書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

温度。

2013年02月17日 16時12分39秒 | ネタ帳
○温度。

 PILOTのフリクションボールペンは60℃で無色透明になり、-20℃で色が復活するんだそうです。

 元々は30℃で色が消えて5℃で復活するインクだったらしい。そういうフリクションボールペンがあっても面白いのではないだろうか。温度毎にいろんなバリエーションがあると、別の用途に使えそうな気もする。

 インクは樹脂に混ぜても色が変わるのかな。


 ホワイトボード用マーカーって、プラスチック板に書いて水に入れると書いた形のまま剥離して水に浮くらしい。

 ボールペンのテストって、連続的に書き続けるテストしかしないけど。実際の使用状態においては、数ヶ月放置しておいてからの書き始めの滑らかさが欲しいのよね。ボールペンってカバンに入れて持ち歩く用と、家で常時使うものと別けているので、カバンに入れっぱなしのボールペンが現場で使えなくて、試し書き用の紙片もないので、どうして良いのか判らなくて困惑することがあった。

 ま、でも三菱ジェットストリームをカバンに入れるようにしてから大丈夫になった。50円くらい高いんだけど、書けないんじゃどうにもならないからね。



 「温度」で思い出したんだけど、デジカメって40℃までしか動作保証していないから、デジカメに温度計が組み込まれていていてもいいんじゃないかって思う。特に業務用のCanon 1DXとかNikon D4の場合、動作不良が予測出来た方が良いのではないかと思う。




。すでいなは味意 たみてい書らか右らがな突唐




Ende;
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経済再生。

2013年02月17日 16時09分29秒 | 意識論関連
○経済再生。

 核分裂型原子炉も、結局燃料のウランに埋蔵限界があるので、決して長期的持続可能性があるわけではない。

 事実上無尽蔵にトリチウム燃料がある核融合原子炉でなければ、原子炉というのは持続可能性が低すぎて話にならない。

 技術的付加価値のない単なる製造業は、人件費の安い海外に出ても構わない。むしろ付加価値もない製造業を日本国内で操業する方が無意味。

 利益率が充分に得られる高い付加価値を持った産業でないのならば、国内に維持する必要性があるとは思えない。付加価値のない製造業であるなら海外にアウトソーシングして、国内では海外では出来ない技術で製品造りをすべき。

 実際アメリカのApple社は、iPadやiPhoneの製造を中国任せにして、利益率は20%もある。それに対して国内自動車産業は利益率が1%しかないそうだ。自動車造って自転車操業なのがナンセンス。

 根本的に日本経済を再生するならば、単なる電力価格に依存した自転車操業的産業の温存ではなく。日本でしか出来ないような高い付加価値を持った産業を起こすこと、伸ばすことが重要であって。「原発を稼動しておけば経済が再生して国際競争に勝てる。」などという短絡的でバカげた話は語るに足らない。

 国際競争力のない産業の温存なんかしているから、国際競争力を失うんです。簡単な論理ですよ。電力価格の上昇で潰れるような自転車操業が多すぎることが、日本の国際競争力の足枷になっているんです。

 とっとと無能な第二次産業を潰して市場から撤退して頂くためにも、原発は早急に廃止すれば良いんです。無能企業が作り出す雇用なんて、人件費の叩き売りにしかならないでしょ、だから賃金が上がらないんですよ。

 本当は日本人は暇なんです、だからヒマゲー会社が儲けられるんです。ヒマゲーやってる暇があるなら、日本人にしか出来ない画期的な産業を沢山生み出せば良いんです。そうでなければ日本という国自体の国際的存在価値がないでしょうが。

 根本的な問題点に誰も気付かず、「原発=経済性。」などという嘘に意識を奪われているというのはバカとしか言いようがないです。

 長期的に見れば、原発はちぃとも経済的ではないのは明らかであり。放射性廃棄物は将来的に必ず経済的負担になりますから、可能な限り放射性廃棄物がこれ以上増えない努力をするべきなんです。

 目先のエサに飛びつくのは簡単でしょうけど、長期的に見てそのエサに飛びつくことが本当に得なのか損なのかを考えずに無視することの方がよっぽど無責任というものです。

 経済性も大事でしょうけど、何事においても「安全第一」を優先しなければ、必ず破綻に至るんです。破綻しちゃったら経済性もすったくれも無くなってしまうんです。そこを何で忘れようとするんですかね。



