戦争の問題点として、軍隊という封建的組織が為政者達の意のままに動いてしまう異常性が挙げられる。
軍隊というのは民主主義が働かない。上からの命令にただ漫然と従うのみの集団の中には個人の自律的判断などというものが働くことはなく、アブグレイブ刑務所のような野蛮行為も常態化することに陥る。
先の戦争では「お国の為。」などと言いながら、実のところ為政者達の保身が「一億玉砕」の根拠であった。
極論を述べれば、他国が侵略してきた場合には、日本国民全員を武装させゲリラ民兵にしてしまうことの方が戦略的に効果があるのではないかと思っている。
武力による抑止などというのは、「犯罪に対する厳罰化。」と同じで、相手が自暴自棄なテロリストであれば何の抑止にもならないことは、9.11のニューヨーク空襲を見れば明らかである。アメリカ程の軍備が全く国民の安全を保障しないという事実を忘れるべきではない。
戦争に限らず、犯罪も含めて、ヒトという種の生物が先天的に持っている暴力性というものを、理性によって個人が自律的に抑制するための教育方法論を確立しない限り、法律などという機械的手続きをどんなにこねくり回しても意味がない。
法手続きという枝葉をどんなに整えても、根源としてのヒトという種の生物の異常性を個人が認識していなければ、単なるその場限りの安心満足にしかならないからだ。
「想像力があるから人間かも知れない。」などという、松沢哲郎によるその場しのぎの取り繕いを「文化」功労賞なんぞで浮かれているから、ヒトという種の生物の危険性について全く研究が進まないのである。
「お国の為」だとか、「人類の救済」などという嘘を鵜呑みにしてしまうのは。ヒトでありさえすれば短絡的に人間性を発揮出来る優秀な生物であるかのような妄想こそが、現在の生物学界によるペテンを助長しているのである。
断片的立証から、ヒトという種の生物があたかも常に先天的に正しい行動しか採らない優秀な生物であるかのような論証を陳列しておけば、大衆の多くは自分達が正当化されたような錯覚に陥って安心満足するため。現在の生物学界のペテンにばかりコンセンサスが働き、畑村洋太郎の研究にはコンセンサスが得られないというバカげた状況に陥るのである。
本来科学というのは多数決で決定するものではなく、あくまで論理的弁証法によって淘汰されなくてはならないものであり。科学にコンセンサス(多数派の動機)を持ち込むこと自体がとんでもない間違いである。
伊勢崎賢治が述べるように、「戦争をしない国。」としての国際的役割というものも存在しているのであって。「抑止力」などという実体のない妄想で気分的に安心満足しようとするのはオカルトとしか言いようがない。
オカルトが何の解決にもならないことは自明である。
「合理性ばかりを追求し、持続可能性や安全性を蔑ろにするのは間違い。」などと言うバカが未だに絶えないが。持続可能性や安全性を考慮に入れていない時点で合理性でも何でもないことになぜ気付かないのであろう。
利己的利益追求というのは、欲望という先天的本能主体の行動であって。その追求過程がどんなに理性「的」であろうとも、これは理性でも何でもないことは明らかである。
人間性を伴った「心」というものが、単なる先天的感情気分によって導き出されるものではなく。あくまで自発的な論理検証性によって導き出されるものであることを、論理的に厳密に「理解」する必要性がある。それは大衆観念的に「解釈」されるようなあやふやな無責任なものであってはならない。
◇
石破茂は、とあるテレビ番組の中で、「私は戦争のない世界を作りたい。」などと言っていたが。石破というのは「地球の裏側の人間が、何を考えているのかなど、絶対にわからない。」と日テレの生放送中に断言したキチガイである。こんなキチガイの言っていることを鵜呑みにするべきではない。単にその場限りに大衆ウケを狙った「嘘」に過ぎないからだ。
そもそもこの話がどうして問題にならなかったのか自体がとんでもないペテンであろう。
Ende;
軍隊というのは民主主義が働かない。上からの命令にただ漫然と従うのみの集団の中には個人の自律的判断などというものが働くことはなく、アブグレイブ刑務所のような野蛮行為も常態化することに陥る。
先の戦争では「お国の為。」などと言いながら、実のところ為政者達の保身が「一億玉砕」の根拠であった。
極論を述べれば、他国が侵略してきた場合には、日本国民全員を武装させゲリラ民兵にしてしまうことの方が戦略的に効果があるのではないかと思っている。
武力による抑止などというのは、「犯罪に対する厳罰化。」と同じで、相手が自暴自棄なテロリストであれば何の抑止にもならないことは、9.11のニューヨーク空襲を見れば明らかである。アメリカ程の軍備が全く国民の安全を保障しないという事実を忘れるべきではない。
戦争に限らず、犯罪も含めて、ヒトという種の生物が先天的に持っている暴力性というものを、理性によって個人が自律的に抑制するための教育方法論を確立しない限り、法律などという機械的手続きをどんなにこねくり回しても意味がない。
法手続きという枝葉をどんなに整えても、根源としてのヒトという種の生物の異常性を個人が認識していなければ、単なるその場限りの安心満足にしかならないからだ。
「想像力があるから人間かも知れない。」などという、松沢哲郎によるその場しのぎの取り繕いを「文化」功労賞なんぞで浮かれているから、ヒトという種の生物の危険性について全く研究が進まないのである。
「お国の為」だとか、「人類の救済」などという嘘を鵜呑みにしてしまうのは。ヒトでありさえすれば短絡的に人間性を発揮出来る優秀な生物であるかのような妄想こそが、現在の生物学界によるペテンを助長しているのである。
断片的立証から、ヒトという種の生物があたかも常に先天的に正しい行動しか採らない優秀な生物であるかのような論証を陳列しておけば、大衆の多くは自分達が正当化されたような錯覚に陥って安心満足するため。現在の生物学界のペテンにばかりコンセンサスが働き、畑村洋太郎の研究にはコンセンサスが得られないというバカげた状況に陥るのである。
本来科学というのは多数決で決定するものではなく、あくまで論理的弁証法によって淘汰されなくてはならないものであり。科学にコンセンサス(多数派の動機)を持ち込むこと自体がとんでもない間違いである。
伊勢崎賢治が述べるように、「戦争をしない国。」としての国際的役割というものも存在しているのであって。「抑止力」などという実体のない妄想で気分的に安心満足しようとするのはオカルトとしか言いようがない。
オカルトが何の解決にもならないことは自明である。
「合理性ばかりを追求し、持続可能性や安全性を蔑ろにするのは間違い。」などと言うバカが未だに絶えないが。持続可能性や安全性を考慮に入れていない時点で合理性でも何でもないことになぜ気付かないのであろう。
利己的利益追求というのは、欲望という先天的本能主体の行動であって。その追求過程がどんなに理性「的」であろうとも、これは理性でも何でもないことは明らかである。
人間性を伴った「心」というものが、単なる先天的感情気分によって導き出されるものではなく。あくまで自発的な論理検証性によって導き出されるものであることを、論理的に厳密に「理解」する必要性がある。それは大衆観念的に「解釈」されるようなあやふやな無責任なものであってはならない。
◇
石破茂は、とあるテレビ番組の中で、「私は戦争のない世界を作りたい。」などと言っていたが。石破というのは「地球の裏側の人間が、何を考えているのかなど、絶対にわからない。」と日テレの生放送中に断言したキチガイである。こんなキチガイの言っていることを鵜呑みにするべきではない。単にその場限りに大衆ウケを狙った「嘘」に過ぎないからだ。
そもそもこの話がどうして問題にならなかったのか自体がとんでもないペテンであろう。
Ende;