書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

使えない鋏。

2013年11月17日 14時41分28秒 | 意識論関連
○利益追求。

 「合理性の追求。」というものを短絡的に「利益追求。」と混同するのは間違いである。

 利益追求というのは、利益という本能欲望の追求であって、合理性そのものを全く追求していない。

 単なる欲望である利益を追求せずに、社会全体の持続可能性や安全性を追求してこその合理性であって。利己的利益の追求や、自分の保身のために所属する組織の利益追求をすることは「合理性の追求。」にはならない。

 理化学研究所 脳科学総合研究センター 岡本 仁 (おかもと ひとし)は、未だに「利益追求」のことを「合理性追求」であると述べており、あまりにバカ過ぎて話にならない。

 岡本のこうした論理的間違いを、脳科学総合研究センターの誰も指摘しないというのであれば、脳科学総合研究センター自体、理化学研究所自体がバカの集団であることの証明である。

 論理的に間違った観念に基づいて研究をしても、マトモな分析が出来るはずもなく、税金の無駄遣いにしかならず、極めて無責任である。

 岡本の研究というのは、魚が電撃ショックを避けるように行動学習する行動を、「条件反射ではない。」などと言い張るものであり。バカ過ぎて語るにも足らない。一体「パブロフの犬。」と何が違うというのであろう。

 原発の危険性放置において、社員が保身のために「組織の利益を追求し、自律的に社会的責任判断を下さなかった。」ことは「合理性の追求」ではなく。あくまで恐怖心という気分感情、本能的拒絶による行動であり、「嫌な思いをしたくない。」という利己的な行動学習によるものであり、魚が嫌なことから逃れるように行動学習したのと全く同じ行動なのである。

 学校におけるイジメにおいても、イジメをとめれば、とめた者が標的にされることを行動学習的しているからこその恐怖心によって、圧倒的多数派による放置傍観が起こるのであり。これもまた「嫌なことからの逃避。」が原因である。

 「嫌なこと。」とは、大脳辺縁系が嫌うことであって、自律的な論理思考による行選択判断ではなく。むしろ自律的な論理思考そのものを阻害し、「他人事」として意識狭窄を生じさせる原因に他ならない。

 ヒトの先天的な本能習性による気分的な拒絶反応的によって「学習」される行動とは、大脳辺縁系の反射という無意識に他ならず。こうした無意識性というものは、個人の主体的論理検証性である本質的な意識機能が働いていないからこそ、短絡的に「嫌なことから逃げる。」という気分感情論だけで行動が決定してしまうのである。

 これらの論理的構造を理解していない脳科学総合研究センターの研究者達は、利根川進(ノーベル賞受賞者)も含めてバカの集団である。

 ノーベル賞受賞者までも批判すれば、多数派からは嫌われることは私も知っている。だが、こうした生物学界全体の腐敗を放置の原因が利根川進や松沢哲郎(京都大学教授)などの権威の理解力の欠落に由来するものである以上、看過することは出来ない。

 ◇

 右脳優位なヒトは、感情的で論理性がないと言われるが、これは間違いである。

 実際には左脳優位なヒトというのは、数学などの断片的な論理思考能力は高いのだが、統合的な観点から物事を思考することは苦手であり。右脳優位なヒトから見ればあまりに頭が悪すぎて苛立ちを感じることから「感情的」であると錯覚されているに過ぎない。

 右脳優位なヒトにとっては、左脳優位で短絡的固定観念しか述べないバカに対して論理的説明をするのは徒労であり。あまりにバカ過ぎて気分が悪いのである。

 右脳優位なヒトにとっては、合理性の追求というのは社会全体が持続可能性を持ち、安全で穏やかな社会で自分達が暮らすことが出来ることであって。決して「目先の利益を追求すること。」などではない。

 「利益追求=合理性追求。」などというバカみたいな固定観念から、自律的論理検証によって逃れることが出来ない左脳優位なバカに対し、右脳優位なヒトが説明する事ほど面倒で嫌なことはない。

 数学というのは、あくまで特定数式上における論理思考能力の高さを必要とするだけであって、統合的な論理検証能力を必要とするものではない。むしろ、学力成績という抽象化された「脳への報酬」に対する条件反射的行動学習として高い数学能力を発揮する場合も少なくなく。故に高学力な無差別殺人犯というのが存在するのである。

 純粋数学というのは、使い道もわからない数学理論の積み重ねであり。「一体何に有効なのか。」という「その先。」のことに意識が及ばない短絡性や意識狭窄性が必要なものでもある。それがたまたま量子理論などに応用出来るとしても、偶発的な「結果」に過ぎず、そこには「目的」意識というものが介在しておらず。あくまで数学オタクの結果論以上の価値はない。それはあたかもクソゲープログラマーが世間的に成功しているのと同じようなものであって、「バカと鋏は使いよう。」なのである。

 現在の生物学や、その一部である脳神経生理学の類の論理崩壊性を放置しておいて、マトモな科学的検証に基づいた立証が出来るわけがない。

 バカや鋏に「使われて」いるから無意識だと言っているのである。バカは意識的に使うべきであり、使えない鋏は研ぐか廃棄処分するなり判断する必要性がある。そうした論理検証判断というものが、現在の生物学界や脳科学界には全く働いておらず、故に結果的組織腐敗を招き税金の浪費にしかなっていないのである。

 バカを放置することは合理的ではない。理論的に間違った観念に基づいた検証をいくら重ねても、科学的論証には全くならず、オカルトにしかならない。

 「これさえやっときゃ、脳に良い。」だの、「脳血流が増加したから頭が良くなった。」などという短絡的でバカみたいな論証を積み重ね、何の批判もしない現在の脳科学界というのは無責任極まりないオカルト集団に過ぎず。これらを放置している権威(利根川進や松沢哲郎など)の無責任性を徹底的に追求する必要性がある。

 現在の生物学界や脳科学界には自浄効果は期待出来ない。何せ脳科学総合研究センターのセンター長がバカなのであるから、これは構造原理的に不可能であり。理工学系研究者による外部監査が必要なのである。

 脳科学というのは、失敗学においても重要な意味を持つものであり、あらゆる「人災」に対する合理的対処のためには不可欠な学問である。それがバカの集団であるなら社会的負担にしかならず、使い物にはならない。

 岡本仁や利根川進、松沢哲郎のように「いくら研いでも使えない鋏」は早急に廃棄処分すべきである。論理的理解力の欠落した科学者などというのは科学者として無能だからである。


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