書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○合わせ技。

2014年07月27日 12時37分08秒 | 日記
 東芝AZ-05M(Android2.2)で、auの家庭用無線LAN使っているんだけど、なぜかGooglePlayとかGoogleMapなど、Google系でアクセス出来ないサイトがある。(Google検索は使える。)

 Android2.2でもセブンスポットだと普通につながるので、PCだけの問題でもないし。姪のキンドルファイアでは家で普通にアクセス出来るので、auの無線LANとAndroid2.2の合わせ技でつながらなくなるらしいのだ。



 一体どういうメカニズムでサーバーが見つからなくなるのやら。Webってカオス。

 そもそもGoogleってやたらと最新の技術を盛り込みたがりなので、それが何らかの障害になっているのかも知れない。


 ◇追記:Google翻訳にアクセスしたらモバイルページに飛ばされて、使い方がさっぱりわからなかったのでPCページを開こうとしたらアクセス拒絶された。で、使い方がわからなくてあれこれ試してたら急にモバイルページもアクセス出来なくなった。

 何なんだ?何かやっているな、セキュリティ関連で拒絶されているのかも。ってか、Android2.2ってGoogleがこさえたんでしょ、何で動作不良起こすのよ。

 ◇追記:そういやフェイスブックもつながらない。




Ende;
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○間違い。

2014年07月27日 11時18分10秒 | 意識論関連
 「利己的利益追求」などという、その場限りの欲望を満たすための行動選択を、合理性の追求として分類するのがとんでもない大間違いであり。こういう根本的な間違いを誰も認識せずに鵜呑みにしているから人類はいつまでもバカが治らない。

 持続可能性や安全性への配慮があって、初めて「合理性の追求」と言えるのであって、これはその場限りの気分感情でどうにかなるようなものではなく。徹底的に論理検証するという冷静さと意思が必要不可欠である。


Ende;
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○撹乱。

2014年07月27日 10時42分34秒 | 意識論関連


 「進化」の全てが常に最適化を得られるという妄想を抱くべきではない。

 進化というのは、特定環境への適応ではあるが。その特定環境というもの自体が偶発的「結果」に過ぎない以上、適応進化そのものも「結果」に過ぎない。

 一例として、ヒトの多くは外見で他者を判別する習性があるが、これは必ずしも正しい最適な結果を導かないばかりか、むしろ錯覚妄想を抱かせることの方が圧倒的に多い。

 また、子供がイジメの対象にする相手が決める際に、学級内カーストという身勝手な観念によるヒエラルキーを基準にすることがあるが。こうした観念が集団内部で発生する「行動習性」も、「進化の結果」に過ぎず。決して人間としての最適化とは言えないのである。

 ヒトという種の生物が、過去にどのような環境の中で「生存」に適したのかなど知る由もなく。オカルト観念を共有してオカルトを信じない個体を淘汰した結果、ヒトはよりバカに進化(変化)した可能性も非常に高い。

 その結果として、ナチスドイツ、ソマリアやカンボジア、シエラレオネやパレスチナなどにおける虐殺行為といったものが一向になくならないとも言えるのである。

 ヒトは暴力で解決しようとする先天的習性がある。DV男が配偶者を散々殴った後に、脳内麻薬の相転移によってセロトニンが分泌され、急に優しくなることがあり。これがDV男にいつまでも執着する女の頭の悪さの一因にもなっている。

 ヒトという種の生物というのは、暴力を振るうことで満足が得られるよう、進化の過程で先天的に脳に組み込まれているのであり。現在のヒトという種の生物に至るまでの過程でどのような進化があったのかの全てなど、誰も知らないし知る術も既にない。

 野生動物というのは、食物連鎖という暴力的な適応によって環境バランスを獲得した。肉食動物が他の動物を喰うという暴力を発揮することが、生態系において重要な要素を占めており、これもまた「結果」に過ぎない。

 特定生態系において個体の本能習性というものがあらゆる環境において最適化されている証明にはならず、自然の生態系の多くはごく僅かな環境変化で簡単に崩壊することも少なくなく、

 つまり、まるであたかも「進化生物学の神」が意識的に生態系バランスをとったかのように「見える」としても、それは特定の断片的な抽出「結果」に対する大衆観念的な妄想錯覚に過ぎず。どんなに複雑で巧妙なメカニズムがあったとしても、そこには何ら意識的選択が介在する余地は一切なく。当然「目的」も存在し得ない。

 こうした「進化生物学の神」を信奉することが科学をオカルトにおとしめているのであり。この宗教は一向になくなる気配がない。

 ヒトの先天的な本能習性というものは、必ずしも人間として正しい結果や選択を導くものではない。犯罪や過失というものに対して刑法懲罰の程度や妥当性を決めるだけの司法制度だけで全てが解決したかのように錯覚するのも、ヒトの頭の悪さからくる妄想錯覚に他ならない。