Ende;
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気持ち。

2013年02月17日 16時08分50秒 | 意識論関連
○気持ち。

 イジメや体罰への対策として、生徒の「気持ち。」を真摯に聞く態度が必要だという説があるが。これは少し間違いがある。

 生徒がどのような「考え」を持っているかを聞くことには意味があるが、論理的根拠のない極めて観念的な「思考バイアス=思い込み」を聞くことには意味がない。

 イジメをしている生徒の動機として、「キモい」だとか「ムカつく」などという感情論をどんなに真摯に聞いても、これは通り魔の犯行動機と同じで全く意味がないのである。

 動機という気分的行動バイアスが行動に直結してしまう短絡性をなくすためには、自己自身で論理的に自分の行動を検証するという本質的な自発的自己行動検証性が必要なのであって。これは認知行動療法的に「なぜ?。」を問いかけ続けることが効果的である。具体的な方法論に関してはおいらは臨床医ではないので詳しくはないが。

 イジメだの体罰といった行動の根源は、必ず途中で論理的説明が出来なくなり、必ず気分感情の問題にすりかえようとしたがる。そこで「気分=行動」という短絡性を指摘することによって、自分の無意識性を自己認識させることになるのである。

 つまり、生徒の「気持ち」をただ聞くだけでは問題解決にはならず。きちんと論理的説明をさせることが重要なのである。

 ただ、こうした「治療」を行うためには、教師自身が気分的観念と、本質的合理性の追求の区別がついていないと無理である。観念に囚われている者というのは、相手を気分的に丸め込むことに対しては異常な執着も持っているため、観念で丸め込まれない確固たる自発的論理検証的思考を教師が持っていないと、簡単に文科系大衆観念に丸め込まれて、問題点がうやむやにされるだけである。

 生徒の観念と教師の観念を互いにどんなにぶつけ合っても、そこには合理性のある論理的結論が構造原理的に出て来くることもない。



 認知行動療法的な「治療」の手法を、教師が知っているのみならず。論理検証的に合理性というものを追求する主体的な「意志」を持っていることが、本当の意味での人間教育の最も基礎でなくてはならない。

 親や教師が人間としての論理的思考をちゃんと持っていなければ、生徒に対しての論理的説明なんぞ出来るわけがないのである。

 だったら、そもそも論理的対策にならない司法制度自体にも言及しなければ、生徒子供だけに論理的思考を求めても無駄なのは当然の結果である。

 司法もマスコミも、通り魔事件に対して犯人の動機を明らかにすることだけを「解決策」だと思い込む頭の悪さを維持しておいて。生徒子供にだけ論理検証性を求めている時点で論理が崩壊しているからである。

 「法律で決まっているから。」とか、「法律さえ守っておけば良い。」などという文科系大衆観念に依存した「規範意識」に依存している限り、生徒子供に論理的説明なんぞ出来るわけがないのである。

 そもそも組織的保身という利己的動機があるからこそ、体罰やイジメといった問題が隠蔽されるのであって。こういったバカ集団に何を要求しても改善なんか期待出来ないんです。

 東電の隠蔽体質と同じですよ。組織腐敗というのは組織を構成している個人に本質的意識がないから起こるんです。

 「自分だけは、絶対に大丈夫。」だと、そう「思って」いる奴が一番問題なんです。それを当人は「信念」だとか言い張るでしょう。それが本当は身勝手な論理的根拠のない思い込みであることに言及できなければ、本当の意味での「意識を変える。」ことにはつながりません。



Ende;
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異常。

2013年02月17日 16時08分07秒 | 意識論関連
○異常。

 通り魔の行動に異常もすったくれもないでしょ。通り魔自体が異常なんだから。

 「正常な通り魔。」って、どんなの?。NHKは一体何を基準に「通り魔が異常な行動をしていた。」って言っているんだろう。

 そもそも通り魔の行動「動機」を聞いて何になるの?。むしろ動機が行動に直結するっていう、あらゆる意図的犯罪者に共通する原因を究明しないと、実効性のある再発防止にはならないです。

 それについては司法は何にも関与する仕組みも手続きもないです。どんなに遺族が再発防止を司法システムに求めても無駄なんです。

 脳科学者達も、犯罪や事故などの「人災」は大衆ウケが悪いので、一切興味を示さないです。

 結局再発防止を求める遺族の願いは誰もマトモに聞いてはくれないんですよ。実際、犯罪被害者自体が社会全体からみれば少数派ですから、無視されることは簡単なことなのです。

