書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

鬼畜日本。(センセーショナルなタイトルだけど、単なるボヤキです。)

2012年09月04日 15時07分21秒 | 日記

 「愛国無罪」なんて、戦時中の日本みたいだね。「鬼畜米英」的に集団内部で共通の「敵」だけを糾弾しておけば本能的な社会形成によって安心満足出来るんだろうね。

 今の中国っていうのは、戦前の日本みたいに強権的な抑圧があるから政府に対して文句を言えないので、鬱憤の矛先を外に向けることで気分的解消をしているんだろうね。

 反日不買デモに加わっている中国人がニコンだのキヤノンのカメラを持っているけど、そういえば中国にはカメラメーカーってないのかな。多分あんまり儲からないんだろうな。カメラっていうのは昔は利益率が維持出来たんだろうけど、今は値下がりが酷いので中国企業が手を出さないんだろう。





 前の投稿時に「サーバーから返事がない」って書いたけど、ツイッターとの連携の不具合に因るものらしいっす。

 結局未だにツイッター連携は出来ないらしい。

Ende;
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有利。

2012年09月04日 15時05分44秒 | 意識論関連



 太平洋戦争の時に反戦を論じた新聞社が多数大衆による不買運動に負けたように、多数大衆がバカならば社会安全性も持続可能性も放棄される。それでもマスコミというのは社会安全性や持続可能性を追求し続けなければならない社会的使命というものがある。世間的成功としての販売部数だの視聴率ばかりを追求するというのはマスコミとしての社会的使命、本質的な社会的要請の放棄に他ならない。

 多数大衆の流行に逆らえば世間的には上手くゆかないこともしばしばあろう。本論に多数人気がないのも同じ理由である。たとえ流行に逆らってでも、社会全体の持続可能性や安全性というものを優先することは、人間においての義務なのである。




 経営学修士課程を取ったからといっても、所詮は企業の経営における世間的成功能力に過ぎない。それは一級建築士の免許を持っていても建築強度偽装をしないことの証明にならないのと同様、社会全体の持続可能性や安全性を優先することの論証には全くならないのである。

 それは人間性の論証とは無関係なのである。

 世間的な成功を「目的」とすることは、社会全体の持続可能性や安全性を二の次にする意識狭窄性を促すことに陥る。多数大衆がバカで、現状世間的に成功することだけが人間としての価値であると勘違いしていれば、統合的視点に立脚した社会全体の持続可能性や安全性が無視されるのは当然の結果である。

 ヒトの多くは目先の利益という、「生体にとって有利と見なされる結果」こそが人間の価値基準であると思うのであろう。こうした目先の「効用」に意識を奪われているから検証範囲の狭窄化に陥り、社会の持続可能性や安全性を見失うことに陥るのである。

 利益を求めるのは本能であり無意識である。どんなに意欲的であろうとも、どんなに渇望していようとも、本能という自己自身による意識的選択を介さない無意識行動に意識を奪われてれば、破綻への暴走に陥るのは当然の結果である。





Ende;
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適応。

2012年09月04日 15時03分07秒 | 意識論関連

○適応。

 環境に適応すると言っても、その場限りの「生体にとって有利」なだけでは本当の意味においての環境適応にはならない。

 本当の意味における環境適応とは、あくまで環境自体との共存なくして個体の生体も維持出来ないものであり。断片的にその場限りの「生体にとって有利」な行動を採りさえすれば環境適応になるわけではない。

 検証範囲の狭窄化というものは、意識自体の狭窄と同義である。問題に対する自発的な意欲興味感心がないからこそ検証範囲が限定され、検証の途中放棄によってうやむやにされてしまうのである。