 国家権力による懲罰という多数派による暴力的報復さえしておけば、あたかも犯罪の全てが抑止出来るかのように気分的に安心し、満足してしまう先天的本能習性の結果である。

 これらの妄想錯覚というものは、先天的な本能習性の「結果」であり。ヒトの頭の悪さというのはこうした先天的本能習性が導き出すものであることを認識していないからこそ、「進化=絶対的正義」という身勝手な妄想が蔓延ることになるのである。

 こうした進化生物学の妄想によって、ヒトの危険性に対する科学的論理検証が忌避され、同じような過ちを漫然と繰り返しておいてもヒトの多くは何の危機感も違和感も抱くことはないのである。

 これらの危機感や違和感の喪失というものが「無意識」というものであり。論理検証的に「考え」ないことこそが「無意識」の正体なのである。

 トラウマや恐怖症といった症状では、物理的には脳に損傷がないにも関わらず、脳血流の不活性個所が見られることがある。これも一種の「学習」であり、特定脳部位の不活性状態を「学習」した結果だと言える。

 逆に薬物依存などでは脳が異常活性するように「学習」してしまい、これが自動車の暴走などの結果を招くこともある。

 単に平均的な脳状態が必ずしも「正常」であることの論理証明にはならないが。判断能力の障害があれば「異常」であることに間違いはない。

 振り込め詐欺に引っ掛かっている状態の被害者の脳状態というのは異常であると言えるだろうが。しかしこの被害者達も普段は概ね「正常」でそれなりの判断能力があるが、詐欺の口車にのせられるという状況下においては簡単に判断能力を失うように脳が先天的に出来ているため、ヒトは詐欺に引っ掛かるのである。

 概ねヒトが正常な判断力があることを陳列枚挙しても、ヒトが常に正常な判断力を発揮し続けるものであることの論証には全くならず、ヒトの先天的な行動習性や本能といったものがもたらす結果というものには何の保証もない。

 「日本人は素晴らしい。」だとか、「ヒトは素晴らしい。」といった話を陳列枚挙しておけば、ヒトの多くはあたかも自分の先天的優位性か何かと勘違いして安心し満足するが。この安心満足自体が大脳辺縁系に組み込まれた機構の「結果」であり、ヒトの脳というのは人間としての振る舞いを常に促すよう都合良く出来てはいないのである。

 司馬遼太郎などの文科系観念に対する違和感というのは、単なる民族賛美によって大衆人気を得ているだけであって、論理科学的分析には全くなっていないため、根源的原因究明にも再発防止策にもつながらないからである。

 文系観念というのは観念的「解釈」によって気分的に安心満足することが目的であって、論理的な問題解決には全くつながらないのである。

 ヒトという種の生物は、環境によっては殺人鬼集団になることもある。ソマリアの民族間で起きた虐殺も、ドイツのナチズムによる虐殺も、いわば「普通の人達。」が引き起こした異常状態であり、「自分というヒトの先天的本能習性には危険な部分も存在する。」という前提に立って物事を判断しなければならない。

 こうしたヒトの異常性というのは民族人種に依存するようなものではなく、ヒト全般に見られる普遍的習性であり、特定民族の正当化なんぞしているから本質を見失うのである。



 自己過信をしておいた方が気分的には安心で満足することが可能であろうが。その安心満足こそがヒトの持つ危険性の根源に他ならない。何も「常に恐怖を感じておけ。」と述べているのではない、恐怖もまた大脳辺縁系がもたらすバイアスに過ぎず、「怖いか、怖くないか。」を論じていても、「安心か、安心ではないか。」を述べているのと何の違いもないからだ。

 重要なのは、こうした安心や恐怖といった気分感情に左右されることなく冷静に「考え」る論理検証性である。振り込め詐欺の被害者の多くが、「自分だけは絶対に大丈夫。」だと思い込んでいることも、それが気分的に安心で満足だからであり、ヒト全般にこうした本能習性というものは存在するのである。

 子供が学級内部でヒエラルキーを勝手にでっちあげたり、集団協調的にイジメを行ったりする場合に、子供個人が「自分の行動は正しいのだろうか。」という自己論理検証に基づいた行動選択を行わないからこそ、子供達はイジメ行動がエスカレート暴走することに陥るのである。

 ブレーキ抑制をするのは「気持ち」なんぞではなく、理性である。気持ちなどというのはその場限りにコロコロ変わるものであり、こんなものに依存した対策に終始しているからこそイジメを含めてあらゆる「人災」が一向に減らないのである。

 その場限りにコロコロ変化してしまう気分感情というのは無意識であり、こうした無意識を制御する理性こそが「自己」というもの、意識というものの本質なのである。

 大衆の多くは「理性には利己的金儲けをする側面がある。」などという嘘を鵜呑みにしがちであるが。利己的金儲けは理性ではなく欲望主体の行動選択であって、持続可能性や安全性への配慮が抜け落ちている時点で合理性も抜け落ちていることまでには、ヒトの多くは思慮が働かない。

 ちょっと考えれば誰でも解るようなことであっても、ヒトの多くは多数派の観念を鵜呑みにするばかりで何も「考え」ていない。だから人類はいつまでもバカげたことを繰り返すことに陥るのである。



Ende;
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