 大体このことに言及しているのはおいらくらいしかいませんし、多数派は自分達が「異常」だとは思っていないんでしょう。


 マスコミは、被害者を憐れむような「演出」を用いて、その場限りに数字(視聴率)を稼ぐことだけが目的であって。被害者の一部が求める再発防止対策など、全く興味がなく。単なる大衆迎合的な垂れ流し報道をするだけであって、具体的に実効性のある再発防止対策には全く言及しないのである。

 マスコミはこうした文科系大衆観念に基づいた報道しかしていないことを「異常」とは思っていないんだろう。

//------

 後日グアムの通り魔が犯行動機として「大きなことをしてやりたかった。」などと述べていたそうですが、事象の「大きさ」だけを価値の全てであるかのような短絡的論理崩壊性こそが、文科系大衆観念に基づいたものであり。こうした短絡性自体は多数派である文科系大衆に共通した観念であるがゆえに、その短絡性を異常として扱わないのであろう。

 多数派の異常性というのは、気分的に安心なので、これを異常だと認識出来ない錯覚を生じさせるのである。

 「学力=知能」という評価基準や、「世間的成功=物質的豊かさ=人間の価値」とか「大きなことをして目立つこと=世間的評価。」という短絡的で無検証な「文科系大衆観念=多数派の思い込み。」に基づいた論理検証性(考え)の欠落こそが、本質的な意識の欠落の根源なのである。

 論理性というものに対して、文科系大衆の多く、ヒトの多くは冷徹さを「感じ。」るのであろうが。こうした気分的「感じ」こそが感情気分に由来する忌避性によって、ヒトという種の生物の脳から論理検証性を奪い、バカの連鎖を繰り返させるのである。

 「感じ。」というのは本質的意識ではなく、単なる大脳辺縁系による機械的条件反射に過ぎず。先天的に組み込まれたシーケンスに基づく無意識に過ぎない。

 どんなに強く「感じ。」るとしても、むしろ強く「感じ。」るが故に論理検証性を忌避する原因となるのである。

 これに現在の生物学的「説明」をこじつければ、先天的本能反射的無意識な「感覚。」に頼っていた方が、結果的に生存に適したという「結果」であると言うこと「も」可能であろう。多数派に迎合しておいた方が差別排除に遭わず、結果的に生存に適する可能性は高いからだ。しかし、こうした偶発的「結果」が常に生存に適していることの論理的証明も、また生物の「目的」であることの証明にもならないのである。たとえその場限りに個体の生存に適したとしても、その集積が社会安全性や持続可能性に確実につながることの論理的相関関係もない。

 イジメなどの差別排除に加担したり迎合しておいた方が結果的に「生存」に適しているのであろうが、その「生存」がもたらす社会というのは差別排除の蔓延した社会にしか「暴走」することはない。差別排除を首謀的に行っている者に迎合しておけば、差別排除こそが正義となり、ナチスやポルポトのような虐殺政権を作り出すことの陥るのである。

 ドイツ人やカンボジア人だけが特別に異常な民族であるわけではなく、南京や重慶における日本軍の野蛮行為も、広島長崎におけるアメリカ軍による原爆投下といった野蛮行為にも共通な、「ヒトという種に共通の異常暴力性。」であり、こうした異常性は民族国家に関わらず、ヒトという種全般に存在し得る性質習性なのである。

 「本能や習性であるなら、仕方がない。」と、バカな生物学者は言うであろう。これこそが無意識性の事後正当化であり、本質的意識による論理検証的目的行動選択の欠落を招く文科系大衆観念の源なのである。

 「既に起こったことの全てに意味がある。」という事後正当化の論理の方が、文科系大衆にはウケが良いのかも知れないが。だとすれば通り魔にもテロリズムにも「意味がある。」と言っているのと同じであり、具体性な再発防止などしなくても、全ては無為無策な「結果」だけを受け入れていれば良いという結論に陥るのである。

 こうした無意識性こそが、ヒトという種の生物の集団に意識的「目的」のない暴走を醸成させるのである。

 それを多数派が異常だと「思わ」なくても、論理検証的に「考え」れば異常であることに異論は何も出て来ないのである。

 多数派が論理検証しなければ、多数派は自律的には「判断」を下すことはない。誰も自律的に「判断」せずに、ただ多数派に迎合して気分的安心満足ばかりを追求していれば、これは「烏合の衆。」或は「バカの集団。」に過ぎない。