 個体の環境適応だけを論ずれば、ナチス政権下において絶滅収容所の吏官になることも。シエラレオネの少年ゲリラに馴染むことも。学校でイジメに加担することも。これらは全てその場限りの「適応」能力である。現代の社会ではゲリラ社会の持続可能性は低いが、近代以前や古代においては封建的統率による暴力を用いた支配は珍しいものではない。それならヒトという種の生物というのは、封建的統率による暴力に服従迎合し、自律的には何も判断しようとしない生物へと「進化」している可能性は非常に高い。日本における子供同士でのイジメが蔓延するのも、先天的に組み込まれた本能由来の「社会性」、社会形成習性の結果として封建的統率による暴力的差別排除として現れていると考えるべきである。

 その場限りの「適応」能力の全てが知能であるとは言えない。その場限りに「生体にとって有利」な行動結果の全てが知能であると言うのであれば、あらゆる暴力も詐欺も知能であると言い張るのと同義である。

 目先の「(個体の)生体にとって有利」な行動だけをしていれば、社会全体における持続可能性や安全性が失われるのは当然である。だからと言って本能習性的な安定性を抽出枚挙しても論理的安全性の保証には全くならない。本能的安定性というのは「概ね」という安定性の傾向しか述べていないからである。

 傾向性の多数抽出枚挙は、文系大衆観念的な安心満足を与えるため、これが統合的論理検証性を喪失させる最も大きな原因であり。生物学や脳科学界というのは文系マスコミと迎合することで現状世間に「適応」することで「世間的に成功」しているだけである。これこそが最も悪質なペテンであることを論理的に認識しなければならない。

 社会全体における持続可能性や安全性というものは、先天的本能の結果に依存している限り「概ね」以上は確保されることはない。より高い持続可能性や安全性を、より広い社会全体において実現するためには、可能な限りの論理検証が不可欠である。気分的に嫌だからといって無視するのであれば、あらゆる社会の問題や「人災」に対して文句をたれる権利はないのである。

 文系大衆観念に迎合すれば、程度だのバランスだのを根拠に、文武両道だの挨拶だの規範意識といった論理的根拠のない表面的安心満足に執着するであろうが、これは意識撹乱、論理検証撹乱以外の何ものでもない。当人はそれで「社会の為」だと錯覚しているのであろうが、こんなものはオウム教団における「人類の救済」と同じ身勝手なマインドセットに過ぎない。





 教育者というのは、本来生徒が社会の中において、持続可能性や安全性を優先した統合的論理検証を自律的に出来るように育てなければならない。

 しかし、どんなに生徒が社会にとって持続可能性や安全性を追求したとしても、それは教育者にとっての目先の利益になるわけではない。教育者にとっての目先の利益とは、生徒の学力成績が上がることであって、偏差値の高い無差別殺人犯が出ようとも、学力さえ上がれば短絡的に教育者の評価報酬につながるのである。

 社会の持続可能性や安全性というものは、自己の責任範囲において地道に構築するものであって、評価報酬といった世間的成功に必ずしも結び付くようなものではない。評価基準や報酬構造自体が間違っていれば、持続可能性や安全性を求めることは世間的排除に遭う可能性も非常に高いからである。

 自律的な社会的責任判断を下すことというのは、必ずしも個体の生体にとって有利な結果を導くものではない。それを「適応能力の欠如」だと、「知能の欠落である」と言うのであれば、社会全体が崩壊に向かう暴走に迎合することも「知能」であると言い張るのと同義である。平たく言えば、シエラレオネの少年ゲリラがゲリラ社会に馴染むことを「知能」であると言っているのと同じである。それならイジメが蔓延している教室でイジメに加担することも「知能」ということになる。

 イジメを止めようとすれば、逆にイジメられる可能性は非常に高い。その場限りの環境下において「生体にとって有利」な選択というものを本能的にしたとしても。それがヒトという種の生物全体における持続可能性や安全性を担保してくれる訳ではない。本能という無意識任せにしておいても子供達は自律的にイジメを止めることは出来ないのである。むしろイジメというものは本能的な世間迎合性による封建的統率協調性によって結果的に発生するものであって、本能こそが社会を崩壊へと導く無意識性暴走へと誘うのである。

 本能というのは快楽と直結していることを忘れるべきではない、無意識的に崩壊へと暴走することは快楽で安心で満足なのである。













Ende;
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