「宗教はアヘンである。」そう述べたのはカール・マルクス(Karl Heinrich Marx)でしたが、ヒトが宗教を信じる理由について説明したいと思います。
ヒトが宗教を選ぶ理由とは何か。それは、教義を守り神に服従することで、あたかも自分が正しい存在になったような錯覚を与えるからです。
気分が良くなるから宗教を信じたがるのであって、宗教戒律を守ることであたかも絶対的存在である神の教えを守る潔癖な存在であるという錯覚が欲しくてヒトは戒律を守るのであり、社会の安定や平和につながる合理的根拠が必ずしも必要なわけではないのです。
ヒトという種の生物は、他者との比較をして自分が他人よりも「上」か「下」かといった「順位づけ」をする習性があります。こうした習性はイヌやハダカデバネズミなどの動物に顕著に見られる性質で、自分より順位が「上」と見なした相手に服従することで気分的に安心や満足が得られる習性を持った個体へと淘汰が働いた結果、服従が快楽(脳への報酬)となるよう自然淘汰によって脳の古い領域に組み込まれた「結果」なのです。
進化生物学上ではこれを「社会性」と形容していますが、これは結果的に役割分担による機能性を指して形容しているだけであって、こうした「社会性」であれば野良犬の集団でも振り込め詐欺師でも行う先天的習性という「結果」でこそあれ。意識的に選択した「目的」としての(持続可能性や安全性を考慮に入れた)人間としての社会性とは全く別の「社会形成習性」に過ぎないのです。たとえそれがある種のチンパンジーの集団内部における断片的且つ結果的に外見上倫理性を伴った行動のように見えたとしても、それは凶悪なゲリラや過激派の集団内部の断片的倫理性の抽出と同じものに過ぎず。先天的行動習性による行動バイアスが常に人間性を伴った合理的倫理性の証明には一切ならないのです。
イヌが自分より「上」と見なした相手に対して異常興奮することからも、服従はアヘンのような麻薬性を持っていることがわかります。
ヒトの脳の左側頭葉の一部に磁気刺激を与えると、「神を感じる」という研究結果がありますが。「神を感じて」いる状態とは、ありていに言って快楽と直結しているから「神」だと思うのでしょう。 気分的に安心で満足感が得られるからこそ「神」なのであって、「神」とは大脳辺縁系が快楽であると感じる幻想なのです。
しかし、ヒトは自分の「感じて」いる快楽を、短絡的に意識の全てだと錯覚する習性があり。論理検証をすっ飛ばして感覚こそが「正しい」と思い込むよう、ヒトの脳は出来上がっているのです。これを指してマルクスは「宗教はアヘンである。」と形容したのでしょうが、麻薬性を持っているのは実際には宗教に限ったものではなく、社会主義でも民族主義でも生ずる「服従への快楽」自体が普遍的に麻薬性を持っているのです。
おそらく有神論者がこの文章を読めば、気分的に不安に陥り、場合によっては精神的恐慌をきたしてパニックに陥り、反って思考停止に陥り拒絶反応しか示さないかも知れませんが。こうした感情的思考停止は振り込め詐欺師が相手の論理検証性を阻害する手口に応用可能なヒトの脳の先天的性質の「結果」なのです。
「有神論」に対して「無神論」というと、有神論者達の多くは「神がいなければ、何をしても許される。」という有神論者特有の無神論を短絡的に想起するようですが。これは「許す対象」としての神の存在を前提とした話であって、仏教徒には適用出来ない中東由来の一神教信者固有の観念だということは認識しておいて頂きたい。
神を持っていなくても、人間としての正しい行いが選択不可能なわけではありませんし。逆に神さえ持っていれば人間として必ずし正しい行いが選択できるというものでもないことは明らかです。
動物としての順位欲とは、「子」が「親」に対して抱く安心満足感(快楽)が、続柄を超えて集団内部の別個体へと転移することで生じます。
多少なりとも論理検証性が働いていれば、野犬のように暴力的権力者に媚びへつらうことを嫌い。より人間性を持った存在へと服従対象を「選択」することも可能でしょう。利己的欲望に取り憑かれ、暴力によって恐怖で民衆を服従させるような相手への服従を嫌い。より人間性を持った相手へと服従対象を転移させたいという願望の究極が神であると言えるでしょう。
しかし、こうした「選択」が働かなければ過激派であろうとテロリストであろうとヤクザであろうと、むしろ暴力的支配力を持った相手に「カッコイイ」という感覚を抱き、気分的安心満足感を短絡的に得られるため。ヒトは比較的簡単に暴力的集団組織に服従するようにもなるのです。「カッコイイ」というのは子が親に対して抱きたい幻想であって、ヒトという種の生物に先天的に組み込まれた行動バイアス(無意識/情動)でもあります。
神というのは親の究極ですから、いわば哺乳類としての「甘え」の対象でもあります。
自分自身で自律的に検証し、合理性を持った統合的「目的」意識としての選択をせずに、何でもかんでも責任を親(神や社会制度)に丸投げしてしまえば行動が無責任になるのは必然的結果です。
