書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

〇「人災」の原因。

2015年04月08日 15時29分10秒 | 意識論関連
 ヒトやチンパンジーの行動から断片的に倫理的に見える習性を抽出枚挙してきても、ヒトやチンパンジーの狂暴性の反証には一切ならず。単に文科系マスコミや大衆の気分的満足を提供しているに過ぎない。

 どんなに倫理的に見える行動習性を抽出枚挙しても、それによって狂暴性が一切存在し得ないことの論理証明には全くならないからだ。

 チンパンジーであれヒトであれ、断片的にであれば概ね倫理的で平和的な部分だけを抽出することは簡単である。その平和的で倫理的な部分だけを断片的に抽出することで満足するのは大衆迎合に過ぎず、それは単に「ヒトやチンパンジーは生物として優秀である=自分達は優秀である。」という短絡的でバカ丸出しな観念に溺れて満足しているだけの妄想錯覚に過ぎず。全くもって科学的には意味を成さない。

 どんなに断片的に倫理性を抽出してきても、それがヒトやチンパンジーの狂暴性の反証には全くならないことは明らかであり。これを短絡的に科学的業績か何かだと錯覚しているのは進化生物学者とマスコミ大衆だけである。

 これらの進化生物学者達の妄想錯覚をどんなに陳列しても、テロリストや通り魔の発生原因について何の影響も及ぼさないばかりか。むしろ身勝手な大衆迎合によって本質を撹乱する害しか及ぼしていないのである。

 それはあたかも司法制度が刑罰科料の程度の妥当性の決定を「解決」だと見なすことと同じように、本当の意味での根本的対策を阻害するものでしかないのである。

 進化生物学的な先天的行動習性とは、常に「結果」以外の何も抽出することはない。従って進化生物学が出来ることというのは常に「結果」の観察報告だけであって、そこから意識的目的行動選択としての倫理や人間性に言及することは構造原理的に不可能なのである。

 人間性としての倫理、理性というものに言及するためには、「結果」の抽出を陳列する形式からは原理的に不可能であり。「結果」だけを観察する形式の進化生物学者が言及するべきものでは最初からない。

 人間性や倫理に言及するためには、「目的」としての意識が必要不可欠であり。進化生物学的「結果」から抽出するようなものでは構造原理的にない。

 ヒトやチンパンジーの倫理性を断片的に抽出してくれば、マスコミ大衆は自分達のヒトという種としての優秀性を勝手に妄想して満足するのであろうが。こんなものは進化生物学のペテンでしかなく、全くもって科学的には意味を成さない。



 ヒトやチンパンジーの行動習性の断片的「結果」をどんなに陳列しても、東電社員による原発の危険性放置の原因究明にも、イスラム系過激派(過激派というのはイスラム系に限ったことではないが、時事ネタとして挙げている)や通り魔達の行動について何も言及することが出来ない。これは構造原理的に不可能なのであって、「何かの役に立つかも知れない。」と思っているのはマスコミ大衆の妄想錯覚でしかない。

 振り込め詐欺師達や反社会的組織の集団内部で利他的行動や倫理統率性をどんなに抽出してきても、それが振り込め詐欺師達の非人道性の反証には一切ならないことと同じであり。それで満足しているというのは、むしろ社会的に極めて無責任なことだということを認識すべきである。

 「意識」的に論理検証し選択されないあらゆる「結果」としての行動習性に「目的」は存在しない。

 どんなに大衆観念上倫理的に「見える」としても、それを錯覚妄想だと認識出来ないのは論理的科学的に検証していないからである。

 論理検証性が個人的、主観的に嫌いなのは勝手だが、論理検証をすっ飛ばして気分的満足安心だけで科学的証明だと言い張るのは社会的無責任であり、悪質である。当人にその認識があるかどうかは関係がない。

 反社会的な過激派組織や通り魔達がなぜ暴力という短絡的最終解決に暴走するのかといえば、彼らの脳にも論理検証性が欠落しているからであり。進化生物学的「結果」の抽出枚挙を科学的業績だと妄想することというのは、彼らの思考パタンと全く同じ無責任なものなのである。

 「ヒトの多くが先天的に論理検証性が嫌い」だからといって、それが「人間として正常」であることの論理証明には一切ならない。

 ヒトの多くは多数派に属していることで気分的に安心するという多数派同調バイアスが先天的に備わっている。これはいわば先天的な「バグ」であって、その「バグ」から促される妄想錯覚に「パッチ」を充てるのが論理検証性であり本質的意識なのである。

 しかしチンパンジーに論理検証性など存在しない。ヒトであっても多くのヒトが先天的に論理検証を忌み嫌うものであって、その結果がイスラム過激派や東電の無責任な暴走をもたらしているのである。



