書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

体罰。

2013年02月14日 15時50分15秒 | 意識論関連
○体罰について。

 「体罰を用いれば、子供が強くなる。」などという文科系大衆観念には、統計的にも論理的にも根拠はない。

 罰を用いて他律的に強制抑圧しておけば、抑圧されている間は従順に命令に従う便利はバカを作り出すのは極めて簡単な「教育」手法である。しかし、暴力を用いて服従させても、自律的な社会的責任判断が出来るようになるわけではなく。刑務所のように権力を用いた封建的な統率行動をどんなにさせても再犯を防ぐことにはならないのも、他律強制性をどんなに刷り込み学習させても自律的には社会的責任判断能力は身につかないことの証明である。

 暴力を用いて他者を服従させることで、バカな文科系大衆観念者達の多くは気分的に安心満足し、その気分的安心満足をあたかも論理的社会安全性を確保するものであると論理的根拠もなく勝手に錯覚することは、極めて社会的に無責任な行動を及ぼすものなのである。

 バカな文科系大衆観念者の多くは、権威による法手続き的統率さえしておけば気分的に安心であるため。これを絶対的な社会安全性の論証であるかの如く錯覚しているに過ぎない。

 暴力的抑圧に対して服従するということは、そこに論理検証的批判精神を喪失して、ただ漫然と目先の気分的恐怖心だけで行動が決定してしまうということである。原発事故に見られた危険性放置の構造においても、権威に対する服従性こそが自律的な社会的責任判断を喪失させたのであり、目先の気分だけでしか行動が決定しなければ自律的論理判断が伴わなくなるのは当たり前の話である。

 自律的な社会的責任判断を伴わないのであれば、これは人間としては「強い」と言うことは出来ない。そもそも暴力権威者に対して何の批判もせずに服従している時点で、人間としては「弱い」のである。

 大体、子供の教育を自分では責任持たずに、他人の体罰暴力に依存している時点で親としての人間的「強さ」を持ち合わせていないのである。

 平たく言えば、「自分では子供に真摯に向かい合う勇気も心もないから、暴力を振るう他者に養育責任を丸投げしておけば満足で安心だ。」という観念に基づいて体罰を容認するのである。

 論理的根拠もなく実証不能の観念に基づいた主張ほど、ヒトは麻薬中毒の如く執着する傾向がある。これを心理的拘束(ヒステリー)というのだが。認知行動療法的に「なぜ、そう言えるのか。」を繰り返し問い質せば、それが論理的根拠がないことに気付くか、或はただ頑固に自分の発言を事後正当化するための言い訳や言い逃れを繰り返すだけである。

 大抵のヒトは、相手がヒステリー状態に陥り、感情的な主張をすると、気分的に嫌になるため。論理的根拠がなくても服従迎合してしまう習性がある。そのため、ヒステリックに感情的主張をしておいた方が自分にとって都合良く他者をコントロール出来る場合が少なくないため。ヒステリックな主張に対する常習的依存性を発揮するように陥りがちなのである。

 このように環境依存的にヒトというのは感情的ヒステリーに陥っていた方が、気分的にも物質的にも楽であるため、論理検証的批判精神を喪失することに陥るのである。

 服従についても、権威や資本家に服従しておいた方が楽で安心であるため、服従することへの条件反射的安心感を刷り込み学習してしまうのである。ヒトは初期的には常に子供であるため、大人の言いなりになっていた方が気分的に安心で優等生として扱われるため、ヒトの多くは権威に対する条件反射的服従するよう、「しつけ」られてしまうのである。

 「しつけ」というものは条件反射的に「学習」された思考バイアスであって、主体的な論理検証性と正反対な無意識性なのである。

 スポーツ部活に限らず、個人が主体的に「考え」るようにするためには、頭ごなしに強制するべきではない。ましてや暴力を用いるなど言語道断である。

 主体的「考え」、論理検証性がなければ、どんなに断片的成績が良くても「人間性=自律的な社会的責任判断」能力の獲得にはならないのである。

 その場限りの断片的成績というのは、決して個人の人間性の論証や、人間としての価値に直結するものではない。バスケットボールで成績が良いことや、野球で成績が良いことが短絡的に人間としての価値になる論理的証明はないのである。特定の種目で成績が良ければ、それが世間的な成功にはつながるのであろうが。本当の意味での人間としての価値というのは、あくまで個人が自律的に社会的責任判断を行えるのかどうかであって。決して物質的/世間的成功が人間性の価値に短絡的に直結するわけではない。

 物質的/世間的成功というのは、あくまで「目先の効用。」に過ぎず、こればかりを追求しているから社会全体への配慮を喪失することに至るのである。

 もし、物質的/世間的成功を人間としての価値に直結するというのであれば。振り込め詐欺師であろうと天下り役人であろうと構わないという話になってしまうのである。そんな無責任な話を鵜呑みにすべきではない。

 文科系大衆観念的に「強い」だけなら、北朝鮮の国家元首も「強い」ということになるのである。それは北野武のバカ映画における「勝者」とは比較にならない程の権力的「強さ」を持っているのであり。こうしたその場限りの「強さ」を求める文科系大衆観念的無責任さこそが、社会を崩壊へと導くのである。

 論理的検証的思考を阻害するのは、無意識的な思考バイアスであり。思考バイアスというものは感情気分的な快楽安心満足によってもたらされるものである。だから何度も言うように気分的安心と論理的安全性を混同すべきではないと言っているのである。

 権威が規定した基準に基づいて、特定の能力や成績評価さえ満たすことができていれば、個人的には物質的/世間的成功を得ることは可能かも知れない。しかし、権威が規定した基準自体が常に社会全体の安全性や持続可能性まで配慮した基準であることの証明がなければ、権威の規定した基準に基づいた成績評価というものは社会全体にとっては無意味なものなのである。