「甘え」というと「精神論的なものである」と多くのヒトは錯覚しがちですが。本当の「甘え」というのは自分の感情に左右されずに冷静に論理検証するという本質的「意識」が機能していない状態を指すのであって。むしろ精神論的に漫然と規律ばかりを押し付けることこそが本当の「甘え」だと言えるのです。
漫然と努力辛抱根性さえ出しておけば人間性が養われるという短絡的で合理性も統計的根拠もない観念に頼ることこそが、論理検証性を放棄した本当の意味での社会的「甘え」であって。戸塚ヨットスクールや軍隊のようなスパルタ教育というのは、戦争やテロのようなバカげたことをさせるためには有効であっても、自律的に社会を築くリーダーシップを発揮する人間には育たないのです。
オウム真理教幹部達が命懸けで地下鉄に毒ガスを撒いたのは、その命懸けという主観的「一大事」だけを頼りに論理検証性を放棄した結果であり。こうした盲目性に由来する洗脳というのは、一般大衆が漫然と抱く「甘え」への観念が作り出したものでもあるのです。
「甘え」についてこうした説明を行うと、むしろ短絡的に「子供を甘やかしてはいけない。」などというバカげた大衆観念に簡単に陥る傾向があるようですが。こうした短絡性そのものが社会的には「甘え」であって、子供に自律的論理検証性を持たせるためには、むしろ安心して自分で選択できる余裕を持たせることが重要であって。親が何も考えず、何も検証せず、ただ漫然と規律への服従だけを押し付けていれば子供も自律的には何も考えないように育つのは必然なのです。
大衆観念上では、規律に従わせて精神論的に厳しくシツケておくことだと短絡的に「思う」ようですが。その短絡さこそが社会的には無責任な「甘え」であって、こうした思考停止性というのは世代間で連鎖しているものであって、「自分はそういう育て方しかされてこなかった。」などと称して次世代にまで思考停止を連鎖するのは社会的に極めて無責任な行動であり、その無責任な思考停止をもってして社会的「甘え」だと言えるのです。
個人が自律的に社会的責任判断をするためには、規律などと称して頭ごなしに命令に服従させていたのではダメで。これでは規律を押し付けた「上」の者に責任の全てを丸投げして自分では何も考えないバカが育つだけであり。「言われたことを達成すれば誉められるからやる。」とか、「悪いことをすると罰が与えられるから、やらない。」という気分に直結した行動選択しかしなくなります。
このように気分が行動動機に直結していると、自分自身で善悪の判断を行わないようになり、目先の気分で「怖ければやらない。」し、「安心ならやる。」といった極めて動物的な行動選択しかしなくなってしまうのです。
この状態こそが「自律がない。」状態であり、どんなに外見的に取り繕っていても責任意識が働くことはないのです。
理化学研究所における業績の捏造も、研究者自身の本質的主体性の欠如こそが最も根源的原因であって。形式的に倫理を教え込んで改善や再発防止になるようなものではありません。
あらゆる「人災」というのは、当事者の無責任が招くものであって。論理的に予測不可能なアクシデントであれば、これは「人災」ではないからです。
「当事者」というと、あたかも事故や犯罪を犯した司法裁判上での当事者だけを指しているように思うかも知れませんが。JR福知山線脱線事故においては運転士に過剰なノルマを与えて精神的余裕を喪失させるような勤務を押し付けたJR幹部にも問題があるように。個人の責任判断のみならず、組織全体で安全性を確保するための対策が必要不可欠であり。むしろそのために「責任者」としての上司が存在するのであって。問題が起きてから記者会見で頭を下げて辞任すれば責任逃れが出来るような制度は全く責任者としての社会的意味を成していない。
「イスラム国」過激派の連中には、社会全体の持続可能性や安全性への配慮はありません。これはイスラム過激派に限ったことなどではなく、オウム真理教でも、秋葉原の通り魔でも、暴力団でも共産主義ゲリラでも、ナチスでもポルポトでも、福島第一原発を暴走させた東京電力にも言える、あらゆるヒトの暴走性に共通している無責任性です。
何度も言うようですが、こうした無責任というのは、自律的な論理検証をせず、何でも他人に責任をなすりつけるという「甘え」がもたらすものであり。ヒトという種の生物に先天的に具わった行動習性に由来するものなのです。
社会的無責任というのは、当事者の自律的な論理検証性の欠如によってもたらされるものであり。その原因とは気分と行動が直結しているという短絡性に由来するものなのです。
ところが厄介なことに気分感情が行動に直結している者にとっては、「合理性=利己的金儲け」といった、これまた短絡的観念を持ち出して論理検証を忌み嫌うばかりで。あたかも気分感情さえ良くなっていれば人間性の全てだという身勝手な妄想によって満足しようとしがちです。
ヒトという種の生物は神の産物などではないので、ヒトの脳が促す行動バイアスが常に正しい結果を招くと思うのは大きな間違いです。