 ヘイトスピーチ的に何かの組織集団に暴力的差別をしておけば何かの解決になると妄想することは簡単である。暴力的に怒鳴り散らしておけばヒトの大脳辺縁系は満足するよう先天的に出来ているからである。

 なぜ、こうした構造なのかといえば。それは大脳が肥大する以前の圧倒的に進化過程において組み込まれた「結果」に過ぎないからだ。

 先天的行動習性をどんなに陳列枚挙しても、そこからは「結果」以上の何も導き出すことは原理的に不可能なのであり。意識的に選択された「目的」が介在しない先天的行動習性から倫理や人間性を論ずることも同様である。

 ヒトという種の生物は先天的に論理検証をパスして気分感情だけで行動選択するよう出来ている。ヒトが引き起こすあらゆる「人災」の全ては自分の行動選択を論理的に検証しないことから生ずるものであり、文科系大衆観念に基づく進化生物学への妄想というのは、あらゆる「人災」の根源なのである。

 「自分だけは大丈夫」とは、特殊詐欺の被害者達が詐欺に遭うまで「思って」いた観念の典型である。ヒトという種の生物は先天的に「自分だけは大丈夫」だという思い込みで安心満足しようとする習性があり、これを「正常性バイアス」と言う。

 「もしかしたら自分は間違っているのではないか。」という疑いを持つことが気分感情的不安をもたらすことから、ヒトの多くは「自分だけは絶対に大丈夫」だと思い込むことで、自分の行動への論理検証を放棄するよう先天的に出来ている。それがあらゆる「人災(論理検証的予測によって回避可能な災害)」の原因なのである。



 ヒトは「長く続くことは永遠に続くと錯覚する。」性質がある。それは「長く続いていること。」に対して論理的根拠もなく気分的に安心満足が得られるという実証不能の観念に基づくものであり、それゆえ司法裁判などという実質的には犯罪や事故の再発防止につながらない「国家権力誇示のための懲罰」を「解決」であるという妄想錯覚をもたらし不毛な血税の無駄遣い制度の温存に多くの国民が加担しているのである。

 国家権力による暴力的懲罰を用いて、気分的恐怖心で民衆を抑圧するという制度の形式自体が、あらゆる暴力的集団組織や通り魔達の思考パタンと同じものであり。この根源的且つ一般的な間違いを間違いであると認識出来ないからこそ、あらゆる暴力的集団組織や通り魔の発生原因にも言及することが出来ないのである。

 刑務所を出所した後に就職先がないと再犯率が高いからといって、短絡的に犯罪者に就職斡旋をするなどという犯罪者優遇はあまりにバカげており。刑務所という懲罰制度自体を温存維持するための「その場限りの取り繕い」にしかなっていない。


 ヒトという種の生物は、先天的にアクシデントが生ずると特定責任者を「悪者」と見なして懲罰を加えておけば気分的に安心満足し。それを短絡的に「解決」であると思考を停止する。

 この形式はISILや通り魔の行動原理と全く同じものであり。これこそがあらゆるアクシデントに対する論理的再発防止策の確立を阻害しているのである。

 国会事故調査委員会の畑村洋太郎氏(危険学者)は、こうした「悪者探し」がもたらす懲罰よる気分的安心に拠らない科学的で合理性のある再発防止策の確立を提唱しているにも関わらず。大衆の多くは悪者を身勝手に規定して怒鳴り散らして満足しているだけである。これではヘイトスピーチと何の違いもなく、害悪しかもたらさない。

 相手が間違っているからといって、自分まで間違って良い理由にはならない。

 むしろ自分が間違いに陥らないようにしなければ他人の間違いに言及する資格もないのである。

 相手という、いわば「環境」に左右されて自律的な社会的責任判断選択を放棄してはならないのである。

 ヒトはどうしても相手が支離滅裂なことを言っていると自分まで感情的になり論理検証性を失う習性がある。特殊詐欺師というのは、こうしたヒトの普遍的習性を利用して経験則的に詐欺を行っている。

 詐欺というのは騙される方にも問題がある。ナチズムにそそのかされてユダヤ人を迫害したドイツ人達や、欧米列強の植民地政策を模倣して軍国主義に染まって侵略戦争に走った日本人の暴走も。「時代や社会」という環境に流され自律的な論理検証性を持たなかったことに起因する野蛮行為である。

 政府による情報統制が一因であるとはいえ、情報統制によって全ての国民が騙されたわけではなく。「多くの国民」が騙されたからといって騙されたことが「正常」であるなどと思うのは傲慢という他ない。

 現代のようにこれだけ情報に恵まれていてもヘイトスピーチのような偏った情報に洗脳されるヒトは出てくる。それを見て、「バカはいなくならないなぁ。」と他人事だと思うだけではなく、むしろ「もしかすると自分もバカに陥るかも知れないな、注意しよう。」と自戒すべきなのである。

 自らの頭の悪さを認識せずに「人災」を語る権利はない。


Ende;
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