 格付け会社自体の格付けが問題になったのと同様、権威の規定した基準自体を検証することを全く行わずに鵜呑みにするという無為無策性というのは、気分的な安心によって論理検証を放棄することによって作り出されるものなのである。



 これを「難しいから、わからない。」とか「面倒臭いから無視する。」のであれば、自分の身内がいかなる「人災」に巻き込まれても文句を言えた義理ではない。社会安全性というのはどこかの誰かが自動的に勝手に確保してくれるようなものではないからである。




Ende;
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規範意識。

2013年02月14日 15時49分24秒 | 意識論関連
○規範意識。

 規範意識的に、「悪いことをすると、叱られたり罰を与えられるから、悪いことをするのを気分的に拒絶する。」ように仕向けるというのはフロイト心理学的な「超自我」的抑圧を意味するものであり。個人が主体的に「何が悪いことであるのか。」を自律的に判断する能力を不具にすることはあっても、促すことはない。

 暴力や法的権力を用いた強制的抑圧さえしておけば社会安全性や持続可能性が確保出来ると「思う」のは、大衆的なお伽話であり妄想に過ぎないのである。

 刑法による司法手続きというものは刑罰という暴力であることを忘れるべきではない。

 危険工学者の畑村洋太郎は、原発事故調査委員会の最終報告において、「個人が自律的に社会的責任を負うこと。」が最も重要であると論じている。あらゆる「人災」の危険性を減らすためには、あくまで個人が自律的に判断することが大前提であって、権力や暴力を用いた気分的行動抑圧というのは無意識な行動バイアスを刷り込み「学習」させているだけの「イヌのシツケ手法」であって、人間としての自律的判断力を失わせる反社会的犯罪行為ですらある。

 自分達にとって都合の良いように従順な相手を「真面目」と形容する傾向が、文科系大衆観念にはある。大人の命令に対して従順で、どんなにバカな大人であろうが大人にとって気分が良い子供でありさえすれば、バカな大人は気分的に安心満足して「良い子供」であると勝手に妄想するであろう。

 しかし、単に特定の服従対象に対する従順性を発揮するだけならば、暴力団や暴走族、振り込め詐欺師集団においても発揮されるものであり。これを短絡的に「人間性」であると錯覚するのは大間違いである。こんなものはイヌでも発揮可能な本能的社会形成習性に過ぎないからである。

 集団組織的に協調性を発揮すれば、「大きな力。」を得ることは可能である。しかし、単に「力の大きさ。」だけを根拠にこれを「正しい行動」であると規定するのはあまりに短絡的で乱暴な話である。

 断片的有用性だけを抽出し、それを根拠に絶対的に正しいことであると言い張るのは文科系大衆観念者の常套手段であり。現在の生物学や脳科学というのは、こうした文科系大衆観念に基づいた論証しかしておらず、全く科学としての社会的役割を果たしていないのである。

 だから体罰やイジメ差別といった、ヒトの根源的暴力性に対して一言も論じることをしないのである。

 その場限りに「これをやっときゃ、脳に良い。」的な嘘を垂れ流し、大衆人気を得ることには必死であっても。ヒトの持つ根源的危険性については大衆からのウケが悪いという理由で何も言及しないのが茂木健一郎や川島隆太、澤口俊之といったポンコツ脳科学者達である。

 これらのポンコツ脳科学者達の誰も原発事故などの「人災」について言及していないのは、彼らが大衆人気を優先してヒトの根源的危険性について触れたがらないからである。

 こんなポンコツを脳科学者として取り扱っているからこそ、体罰やイジメに対して脳科学的アプローチが全くなされないのであり。これは社会に対する冒涜であり税金の無駄使いであることを大衆は認識すべきなのである。

 大衆ウケが悪いからといって、ヒトの危険性について何の研究も行わないポンコツ脳科学者任せにしているからこそ、あらゆる「人災」に対する根源的原因究明が全くなされず、バカげた暴力事件や通り魔事件などが何度も再発するのである。

 ヒトという種の生物は、先天的に目先の快楽安心満足を追求することで論理検証性を簡単に喪失する「習性」があるからこそ、バカみたいに「体罰で強くなる。」などという実証不能の観念を振り回すことになるのである。

 自分自身の頭の悪さを認識したがらない者が、他人の頭の悪さを云々言えた義理ではないことすら、バカというのは認識出来ないのであろう。これこそがバカの連鎖、バカの暴走というものである。




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言語遺伝子。

2013年02月14日 15時48分30秒 | 意識論関連
○言語遺伝子。

 FOXP2遺伝子は、ヒトの言語発話機能と関連があるのだという。

 発音会話を行うことは、ヒトという種の生物に特異な行動機能であるとは言えるが。これを短絡的に「言語機能=人間」としての科学的証明であると言い張る現在の生物学はオカルト集団と化している。

 詐欺師やペテン師が言葉巧みに他人を騙すことは、言語機能的には「正常」であろう。一方、遺伝的要因で言語発話が苦手というだけで、これを「人間として異常。」であると言うのは身勝手で乱暴な非科学的暴言である。

 ヒトという種の生物だけが特異に言語機能を扱うことを、短絡的に「ヒト=人間」という観念に結び付けて、「言語=人間」であるなどという非科学的暴言を放置しているだけでも、現在の生物学界の腐敗の左証である。

 「ヒト」という種の生物に固有な特異的性質を挙げただけでは、これは「人間」であることの科学的論証にはならない。「ヒト」という種の生物でありさえすれば、短絡的に全て「人間である。」ことの論理的証明には全くならないからである。

