければ。これは単なるバカでしかなく、夢遊病者と全く同じで無意識的に行動しているのと同じことである。それなら何が起きても、自分が何をしでかしても誰にも文句をたれる権利はない。

 時代背景などの環境依存的要因で全ての行動が決定してしまうというのは、そこに自律判断の存在が全く欠落しており。多元的カオス要因によって原因がわからないことにしておくことで自分自身の自律判断責任を放棄したいのであろう。

 排除差別というのは非常に普遍的に見られるヒトの性質である。普遍的であるからといって論理的に普遍性を証明したことには全くならず。「普遍的。」とはいっても傾向性の論証にしかならない。

 多数の共感によって特定の個人を排除差別することで、気分的に興奮するという目先の快楽を追求してしまうことによってイジメというのは発生する。本能的な社会形成習性によって、統率的に多数同調することの快楽に無意識に流される性質がヒトにはあり、この本能的統率というのは全て結果であり意識的な目的など存在しない。

 ヒトに限らずあらゆる生物が生存存在しているのは、全て「結果。」に過ぎない。突然変異という偶発性と、偶発的な環境によって淘汰された結果として生物は生存しているだけであり。結果的に組み込まれた本能習性というものに意味だの意識的目的など存在するわけがないのである。

 文系観念者達が、こうした生物の結果に対して、あたかも意味や意識的目的が存在するかのようにこじつけたがるのは。自分自身が自発的には存在意義や目的を見出だすことが出来ないという主体性の欠落によって、あたかも自己の存在意義や目的というものが先天的に予め用意されていることにしておくための言い訳/取り繕いに過ぎない。

 文系観念者が「社会に生かされている。」などという、典型的に主体的意思の欠落した観念に共鳴したがるのも。彼らには自分自身が主体的に「生きる。」意欲が欠落していることの表れである。

 主体的に「生きて。」いない者であれば、自律的に「死ぬ。」ことも選択することはなかろう。それなら生きるためなら社会安全性や持続可能性は後回しになるのは必然というものである。その場限りの本能的安心しか求めなければ、長期的社会持続可能性や安全性など意識が回らないのは当たり前のことである。その行動選択はただのサルと何の違いもありはしない、だから私は無意識な者を「ヒトという種の生物。」と形容するのである。

 無為無策に腐敗体制に迎合服従し、崩壊破綻するまで自発的には何の対策も講じない多くの従順な迎合者達によって、あらゆる腐敗体制は維持され続けるのである。脱構築可能性というものが失われるのは、無意識で主体性のない多くの迎合服従者達が作り出した構築性/体質が原因である。

 正恩君に対する忠誠忠実さをアピールすることを競争していれば、より破壊的最終解決の主張の方が短絡的に正義的快楽を作り出すものである。「水戸黄門。」だの「暴れん坊将軍。」だのといった短絡的最終解決の話程ヒトの脳は陶酔するのと同じ原理で北朝鮮体制は暴走しているのである。

 オウム真理教における破壊的暴走も、同じ構造によって無意識に作り出されたものであり。教祖自身には何の目的意識も存在しておらず、結局子供のイジメ同様に何の目的もなく本能的快楽を追求した結果として破壊的暴走というものは作り出されるのである。誰にも目的意識がない状態のまま集団内部における短絡的正義だけを追求しておけば暴走しか招かないのは当たり前というものである。


 JR西日本における精神論を主体とした合理性のない強制的「教育。」体制がなくならないのも、経営陣達は自分自身の間違いを全く論理的に認識していないからであり。何ら合理性のない観念的な処罰矯正だけに全ての問題解決を依存しているからである。精神論的に努力辛抱根性を現場に強要しても個人の社員の精神的許容量に違いがあるわけではなく、過剰に精神的負担を強いることによって注意力の持続性を失わせてしまっているために、反って危険な状態に陥れていることを経営陣達は認識していない。

 JR西日本だけが他のJR各社の運転手と比べて特異に注意力が欠落しているとは考えにくい。むしろ過剰な精神的負担によって注意力の持続性を失った結果として間違いが多いと考えるべきである。一人の運転手の注意力というものには限界があり、注意力のペース配分というものに着目すれば、精神論的に注意力の強要をするのは逆効果になる。

 バカな取締役であれば精神論的な処罰矯正さえやっておけば気分的には安心していられるであろう。それこそミスが増えれば増える程厳罰化によってどうにかなると勘違いすることも可能であろう。司法における懲役刑が再犯率に何ら影響を与えないのと同様に、厳罰化というものには合理的な根拠は全く存在しないのである。