 バカの集団がバカげた異常行動を連鎖的に繰り返すのは必然的「結果」に過ぎず。そこに「目的」が存在しないのも必然なのである。

 おいらが述べていることは論理的には極めて簡単な立証であって、何ら難解な方程式など用いてはいない。にも関わらず多くのヒトが理解「したがらない。」のは、それが気分的拒絶反応=本能的習性に由来する忌避に過ぎない。

 論理的な展開をしているにも関わらず、「理解したいか、したくないか。」といった気分的判断バイアスを持ち込まれてしまえば、これは論理的結論に至らないのは当たり前である。正直読者の気分など、おいらの知ったことではない。金銭と引き換えに情報を提供しているわけでも、臨床的に「治療」しているわけでもない以上、読者の気分感情論はご自分で何とかして頂く以外にないからだ。

 おいらはテレ東のオカルト番組のように、「信じるか、信じないかは、貴方次第。」な話をしているのではなく。あくまで論理的展開による証明をしているのであって、「論理的に理解するか、それとも気分的に信じたくないか。」の問題にすり替えられてしまえば、論理展開などクソの役にも立たなくなるのは必然的結果である。

 観念と理論の「すり替え」をしているのはおいらではない。多数派である文科系大衆やマスコミである。その「すり替え」こそが精神の怠慢であるとは、多数のヒトは「思わない。」のであろう。

 「思う」というのは、無意識な感情的思考バイアスであり。これこそが論理検証的思考(意識の本質)を不具にするのである。

 「直感」というものも科学的検証において必要なものではあるが、これはあくまで日常的に論理検証している上において、短絡直結的に言語的説明が出来ないだけの「直感」でなければ意味がない。「何となくそんな気がする。」とか、「今まで誰もそんなことに言及していない。」といった、観念主体の「直感」には科学的価値は存在しないのである。

 時間がかかっても、きちんと論理立てて説明出来ないことには、どんなに強く「思った」直感であっても科学的には全く意味がない。そんな当たり前なことが現在の生物学や哲学界では通用しないのである。

 とあるバカ哲学者が述べていた、「自分の考えていることが自分にしかわからないことが不思議だ。」などという直感は、科学的に説明すれば「他人とは脳神経接続が存在しないからだ。」という極めて単純な結論で片付く観念であって。逆に言えば「なぜ、このバカ学者は自分の考えていることが他人にわからないことを不思議がるという観念を科学的疑問だと錯覚するのか。」の方が重要なのである。

 こうした観念と理論の区別がつかないからこそ、通り魔とかテロとか原発の危険性放置といった不毛な「人災」が起こるのであって。論理検証出来ないという多数派の頭の悪さを自分自身で認識したがらないことこそが、人類からあらゆる「人災」への具体的対策を喪失させているのである。





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何がしたいのか。

2013年02月17日 16時07分04秒 | 意識論関連
○何がしたいのかわからない。

 何がしたいのかを知るためには、とにかく実際にあれこれ「やってみる。」ことが重要。

 何が自分に合っているのか、適している仕事やライフワークなのかは、鬱々と「悩んで」もわかるわけがないからだ。

 ヒトの多くは鬱々と「悩む」ことで、あたかも「深く考えた」かのような錯覚に勝手に陥って満足したがる傾向があるが。これこそが気分的安心満足に溺れているだけであって、論理的「考え」に至っていない。

 どういったことが自分に合っているのか、それは実際に「ある程度実際にやってみる。」ことでしか自分自身にもわからないものである。ましてや他人に聞くなどというのは不毛極まりない愚行である。