 単に「ヒトという種の生物」と他の生物との特異的相違点を挙げただけでは、これを短絡的に「人間である証明」に結び付けるというのは、非科学的である以上に人道的差別発言であり、科学者である以前に人間として異常である。FOXP2遺伝子の異常だけを取り上げて、「人間か否か。」を論ずるというのは極めて乱暴な話であり、到底科学的とは言うことが出来ない。

 こうした異常な発言が放置されているからこそ、現在の生物学は優生学のようなオカルト観念に対しての正当な反論も出来ないのであって、これは怠慢というよりももはや犯罪である。

 遺伝的要因自体は当人には制御不能なものであり、これは無意識な本能習性と同様、本質的意識とは無関係なものである。遺伝的な特定機能の有無に関わらず、ヒトが人間としての行動を採るのは、そこに本質的意識の存在があるからであり、これを無視して先天的遺伝要因だの後天的要因だけを採り挙げて「人間とは何か。」を論ずるのは非科学的お伽話に過ぎない。それで文科系大衆マスコミの脳が気分的に満足安心するとしても、それこそが人間性の欠落を招く根本要因でもある。







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短絡性。

2013年02月14日 15時47分36秒 | 意識論関連

○短絡性。

 テロだの通り魔だのに対して、やれ軍備増強だの厳罰化だの言い出すのは根源的対策にならず、行き当たり場当たりの気分的安心満足の追求にしかなっていない。

 厳罰化が通り魔への具体性対策にならないのと同様、軍備増強も具体性テロ対策にはならない。

 テロだの通り魔といった、「自己主張のために他人に危害を加える。」というヒトの脳の論理崩壊のメカニズムを解明しないことには、具体性のある論理的対策には構造原理的に到達することは出来ないのである。


 軍備増強とか厳罰化などの威力抑圧というのは、テロリストや通り魔が行う暴力論理と同根である。威力を用いて相手に恐怖を与え、自分達にとって都合の良いように制御したり統率しようとする文科系大衆観念こそが、テロや通り魔の行動観念の源となっているのであって。国家同士が軍備増強競争をするから相互に恐怖心を抱くことに陥り、相互不信を招くことにもなるのである。

 国威発揚などというのは大衆迎合に過ぎず、何ら国家としての主体性がないことの現れでもある。

 ヒトの脳が持つ論理崩壊性についての認識がほとんどない現状世界においては、軍備や罰などの気分的抑圧統率というのも暫定的には必要性があろう。しかし、ただ漫然と武力権力的抑圧だけで全てを解決しようとするのは短絡的であまりにバカ丸出しである。枝番を揃えることにばかり執着し、根本的問題点を放置しているから具体的で効果的な対策が全く進まないのである。

 原発事故において一人の逮捕者がいないのも、あくまで根源的原因究明による再発防止対策を優先するという合理的具体策を立てるための危険工学的見地に基づいたものであり。こうした論理的対策というものはテロや通り魔においても同様に行われなければ実効性のある具体的再発防止策にはならない。

 実際のテロや通り魔の現場に対し、テロリストや通り魔本人にいちいち認知行動療法的「治療」を行うのが無駄なのはわかっている。問題なのはテロだの通り魔といった論理崩壊に陥いらないような事前的予防対策が一切なされることがないまま、実際に暴力が生じてから権力による暴力で対応するという泥縄的対応ばかりに終始してしまう文科系大衆観念的論理崩壊こそが、根源的対策を喪失させていることを認識すべきである。

 現在の脳科学界というのは、こうした「ヒトという種の生物が持つ危険性。」については、文科系大衆マスコミのウケの悪さから言及することを忌避しており。極めて大衆迎合的で無責任なのである。

 その場限りのウケ狙いや人気取りのために、「これが脳に良い。」などという嘘で大衆のご機嫌取りにいそしむ現在の脳科学者達からは、論理的で具体性のある対策など構造原理的に出てくる訳がない。そもそも脳トレ類で満足している大衆の頭の悪さこそが、現在の脳科学界の無責任さを助長しているのである。

 文科系大衆観念というものは、ヒトの本能由来の気分的安心によって作り出されるものであり。特定の威力を持った権威体制への依存による気分的安心感こそが、ヒトを封建的な統率協調行動を生み出すのであり。こうした本能由来の社会形成習性に依存したがる先天的思考バイアスこそが、論理検証性をヒトから奪うのである。



 「男は本能的に浮気をするように出来ている。」と言うことは出来るであろう。より多数の女性に種付けをした個体の遺伝情報が遺される確率が高くなった「結果」として、男は浮気をしたがる傾向習性を論ずることは可能であるが。そうした先天的本能習性に無意識的に流される以外に、主体的に自己の行動を制御する意思が存在しないなどというバカげた話は論外である。

 それと同じで、本能的にバカに陥る習性、思考バイアスを現在の生物学的に「説明」しても。それが「ヒトとはバカな本能習性に抗うことが原理的に不可能である。」ことの論理的証明にはならない。

 威力武力を用いて統率的封建社会を形成する習性がヒトにはあり、習性である以上その行動への気分的安心感があるのも必然的結果である。サルであれば本能習性に抗うことが出来なくても「仕方ない」とか「選択の余地はない。」と論じても致し方ないが、ヒトの場合にまでこれを拡大解釈するのは単なるバカに過ぎず、語るに足らない。

 「個人が自律的に社会的責任判断を行う。」こと。これが危険工学における「肝」であり、最も根源的なあらゆる「人災」への合理的対策なのである。それは手間のかかる面倒臭い話ではあるが、面倒臭いからといってやらなくて良いことの根拠には全くならない。

