書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

看板。

2012年09月20日 17時09分17秒 | 日記

NTT東京グループ駅伝大会

十月十三日(土)九時から十三時まで

この荒川河川敷右岸道路で表記の駅伝大会を開催いたします。
約一千二百名の選手が参加します。
安全で円滑な大会運営に、皆様のご協力をお願いいたします。

駅伝区間 北区野球場前から浮間一丁目先まで

問い合わせ先:03-6220-9933
東日本大震災復興支援チャリティー駅伝大会事務局
株式会社 トリプルエイ


っつう看板が荒川河川敷にあた。

Ende;
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スパイラル。

2012年09月20日 17時02分32秒 | 意識論関連

○スパイラル。

 規範意識というものは、「悪いことをすると、権威者から罰を受けるから恐い。」という恐怖心を用いた他律強制的な精神的抑圧である。

 恐怖心による行動抑制ということは、気分によって行動が決定していること自体には何ら変わりはなく、その場限りに服従迎合対象が転移してしまえば、環境依存的に「適応」する形で行動に論理的一貫性が失われることにもなるのである。

 暴走族を検挙すると、警官に対しては従順で外見上「素直」であるかのように見えるのも。その場限りに服従するだけの従順性を発揮しているだけであって、自律的な社会的責任判断は一切行うことはなく、その場限りに気分的安心を求めて服従対象を転移させることによって、何度も暴走行為を繰り返すのである。

 規範意識という他律強制的抑圧を行っておけば、外見上は従順で統率的行動をさせることは簡単である。ヒトという生物の本能的な社会形成習性を利用しておけば従順性を発揮させることは非常に簡単だからである。

 しかし、他律強制的な抑圧を用いた規範意識というものは、そもそもが「恐い」という気分を用いた行動誘導に過ぎず、個人による自律的な社会的責任判断は養われることは原理的になく。その場限りに気分的に安心できる服従対象を安易に転移させることしか出来なくなるのである。

 中国の反日暴動集団が毛沢東などのカリスマ指導者を取り上げているというのは、要するに個人に自律的な社会的責任判断をする意思が全くないことの表れであり。気分的に権威に服従することを拒絶する場合には多数派の感情論に服従迎合対象の転移が生ずるのである。無論この場合の多数派の感情論には、誰にも自律的な論理検証判断は伴わず、ソーシャルメディアを用いた扇動にも簡単に誘導されてしまうのである。

 為政者の視点からすれば、人工的権威を用いて統率服従させておけば気分的には安心を得ることが可能であろうが、それは論理的な安全性には全くならず。むしろ個人が自律的に社会的責任を誰も取らない無責任な集団を作り出すだけなのである。

 東京電力における危険性放置というものも、規範意識という気分的迎合による服従対象の転移によって生じたものであり。個人に自律的な社会的責任判断というものが欠落することによってあらゆる「人災」は生ずるのである。



 ヒトの多くは、自分や自分が所属する集団の行動選択に対し、事後正当化することによって、自分自身の頭の悪さを意識から外そうとする習性がある。

 「そこには意味があったんだ、そう思わなきゃ、やってられないじゃぁありませんか。」などという気分的バイアスが生ずる原因というのは。自分は常に意識的行動選択をしているものであるという錯覚が働いているからであり、意識の全てが自分自身の論理的判断によるものであると勘違いしているからである。現実にはヒトの意識の9割以上は無意識的条件反射であり、論理検証的な自律判断を介さないのである。

 自己の頭の悪さを認識したがらないからこそ、頭の悪さが治らないのであり、「したがらない」という気分感情こそがバカの源なのである。

 規範意識という気分感情を利用した服従迎合性の行動学習をすることによって、個人から自律的な論理検証による社会的責任判断は失われ。気分感情による事後正当化の屁理屈のでっちあげにしか頭が働かなくなるのである。



 多数民衆は権威に対して気分的安心を求め、権威は多数民衆からの盲目的信頼を求めることによって、権威は権力という利益を獲得し、多数民衆は盲目的信頼による責任放棄という気分的安心満足を獲得するという、無意識な相互の統率スパイラルが生じることによって誰にも目的意識のない統率的暴走という洗脳状態が発生することに陥るのである。

 オウム真理教の教祖が、何の目的もなくその場限りに命令を下していたのも、権威性を維持することだけが目的であったためであり、多数信者幹部達のご機嫌取りとして「敵」をでっちあげて攻撃することによる体制維持にしか興味意識が働いていなかったからである。

 子供のイジメ同様に、多数の統率的協調性を獲得するためには、特定の排除差別対象を決定しておいてヒステリックな最終解決に暴走させておいた方が簡単なのである。

 暴走族の「敵」とは、現状社会である。確かに現状社会というものは絶対的に正しいものであるとは言えないが、だからといってヒステリックに暴力的行動をしておけば現状社会の問題が解決するわけではないという論理的思考判断が欠落しているからこそ、気分感情だけで行動が決定してしまうから「暴走族」なのである。規範意識などという観念的解決策に依存し、個人の自律的論理検証判断を全く育まない現在の日本の教育というものは、構造原理的に無差別暴力者を大量生産しているようなものであり、極めて非合理的なものなのである。

 反日暴動の理性化が困難なのも、そもそもが中国政府自体が民衆を強権によって抑圧していたことによる、個人の自律の欠落が根底にある。これを中国だけの問題であると場当たり的に考えるのは大間違いであり、ヒトという種の生物全般において普遍的傾向性の問題として認識する必要性があるのだ。

 そもそも中世以前においては世界全体が暴力による統率支配をしていたのであり、人種民族国籍に関わらずあらゆるヒト全般においてカルト的な無意識暴走は生ずる可能性を持っていると考えるべきである。

 ヒトの多くは「自分だけは大丈夫」だと思い込んでいれば気分的には安心で、その気分的安心を優先してしまうから自分の頭の悪さを認識しなくなるのである。気分的安心を優先しなくなるようにするためには、自発的な論理的思考による検証性を育むための、本質的な自発的純粋行為を見つけられるように育てる必要性がある。統合的な論理検証性というものは本質的な自発性が伴わなければ構造原理的に発揮されないものであり、「エサ」に対するその場限りの論理的思考能力だけ刷り込み学習させても意味がないのである。

 実際に集団的な暴走破綻が生じてからではもはや手遅れなのである。暴走破綻が実際に起こらなければ気分的には安心していることが出来るであろうが、こうした気分的安心こそが危機意識を失わせる最大の原因なのである。



Ende;
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