 「好きなことを仕事にしてはいけないのではないか。」というのは日本人特有の心理的拘束観念であって、合理的ではない。

 自分自身が好きではない仕事に対し、情熱を持って向かうことが出来るであろうか。

 ラーメンを作るのが好きではない奴が作ったラーメンを食べたいですか?。

 ケーキ作りが嫌いな奴が作ったケーキを食べたいですか?。

 接客が好きでない奴に接客して欲しいですか?。

 映画制作が嫌いな奴が作った映画を見たいですか?。

 何を頼んでも「めんどくせぇ。」と思っている奴に仕事任せたいですか?。

 自動車を運転することが嫌いな奴が、安全運転をするでしょうか?。

 原発の危険性が放置されたのも、誰も原発運転なんか好きでやっている奴がいないからです。

 社会安全性の観点からも、社会持続可能性の観点からも、「嫌いなことを仕事に選ぶ。」ことをすべきではないのです。

 「自分が何をしたいのか。」を知ることは、社会的にも必要性のあることなのです。










Ende;
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目的。

2013年02月17日 16時05分28秒 | 意識論関連
○目的。

 刑務所や少年院の中においては規律を守り規則正しい生活を送っていても、出所すると簡単に再犯してしまうケースは少なくない。

 刑務所の類というのは刑罰を与えることが目的であって、服役囚が自律的に社会的責任判断を下せることが目的ではない。刑罰というのは権力による暴力であり、暴力や威力を用いて強制的な行動抑制をしても、原理的に自律的な社会的責任判断能力の獲得にはならない。

 原発事故において危険工学的アプローチにおいては、悪者探しよりも根源的原因を究明することを優先しているが故に一人も逮捕者もいないのだが。結論的には「個人が自律的に社会的責任判断を行う。」ことが最も重要なのであって、これは刑罰(応報)を用いても意味がないからである。

 応報というのは、要するに復讐することによる執行者/被害者や遺族の感情的満足のためのものであって。構造原理的に論理的原因究明にも再発防止にもなっていない。

 司法執行者達や遺族といった限定的な者達の気分的満足を追求するために、公的資金を投入するというのは構造的に間違っている。公的資金を用いるのであれば、社会全体にとっての有益性を持ったことに使うべきであって、「遺族がかわいそう。」などといった同情的感情に流され、無駄な司法裁判に漫然と税金を注ぎ込み続ける意味はない。

 通り魔やテロリズムといったヒトの論理性欠落行動の原因を究明しないことには根本的な解決策、再発防止策には全くならず。無駄に被害者が増えるのを放置しているに過ぎないからである。

 既に行われた犯罪などの「人災」の被害者達の感情論に流され、これから起こり得る「人災」への対策を行わない司法制度というのは、根源的に意味がないのである。

 もしかすると、民衆の多くは司法制度というものに対して批判してはならないと、勝手に思い込んでいるのではないだろうか。日本は中国や北朝鮮などと違って「言論の自由」が文面上では保証されていることに制度上はなっているのであって、如何なる権力であろうと問題点があるなら批判しても構わないのである。


 知的障害者の犯罪に対する、論理的再犯防止対策というのは多少なりとも進んでいるらしいが。決して充分とは言えないそうである。

 しかし、そもそも犯罪を犯している時点で、犯罪者というのは知的に障害があると言ってもあながち間違いとは言うことが出来ない。知的障害者かどうかの判定自体が絶対的に正しいことの論理的証明が存在するわけでもなく、むしろ刑罰だけで気分的に安心満足しているあらゆるヒト自体が知的に障害があると言っても間違いとは言えないのである。

 多数派がバカである場合。バカな方が「正常」であると規定するのはバカげた話であって。こんなものは文科系大衆観念的「安心」に基づいた錯覚に過ぎない。

 知能に絶対的「正常」が存在するというのであれば、これはもはや「神」の領域であろう。如何なる過ちも犯したことのない絶対的「正常」者というものが存在する論理的証明が、この世の一体どこに存在するというのであろう。そんなものが存在すると思っている時点で、むしろ異常者であると言えるのである。

 かつてキリストはこう述べた、「他者に罰を与えるというのであれば、産まれて以来一切の罪を持たない者が罰を与えれば良い。さあ、一切の罪を持たない者がいるなら前に出てきなさい。」と。もちろん誰もキリストの前に出てきたものなどいなかったという。

 ヒトという種の生物である以上、絶対に過失を犯さない者など実存しないのである。それなら「どうすれば過失を犯さないように出来るのか。」という論理的対策を施すことこそが優先されるべきなのである。

 どんなに厳罰化を推進しても、暴力団も振り込め詐欺も減ることはないし。通り魔やテロリストに関しては厳罰自体に効果が全くないのである。事実中国では麻薬取締違反は死刑であるが、一向に麻薬犯罪は減らないのである。