 ましてや「本能的/生理的に気分が悪い。」だの、「大衆にウケが悪い。」などという「理由。」で無視して良い根拠には全くならない。


 茂木健一郎にせよ、川島隆太にせよ、脳トレの類による脳血流増加を短絡的に「頭が良くなる。」などという「嘘」を否定も訂正もしていないことを、大衆もマスコミも認識すべきである。現在の脳科学者というのは、現在の生物学における根源的な科学的検証方法の間違いすら指摘出来ないポンコツであって、こんな奴らを脳科学の権威として取り扱っている限り、永遠に根源的な「人災」への再発防止対策には構造原理的にならないのである。




 人工的権威や威力的抑圧による封建的統率への依存性こそが、学校での体罰を容認することにもなり。またこうした暴力性こそが、生徒同士でのイジメや差別排除をなくす自律性をも奪うことになるのである。

 「絆」だの「信頼」だのと言うのは簡単であるが、そこに個人の自律的責任能力がないことには話にならない。

 大衆の多くは世間的に成功しさえしていれば「成功者」として崇め奉り、あたかも人間の価値そのものであるかのように取り扱いたがるが。嘘ペテンで大衆世間を丸め込んでいるだけの「成功者」こそが、社会を崩壊へと導くのだということを認識しなくてはならない。

 ドストエフスキーの人気というのは、悪人が改心することによるゲイン効果(錯覚)を用いた人気取りであり、芸術という気分的な「気晴らし」以上の意味があるわけではない。

 どんなにダラダラと悪人が改心するまでの過程を繁雑に描写しても、そもそも悪人がなぜ悪人なのかという根源的原因究明には全くならず、単に大衆の気分にとって都合のよいお伽話を描いているだけに過ぎず。具体的に犯罪者の更正につながるような論理的話ではないのである。

 小説の中の登場人物が改心して更正したお伽話で、どんなに気分的に満足安心しても。具体的に現実の無責任な自律判断のない者に対する対策には全くならない。

 どんなに気分的に感動しても、それは気分的である以上の意味などなく。理論的で具体性のある対策には全くなっていないことを、現在の文科系哲学者達は「理解」しておらず、ただ漫然と気分的満足だの感動だの勇気といった観念の世界に浸ることで、あたかも問題解決策になるような「気分」に勝手に陥っているに過ぎない。

 それを平たく形容すれば「バカ」の一言に集約されるのである。

 どんなに強く「思った。」としても、論理的「考え」が伴わなければ「思い込み(バカ)」以上の何でもないのである。



Ende;
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空気。

2013年02月14日 15時46分52秒 | 意識論関連
○空気を読む。

 場の空気を読めないことを一般的には発達障害と診断するが、空気などという論理的には意味のない感覚を「読んで」しまうことを多数派であることを根拠に「正常」と規定するのは論理的に意味がない。

 アイヒマン実験において被験者が権威に服従するのも、そこに「権威には服従しなくてはならない。」という暗黙且つ無意識的条件反射な思考バイアスが働いているからであり。イジメの発生においても多数が作り出す場の「空気」に無意識に流されることが原因となる。

 空気などという本能が作り出す社会形成習性による行動バイアスに流されている方が、気分的には安心なのは当然であり、その気分的安心だけが行動を決定しているということは、100%無意識行動しかしていないということでもあるのだ。

 ナチス政権下において、ナチスに迎合しておいた方が気分的に楽で安心であろう。こうした気分的安心、場の「空気」に流されているからこそ、社会安全性や持続可能性が失われるのである。これは東電内部においても、オウム真理教においても、大東亞戦争時の日本帝国においてもこれは同じことである。

 オカルト性に洗脳されるヒトというのは、必ずしも外見的違和感を伴うわけではなく。むしろ外見的には親しみやすいからこそ、ヒトの多くが洗脳されやすいのである。イジメの実行犯達も外見上は「カッコイイ」を追求しているからこそ他者を蔑まなくてはならなくなるのであって、イジメられる「理由」の一つに外見的な「カッコ悪さ」というものがある。無論こうした「カッコイイ」「カッコ悪い」というのは論理的根拠を伴うものではなく、あくまでバカ同士間での勝手な観念的価値観に過ぎない。

 サイコパス条件の一つに、「外見的な魅力を伴う。」というのがあり、これはいわゆる「空気」を演出することに長けていることを指すのであり。占い師やペテン師の多くもまた「外見的な魅力を伴う。」

 一般的には多数派こそが「正常」であると診断されることが多いのだが、多数派が必ずしも「多数派であること。」だけを根拠に「正常」であることの論理的根拠には全くならないのである。イジメを放置傍観する多数派こそが「正常」であるなどという意味不明な話を鵜呑みにするのは、単なる無思考なバカに過ぎない。

 多数派による「正常」の基準自体が、文科系大衆観念に基づく気分的安心に過ぎない場合がほとんどであり、そこに誰も言及出来ないのもまた、論理的思考が蒸発してしまっているからである。

 現在の生物学においては、「生物の本能習性の全てには何らかの意味や目的が存在するものである。」と無理からこじつけたがるが、こうした論理的根拠のない本能習性の事後正当化の言い逃れをするのも、それが気分的に安心満足を与える本能的思考バイアスに意識を奪われてしまっているための論理的思考喪失原因である。

 多くの生物の行動習性が多数派の方が生存に適しているのは、生存に適していた種に淘汰された行動習性の結果であって、多数派に迎合することで生存を目的にした結果ではない。生物というのは生存を目的に行動選択をしているのではなく、偶発的行動の結果として生存することになった個体種への自然淘汰の「結果」に過ぎないのである。