 安全性というものは個人の主体的自律判断と合理的根拠によって常に再構築されなくてはならない。気分的な満足に溺れているから合理的根拠に基づく対策が失われてしまうのである。


 スポーツ選手がオリンピックなどで国民の過剰な期待によって緊張し、実力を発揮出来ないのも。責任意識という無意識によって精神的余裕を失い、結果的に経験的実力を発揮出来なくなってしまうからである。ゴルフのパターのように個人的利益とは無関係な「国民の期待。」という、いうなれば「多数による勝手な期待。」をあたかも社会的責任であるかのように錯覚しているのは、合理的根拠の全くない文系大衆観念的な「感覚。」を鵜呑みにしているだけである。オリンピックでメダルをとっても本質的には社会的貢献になる合理的根拠などない。

 文系観念者の多くは、努力辛抱根性的な精神論のことを本質的意識だと完全に勘違い錯覚しているのであろう。

 ヒトというのは間違うものである。絶対に間違えないヒトなど論理的に存在しうることはなく、間違えにくいような工夫や対策というものを合理的に構築しなければならないのである。

 文系観念者の多くは意識喚起という文字の持つ「感覚。」によって、間違えないように怒鳴り散らしておきさえすれば意識喚起だと勝手に思い込んでいるのであろう。こうした思い込みという無意識性自体を捨て去り冷静に合理的対策というものを立てなければ、本当の意味における意識的/合理的対策にはならない。

 ヒトという種の生物は、とかく感情的/強迫観念的に何かに注意を向けることを意識であると錯覚しがちである。振り込め詐欺に騙されるのも、詐欺師の言うことだけに意識注意を奪われてしまうから論理的検証性を失うのであり。冷静に一歩引いて見る視点というものを忘れてしまうから本質的な解決策を見失うことに陥るのである。

 何度も言うが、意識の9割以上は無意識であり、これは感情や気分のことを指すのである。目先の感情や気分といったものに意識を奪われることなく冷静に論理的に物事を検証することが本質的な意識であることを、多くの人達は論理的理解をしていないように思われる。

 気分的に凹むとか、感情的に責任を感じるとか、本能的に罪の意識にさいなまされることには意味はない。それは単なる主観的な気分の問題に過ぎないからである。重要なのは自分自身の感情をどのようにすれば制御し、論理的検証に基づく合理的な対策を導き出せるかどうかである。それは気分的には物足りないような気がするかも知れないが、その「気。」こそが気分であり感情であり本能的な「結果。」に過ぎないことを、論理的に認識理解することが重要なのである。

 目的とは何か、「目的意識。」という言葉の通り、目的というのは論理的に追求するものであって、気分感情に流されてしまうから目的意識を失い実証不能の観念によって無為無策に陥ることになるのである。

 失敗した場合に、どんなに気分的に凹んでも、責任を「感じ。」ても、失敗そのものに対する原因の究明や合理的対策にはつながらない。再発防止という目的のためには気分や感情による9割以上の無意識を捨て去り、合理的な対策を立てることこそが最も重要なのである。気分的に凹むことや責任を「感じ。」ることは個人の勝手であるが、気分や感情によって合理的な対策が蔑ろにされることは勝手というわけにはいかないのである。

 気分的、感覚的な罪悪感というものは、言うなれば自慰行為に過ぎない。ドストエフスキーを読んで気分的に「救われ。」ても何の社会的意味はなく、身勝手な個人的満足でしかない。その気分的満足によって合理的な対策というものが失われてたのでは社会的負担にしかならないのである。



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 アスペルガー症候群には社会性やコミュニケーション能力の低さも見られると言われる。

 文系大衆観念に基づく多数迎合性を社会性として扱っておいたまま社会性だのコミュニケーション能力について論ずるのは根本的に間違いである。

 アスペルガー症候群が犯罪と直接的相関がないと同時に、アスペルガー症候群でない者であっても犯罪を犯すのは。従来の文系観念上における「社会性。」や「コミュニケーション能力。」といったものが実際には人間としての社会性とは無関係なものであることの論証である。

 実証不能の観念で丸め込まれておいて一体何が「社会性。」であろう。説明が下手くそで多くの大衆のご機嫌を取らないとしても、論じている内容が合理的で正しい場合もある。どちらが本当の「社会性。」であるかはもはや説明する気にもならない。


Ende;
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