 犯罪というものは、犯罪者自身が自律的に社会安全性や持続可能性を求めないという論理崩壊性が根本に存在する。目先の欲望本能に意識を奪われ、自分が存在する社会全体の利益を無視し、意識から外すという意識狭窄性こそが、犯罪というその場限りの不毛な損害をもたらすのである。

 犯罪が犯罪足りうるのは、法律が先に存在するからではなく。社会にとって損害をもたらす行為を規制する「手段」として法律を運用しているのであり。誰にも損害が生じていない触法行為を取り締まるというのは、法律の乱用に過ぎないのである。

 かつて、戦後混乱期にダンスホールが犯罪の温床になっていた時期に制定された法律を持ち出して、単に「客が店内で勝手に踊っていた。」というだけで店長が逮捕されたケースもあるという。これは明らかに法律の乱用であり、警察の暴走である。一方で義務教育でダンスを必須科目としておきながら、一方で「店内で踊っていた。」だけで店長が犯罪者として扱われるのは、明らかに政府の方針として支離滅裂でもある。

 警察権力による取締というものは、手段であって目的ではない。当然、法律自体も手段であって、それ自体が目的ではないし。司法裁判というものも、あくまで気分的な抑圧「抑止」としての価値は存在するとしても、これはヒトが犯すあらゆる「人災」に対する根本的対策という社会的「目的」にはなっていないのである。

 国家権力を用いて気分的な抑圧によって犯罪を抑止するだけでは、犯罪の根源的な原因である「犯罪者が自律的な社会的責任判断を下さない。」ことに対する対策にはならない。

 ヒトがなぜ自律的な社会的責任判断を下さなくなるのか、それは当人に自発的な思考自体が存在していないという無意識性の「結果」である。社会安全性を権力などの他人任せにしてしまうという「社会的甘え」こそが、こうした無責任性を助長するのであって、個人が主体的に物事を考えていれば目先の欲望本能だけに流されることなく、自律的に社会的責任判断も下せるようにもなるのである。

 個人が主体的に物事を「考え」るという論理検証性/本質的意識というものは、単に権力や暴力を用いた強制的抑圧では構造原理的に育まれることはなく。むしろ阻害するような心理的拘束を植え付けるだけなのである。

 だから刑務所による刑罰の有効性や実効性がなく、再犯が繰り返されるのである。

 通り魔事件などが発生すると、司法警察は犯人の「動機」さえ追及すれば「原因」であると規定するが。犯人の気分的感情に由来する「動機=行動。」という短絡性こそが、あらゆる犯罪に共通する最も根源的「原因」なのであって、その事件における犯人の個人的「動機」自体には何の意味も存在しないのは当たり前の話なのである。

 犯罪者というのは、いうなれば患者であって。患者当人に対して「お前の病気の原因は一体何だ。」といくら問い質しても、病気の原因が究明出来ないのは当たり前の話である。

 むしろ患者に対して病気の原因を問い質すことしかしない司法警察制度自体の方が、むしろ「異常」であり。その異常性に誰も言及しないこともまた、異常なのである。

 統合失調などの知的障害というのも、あくまで「程度」の問題によって障害者かどうかを判定しているだけであって。障害者として認定されていなくても、傾向自体が存在するのであれば、これは医者のさじ加減だけで障害の有無を判定しているだけのことである。

 「程度」問題であるということは、統合失調の「傾向」性というものも全てのヒトには存在するものでもあって。絶対的に統合可能な「神」みたいな絶対的統合能力のある者など実存しないのである。

 原発の危険性を放置した東電社員達も、決して知的障害者として認定されているわけではない。それでも、統合的な考えに基づいて、自分が所属する組織の利益を優先して、社会的責任判断を放棄したのであって。あらゆるヒトは間違える可能性は持っているのである。それを単に「たまたま被害が大きかった。」という「結果」だけを根拠に罰を与えるだけでは、「たまたま運が悪かった。」だけで罰の大きさが決定されてしまうのである。

 逆に言えば、どんなに無責任な行動を採っているとしても、偶発的に被害が露見しなければ罰は与えられないということにもなってしまうのが、現在の司法手続きの構造である。

 あらゆる犯罪も含めた「人災」を減らすためには、個人が自律的に社会的責任判断を失わないようにするための、具体的で効果的な対策を行うことが最も優先されるべきなのである。これを行わずして目先の司法制度に依存しているからこそ、通り魔事件やテロリズムも含めたあらゆる「人災」が無為に繰り返されることに対して何の具体的対策も行われないのである。




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