 人工的権威性を用いた封建的統率にヒトが陥るのは本能習性の結果であって、それ自体に目的は存在しない。都合の良い時には「ヒトが服従することには意味がある。」としておきながら、都合が悪い結果に対しては「本能の暴走だ。」「進化の袋小路。」などと、のらりくらりと言い逃れを続けるのは、科学者としてあまりに無責任でふざけているとしか言いようがない。

 また、こうした無責任な研究者を税金で飼い馴らしている現状社会に対して、何ら異を唱えない大衆マスコミの頭の悪さにもウンザリさせられる。




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幻想。

2013年02月14日 15時45分59秒 | 意識論関連

○体育会系幻想。

 全日本柔道連盟のゴタゴタや、角界における八百長問題に見られるように、武道と人格形成とは無関係であることは明らかである。

 大学サッカー部が学生寮で大麻を栽培していたり、野球部が集団レイプをしていたことからも、体育会系集団というのは統率的協調性は発揮出来ても、個人の主体的自律判断とは無関係なのである。

 文科系観念上では気分的安心満足と論理的安全性を履き違え錯覚する傾向が極めて強く、これを自覚認識出来ない以上、如何なる成績や学位も本質的な知能とも無関係である。

 体罰暴力による気分的抑圧を用いて従順に服従させることを「真面目」として扱う文科系大衆観念を放棄しない限り、どんなに桑田真澄が力説しても、「馬の耳に念仏。」である。

 人類は、「権威への服従という従順性こそが社会秩序である。」という本能由来の思考バイアスによる錯覚を認識する必要性がある。この錯覚を錯覚として認識しないからこそ、似たような「人災」が何度も繰り返されるのである。





○カッコイイ。

 「カッコイイ」とか「元気が出る、勇気がわく。」などといった話というのは、あくまで気分感情の問題、すなはち大脳辺縁系の本能的反射であり、先天的思考バイアスに過ぎない。

 「カッコイイ」ことが社会安全性や持続可能性を担保してくれる訳ではなく、単なる主観的好き嫌いの多数決を論じているに過ぎず、こんな基準を優先していれば社会安全性の論理的追求性が失われるのは当たり前というものである。

 「カッコイイ」などというのは、あくまで気分的なその場限りの満足を与えているだけの観念の源であり。こうした観念に囚われてしまう本能的な思考バイアスが論理検証性をヒトの脳から喪失させるのである。

 「カッコイイ」と「思って」いるのは「考え」ではない。単なる「思い」であり「感覚」に過ぎない。その「感覚」をどんなに無思考な多数大衆で共有しても、そこから論理的な社会安全性や持続可能性を「考え」導き出すことは出来ないのは当然である。

 ヒトという種の生物は、単なる感覚的「思い」に由来する気分的快楽、安心や満足に意識を奪われ。論理検証的に社会安全性や持続可能性を追求することを簡単に放棄してしまう本能的習性がある。

 金が儲かることや、多数人気が得られること、既存の論理的根拠のない学力や評価基準といった短絡的大衆観念ばかりで人間の価値を測っている以上、論理的安全性が確立出来ないのは当たり前の話なのである。

 バカな文科系大衆はこう言い逃れをするであろう。「自分はバカだから、社会全体の持続可能性だの安全性についてまでは考えられない。」と。しかし、これは単なる嘘である。実際には「考えられない。」のではなくて、「考えるのが面倒臭い。」という本質的自発性の欠落を正当化しようとしているに過ぎないからである。

 漫画家が「カッコイイ」とは何かを追求して大衆からウケ狙いをするのは勝手である。しかし、これを読み手が気分的満足快楽を得ることによって社会的安全性を蔑ろにして良いわけではない。漫画などの芸術は科学論理的根拠を必要としない単なる「気晴らし」に過ぎず、どんなに多数人気を得ているとしても人間として正しい判断を下していることの根拠には全くならないのである。

 文科系大衆観念上では、ニーチェの言葉をやたらと「カッコイイ」などと形容したがるが、ニーチェや養老孟司の言っていることには論理整合性がなく、すなはちこれは無責任なその場限りの「カッコつけ」によって無思考な大衆の脳を酔わせているだけの「嘘」に過ぎないのである。

 畑村洋太郎らによる危険学というのは、決して大衆観念的に「カッコイイ」ようなものではなく。むしろ泥臭い実質的対策の地道な積み重ねであって、これを多くのヒトは気分的に拒絶し簡単に忘れてしまうからバカげた「人災」が一向に減らないという結果を導いているのである。

 断片的な言葉を「カッコイイ」と称して名言扱いするのは簡単である。それを鵜呑みにして満足することは極めて簡単な「ヒト」の本能的習性に過ぎないからである。しかし、そうした短絡性こそが、思考を浅薄に導く快楽であることを、「ヒト」の多くは知らないし、認識することも拒絶するのである。

 「ヒト」という種の生物は、先天的にはバカであることを認識すべきであって。特定の機能能力を断片的に正当化することで論理検証もせずに自存在の正当化にすりかえ気分的に満足することこそが、「バカの連鎖。」を生み出す源なのである。

 現在の生物学のパラダイムを用いれば、権威服従性のみならず、イジメや差別排除にも何らかの「意味」があるとこじつけることは可能であろう。

 差別排除や権威服従性というのは本能習性が導く無意識的「結果」に過ぎない。その「結果」というものに無為に流されるだけなら簡単でバカでも出来ることである。その頭の悪さを認識していなければ、社会安全性や持続可能性といった「人間としての目的」に意識が働かないのは当然のことである。

 バカは「ヒト」であっても「人間」ではないのである。

 「ヒト」はバカのままバカげた文科系観念を振り回しておいた方が気分的に快楽で安心で満足を得られるであろう。だからこそ論理検証性を喪失することで、あらゆる「人災」の論理的原因究明や再発防止策を見失うのである。

 体育会系組織における封建的暴力も、それを「日本の文化」として位置付けているからこそ、一向に自浄作用が働かないのである。体育会系組織に限らず、個人の人格よりも特定能力の高さだけが価値として扱われることになりやすい傾向があろう。特定組織による評価や無思考な大衆人気というものが、必ずしも個人の人格性の論証にならないのは当たり前の話である。だからこそ無能なバカが権威として扱われることになり、結果的にバカが組織を牛耳ることに陥り腐敗を招くのである。

 現在の哲学界というのは、文科系観念に基づいた「カッコイイ」などの気分的安心満足快楽の追求に過ぎず、何ら純粋に物事を「考える」という哲学の根本を喪失しているのである。亀山郁夫がどんなにドストエフスキーと共感しても、何ら論理的な「ヒトの狂暴性」の原因究明にも対策にもならず、単なる気分的満足を得ているだけに過ぎないことを、バカ哲学者達は認識出来ていない。

 具体性のある論理的原因究明や対策が出て来ないのは、それが単なる気分的満足「安心」に過ぎないからであることを、多くの「ヒト」は認識していないし、しようともしない。それは具体性のある論理的対策というものは地道で地味で泥臭いことであるために、「気分的に嫌。」だからである。それは先天的本能がそうさせるのである。

 気分感情が作り出す無意識な思考バイアスに流されてしまうからこそ、論理的に物事を検証する「考え」が喪失するのであって、気分感情に流されずに冷静に泥臭く地道に検証するという「考え」が失われているからこそ、バカげた「人災」が減らないのである。




 「皆仲良く助け合いをしていたら国際競争力を失う。」などと言い出すバカも少なくないが、国際競争で勝ったからといって、その国の個人の幸福が得られることには全くなっていないことは明白である。GDPとその国の国民の幸福とは相関が全くない以上、目指すべきは国際競争に勝つことかどうかは議論の余地など最初からない。最も過酷な生存競争をしている内戦国が最も劣悪な状況に陥っているのも明白なことである。

 むしろ国内で奪い合いをしているからこそ、国際競争力を失うことになるのであって。奪い合いにならないためには個人の本質的主体性、自発性といったものが重要なのである。

 公正な競争が出来る社会であれば、個人がその能力を存分に発揮することが出来るのであり、それがひいては国際競争力にもつながることにもなるのである。

 自律的な社会的責任判断というものは、本質的な自発性によってのみ下されるものである。それがないから原発の暴走を導いたのであり、これはあらゆる集団組織「社会」において共通な暴走破綻の構造である。

 原発の暴走などの「人災」の最も根源的原因である個人の「自律」の欠落性について認識しない限り、あらゆる集団組織や国家の暴走破綻による社会の崩壊は免れることは出来ず、如何なる政治行政的対策も全ては無駄に終わることになるのである。






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タイミングを逸する。

2013年02月14日 15時44分33秒 | 意識論関連
○タイミングを逸する。

 「質問をするタイミングを逸してしまい、黙ってしまう。」という若者がいて、本当はいつ聞いても良い内容の質問なんだろうけど、雰囲気とか空気を読み過ぎてしまって、何も聞けなくなってしまうらしい。

 詳しく聞くと、幼少期に虐待を受けた経験があるそうで、多分深層心理に対人恐怖が刷り込み学習されてしまっているために、本当は何の問題もないことであっても観念的恐怖心によって萎縮して必要な質問すら出来なくなってしまっているのではないだろうか。

 幼少期に虐待をされた人が対人関係が苦手なのは仕方のないことだと思う。対人関係が苦手であるならば対人関係をほとんど必要としない仕事の方が当人も楽なのではないだろうか。

 「多数他人との関わりが必要。」というのは、必ずしも仕事の上でなければならないものではないと思う。当人が最も楽に続けられる、個人的にも持続可能性な生活を探した方が良いのではないか。

 そう思う。おいらがそうだからだ。

 「友人の人数」を幸福と置き換えるというのは、本質自発性のない茂木健一郎らしい解決策である。

 最近の研究では、イジメの原因の一つとして、「友達の数で他人の価値を量る観念」が働いているという説は有力であり。本能的な社会形成習性として、友人の数に気分的安心を基準に他者の価値を推し量り差別排除の「根拠」とするのである。故に「キモい」だのといった極めて主観的好き嫌いをイジメ差別の「理由」にされてしまうのである。

 茂木健一郎は、あくまで大衆からのウケ狙いで社会問題に首を突っ込んでいるだけであって、本当は「人間について。」科学的検証をしようという純粋な好奇心を持って研究しているわけではないのは明らかである。




 「支え合って、絆作って、組織的に何かやらないと国際競争力なんかつかない。」:茂木健一郎

 これは一面的には正しい。振り込め詐欺師集団であっても支え合い絆で結ばれているからこそ巧妙な組織的統率詐欺が可能になるのであって、その組織というものが組織内部の閉じた価値観を共有してしまうことが問題なのである。

 そもそも国際競争力と個人の幸福とは直接関係するものではない。

 集団組織的に何かをやるにしても、個人の基礎的能力がなければ集団から必要とされないことになるので、基本的スキルは必要である。それが必ずしも他者との関わりを必要とする能力である必要性は論理的にない。

 他人との関わり合いを重要としないスキルというのもあって、アルゴリズムを考える仕事などは他者との関わり合いを必ずしも必要としないものである。他にもそういった仕事はあるはずであろう、問題なのはアルゴリズムやアイデアを搾取するバカがいることでスキルが仕事として成立しなくなってしまうことである。他者を騙して利益を得ている卑怯者が減らない限り、個人が能力を発揮出来る社会にはならない。



 幼児期に虐待を受けていたりすると、どうしても個人的に何が好きなのかを探すことすら苦手になりがちな傾向があって。これは自己の能力を過小評価するように刷り込み学習されてしまっているのが原因であろう。

 多分、親などの他者からバカにされ続けて育ってしまっているために、一般的(多数決的)に学力成績偏差値が必要であると「思われて」いるようなスキルを、頭から(この場合の「頭」とは無意識的な思い込みのことを指す。)プログラミングなど出来ないものだと勘違いしてしまうのではないだろうか。ホームページ制作なんぞに何万も支払うバカな経営者が多いのも、ホームページ作成を特殊技能だと勘違いしているからである。大手銀行のダミーページくらいなら振り込め詐欺師でも作れる簡単なものなのである。

 また、文科系マスコミの刷り込みで、「プログラミングをするには英語語学力が必要。」だとか言い張るものだから、余計敬遠されてしまうのではないだろうか。おいらは英語も読めないし、数学も苦手だけどアルゴリズムを考えることは出来る。クソゲーなんぞバカでも作れる代物なのである。

 大規模プログラミングの場合は組織的な連携が重要な場合も多いが、個別のアルゴリズムを考える仕事においては他者との関係性よか一つのことに対する粘り強さ、執着心の方が必要だったりする。

 しかし実際のところ中国と一緒で日本人にもアルゴリズムの知的財産権なんぞ守る奴なんていないからプータローが増えて、国際競争力も失う。誰かが言ってたけど、「奪い合うと足りなくなって、分け合うと余る。」ってこと。シリコンバレーっていうのは分かち合いの組織だから成長するんだろう。Googleなんて直接金にならないようなことばっかりやってるけど、最終的には莫大な収益を上げている。それが出来るのは当人達に自発性があって、他人から奪うよりも何かを築き上げることの方が楽しいからであろう。

 スティーブ:ジョブズが「アルゴリズムは公開しろ。」などと述べていたが、これは現実にはシリコンバレーにおいてのみ有効な手段であって、マナーもすったくれもない日本においては通用しないのである。

 本質的な自発性がなければ自律も養われないのがヒトという種の生物の行動習性でもある。茂木健一郎のように、「友達さえ多ければ幸福。」などという大衆観念に基づいた無意味な解決策しか出てこないのも、そこに本質的自発性の欠落があるからであって、どんなに茂木が研究費を浪費しても不毛なクソゲーくらいしか出て来ないのは当然である。

 そもそも生物学におけるパラダイムの間違いを指摘出来ない茂木健一郎というのは他の生物学者同様に科学者としてポンコツであり、表面的ウケ狙いな活動をどんなにしていても、具体的な問題解決策が出てくることはない。「友達100人支給。」などという大衆観念に基づいた対策しか出て来ない無能な者を、単に大衆人気だけで学術権威として取り扱うのは大間違いなのである。

 「友達の数」を人間の価値や個人の幸福として取り扱っている時点で、茂木は「ヒト」の行動習性の問題点について無関心であることを証明しているのである。「友達の数」などという大衆観念こそがイジメや差別排除の源であって、こんなことも知らずに一体「ヒト」の行動習性について一体何を論じられるというのであろう。

 日本経済の崩壊というのは、政治や行政の問題だけではなく、それらも含めた日本人全体のモラルの無さ、すなはち論理的検証性に基づく自律の欠落が原因であって。特定権威組織の問題というより、個人の倫理の問題であって、無能な者を権威として取り扱う多数の無能さが権威組織の腐敗を進行させるのである。

 アナキズムを振り回して漫然と権威を批判してさえおけば社会が良くなるわけではない。具体的に誰が権威として不適格であるかを論理的に検証し、地道に批判することが社会安全性にとって重要なのである。

 原発を暴走させた「ヒト」達などの心理や行動を、危険工学的見地から検証しないことには、あらゆる「人災」の再発防止には構造原理的につながることはない。茂木健一郎や川島隆太などの大衆人気取りにしか興味のない脳科学研究者達が、どんなに大衆マスコミから重宝がられても、彼らの脳から「ヒト」の危険性についての検証は一切行われることはない。なぜなら大衆がバカのままでなければ脳トレ人気体制を維持することは出来ず、人気や金にならなくなってしまうので、大衆には論理検証の出来ないバカのままでいてもらわなければならないからである。

 何度も言うが、脳血流の増加は「頭が良くなる。」ことの論理科学的根拠にはならないのである。当然脳血流増加によって個人の自律判断が養われることにもならない。






Ende;
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権威服従性。

2013年02月14日 15時41分12秒 | 意識論関連
○権威服従性

 規範意識というのは権威服従性であり、気分的安心満足に過ぎず論理的安全性の獲得には全くつながらない。

 イジメなどの差別排除や、虐待体罰などの暴力性というものが放置されてしまう原因というのは、結局は「上」と見なされる相手に服従してしまうことによる統率的協調性の暴走である。

 イジメの首謀者が暴力を要求することに対し、多数が威力に対して服従してしまい、その多数に迎合する形で統率的協調性が暴走する形でイジメは助長暴走することになるのである。

 「気分的に恐い相手に服従する。」というのが規範意識の基本であり、「なぜ服従する必要性があるのか。」とか、「服従するに値する相手であるのか。」といった自律的な判断を放棄させてしまうのが規範意識という無意識性の刷り込み学習である。

 その場限りの気分でしか行動が決定しないからこそ、自律的行動選択が出来なくなるのであって、教師が権威を振りかざして強迫観念を用いた強制的服従性を刷り込み学習させてしまえば、教師がいない場所においてはその場限りに恐い相手に服従するよう機械条件反射的無意識に行動が決定してしまい、全く自律的行動選択が伴わなくなってしまうのである。

 福島第一原発の危険性を放置した東電社員達の無為性も、結局は「恐い相手に服従する。」という規範意識の暴走であり、規範意識というものへの観念的安心満足ばかりを追求した結果でもある。

 安心や満足というものは本能に直結しており、この本能には予め「意味」や「目的」など存在しておらず、あくまで「結果」でしかない。

 生存というもの自体がそもそも「結果」に過ぎない以上、あらゆる生物における「結果」には「意味」も「目的」も存在しておらず、あらゆる気分的安心満足の素となる本能習性にも「意味」や「目的」は存在しないのである。

 現在の生物学(脳科学を含む)においては、生物のあらゆる機能には全て「意味」や「目的」が存在するはずだという実証不能の観念に囚われており、これを放置したままでは本当の意味での人間としての意味論も目的論も構造原理的には成立しないのである。



 気分本能的な安心満足に依らない自律的な個人の論理的判断こそが、本当の意味における安全性の追求につながるのであって、個人が自律判断をするためには個人が自発的意欲を持っていることが大前提なのである。

 「世の中に生かされている。」などという自発性の欠落を述べていれば、あたかも外見上謙虚そうに見え、文科系大衆観念には迎合出来て多数人気も得られるのであろう。しかし、「生かされている。」という「生存」自体単体に意味があるわけではない。単に生きているだけなら振り込め詐欺師集団の内部で「生かされている。」ことにも意味があることになり、東電社員が福島第一原発の危険性を放置してでも目先の個人的生活を優先することにも意味があることになってしまうのである。

 こうした個人的な目先の利益追求というものを優先し、目先の権威に服従することで統率的協調性を発揮することこそがオカルト集団という本能的な社会形成習性というものであって。これを短絡的に「社会性」であると鵜呑みにしていたあらゆる学術権威達は実質ポンコツであると判断すべきなのである。



 単なる生物的な「生存」自体に人間としての意味が存在するわけではなく、あくまで長期的な社会安全性や持続可能性を追求することによってのみ、次世代に対して社会を受け継ぐ「意味」や「目的」が存在するのである。安全性や持続可能性を優先しないのであれば、もはや人間としての存在価値自体が存在しないことを、ヒトの多くは目先の気分的安心満足に撹乱されて意識から外してしまうのである。

 だから現状社会が崩壊にしか向かわないのである。

 生存だけを暴走させれば振り込め詐欺師だのゴキブリだのエイリアンで充分であり。ニーチェの論ずる「超人」とは、生物学的究極存在に過ぎず、そこに人間性も知性も情緒もすったくれも必要ないのである。そんなもので気分的満足をして思考を停止しておけば、バカげた「結果」以外に至らないのは当たり前の話なのである。

 本当の意味での幸福とは、自己自身の欲望を制御することによって得られるものであって。多数他者という環境に依存した利益や快楽を渇望する既存の自己を捨てることである。自己の欲望を制御出来ずに幸福もすったくれもないことを、ヒトの多くは未だ知らない。



 暴力体罰を正当化する教師の脳というのは、職場制度における評価成績への異常執着で意識が狭窄化されているための「結果」であり。生徒のためでも社会のためでもなく、あくまで利己的欲望快楽を追求しているに過ぎないのである。

 自分の行動を社会制度の所為にするのは、世間から与えられる評価報酬に対して脳がバカになっている、中毒依存症になっているからである。

 社会制度、評価報酬の制度に依存せず、あくまで個人的で広い意識に基づいた価値観を追求していれば、自ずと社会安全性や持続可能性を求めるのは必然というものである。しかし、ヒトの多くが「個人の主体的価値観というものは利己的なものである。」と「思う。」のは、そもそも当人に自発も自律もなく、ただひたすら世間からの評価報酬しか求めていないための必然的感覚でもある。

 だからこそヒトの多くは規範意識という無意識性に異常執着してしまうのである。これは本能的習性であって、同時に無意識な思考バイアスでもある。たとえその思考バイアスに断片的「意味」をこじつけても、思考バイアスがもたらす行動の結果の全てが常に正しい結果をもたらす論理的保証には全くならないのである。

 「権威による統率こそが社会を安定させるものである。」という権威依存性こそが、ヒトから自発的自律判断を失わせ、社会を崩壊へと暴走させる最も大きな流れを作っているのである。

 桑田真澄の理論は文科系大衆観念にはそぐわないため、努力辛抱根性を強要させておいた方が「鍛えられる。」という観念の方が大衆ウケが良い。

 バカの多数決ではバカげた結論にしか到達出来ないのは必然である。バカというのは自分自身のバカさを認識していないために、バカであることを事後正当化するための屁理屈や言い逃れ、取り繕いだけは異常なまでに条件反射的に脳が働く性質があるため、バカが治らないのである。

 バカがバカたる所以とは、論理的根拠を伴わない観念という思い込みへの中毒性、依存性に因るものである。認知行動療法における自発的「気付き」の促進とは、こうした自己のバカさに気付かせることが治療になるのであって、他人から「お前バカだろ。」と直接言われると気分を害し、気分的反発によって言い逃れや取り繕いといった論理的根拠のない屁理屈ばかりに条件反射的無意識に脳が働いてしまうのである。

 残念ながら、おいらは臨床医ではないので、金を貰ってバカのご機嫌取りをするつもりは毛頭ない。おいらはバカが大嫌いだからである。自分のどこがバカなのか、そんなものは言われなくても自分で気付いて頂きたい。その意味においてはおいらは読者を「患者」として見下してはおらず、あくまで対等な立場として「バカとは何か。」を論じているのである。



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