宗教やイデオロギーであればまだしも、なにより進化生物学という科学に属する研究者達が、生物の先天的行動習性という「結果」から倫理性や目的意識を立証しようとするのは科学を逸脱したオカルトとしか言えません。そうしたオカルトで満足する大衆やマスコミもまた無責任であり、その無責任さがあらゆる「人災」の根源的原因であるという自覚や認識が必要なのです。
「人災」というのはどこでも起こり得る可能性があります。なにせ根本原因がヒトという種の生物の先天的行動習性に由来するものですから、基本的に全ての人が自己内部の「ヒトという種の生物」に由来する危険性を認識する必要性があり、「だって進化生物学者が間違えているから仕方ない。」で済まされる話ではないのです。
どのような暴力的で無責任な集団組織であっても、その内部にはそれなりの倫理性や統率性が存在することは珍しいことではありません。多少なりとも倫理性がなければ集団組織として統率的行動は採ることが出来ませんから。
そうした断片的な倫理や統率性をどんなにたくさん抽出枚挙しても、生物種としての先天的行動習性から倫理性を立証することは構造原理的に不可能であり。進化生物学者達による業績の捏造を鵜呑みにすることというのは、社会的に極めて無責任なことであるという自覚が必要です。
自分の義務を果たさずに権利だけ主張することは子供じみた身勝手な傲慢でしかないからです。
Ende;
ヒトが宗教を選ぶ理由とは何か。それは、教義を守り神に服従することで、あたかも自分が正しい存在になったような錯覚を与えるからです。
気分が良くなるから宗教を信じたがるのであって、宗教戒律を守ることであたかも絶対的存在である神の教えを守る潔癖な存在であるという錯覚が欲しくてヒトは戒律を守るのであり、社会の安定や平和につながる合理的根拠が必ずしも必要なわけではないのです。
ヒトという種の生物は、他者との比較をして自分が他人よりも「上」か「下」かといった「順位づけ」をする習性があります。こうした習性はイヌやハダカデバネズミなどの動物に顕著に見られる性質で、自分より順位が「上」と見なした相手に服従することで気分的に安心や満足が得られる習性を持った個体へと淘汰が働いた結果、服従が快楽(脳への報酬)となるよう自然淘汰によって脳の古い領域に組み込まれた「結果」なのです。
進化生物学上ではこれを「社会性」と形容していますが、これは結果的に役割分担による機能性を指して形容しているだけであって、こうした「社会性」であれば野良犬の集団でも振り込め詐欺師でも行う先天的習性という「結果」でこそあれ。意識的に選択した「目的」としての(持続可能性や安全性を考慮に入れた)人間としての社会性とは全く別の「社会形成習性」に過ぎないのです。たとえそれがある種のチンパンジーの集団内部における断片的且つ結果的に外見上倫理性を伴った行動のように見えたとしても、それは凶悪なゲリラや過激派の集団内部の断片的倫理性の抽出と同じものに過ぎず。先天的行動習性による行動バイアスが常に人間性を伴った合理的倫理性の証明には一切ならないのです。
イヌが自分より「上」と見なした相手に対して異常興奮することからも、服従はアヘンのような麻薬性を持っていることがわかります。
ヒトの脳の左側頭葉の一部に磁気刺激を与えると、「神を感じる」という研究結果がありますが。「神を感じて」いる状態とは、ありていに言って快楽と直結しているから「神」だと思うのでしょう。 気分的に安心で満足感が得られるからこそ「神」なのであって、「神」とは大脳辺縁系が快楽であると感じる幻想なのです。
しかし、ヒトは自分の「感じて」いる快楽を、短絡的に意識の全てだと錯覚する習性があり。論理検証をすっ飛ばして感覚こそが「正しい」と思い込むよう、ヒトの脳は出来上がっているのです。これを指してマルクスは「宗教はアヘンである。」と形容したのでしょうが、麻薬性を持っているのは実際には宗教に限ったものではなく、社会主義でも民族主義でも生ずる「服従への快楽」自体が普遍的に麻薬性を持っているのです。
おそらく有神論者がこの文章を読めば、気分的に不安に陥り、場合によっては精神的恐慌をきたしてパニックに陥り、反って思考停止に陥り拒絶反応しか示さないかも知れませんが。こうした感情的思考停止は振り込め詐欺師が相手の論理検証性を阻害する手口に応用可能なヒトの脳の先天的性質の「結果」なのです。
「有神論」に対して「無神論」というと、有神論者達の多くは「神がいなければ、何をしても許される。」という有神論者特有の無神論を短絡的に想起するようですが。これは「許す対象」としての神の存在を前提とした話であって、仏教徒には適用出来ない中東由来の一神教信者固有の観念だということは認識しておいて頂きたい。
神を持っていなくても、人間としての正しい行いが選択不可能なわけではありませんし。逆に神さえ持っていれば人間として必ずし正しい行いが選択できるというものでもないことは明らかです。
動物としての順位欲とは、「子」が「親」に対して抱く安心満足感(快楽)が、続柄を超えて集団内部の別個体へと転移することで生じます。
多少なりとも論理検証性が働いていれば、野犬のように暴力的権力者に媚びへつらうことを嫌い。より人間性を持った存在へと服従対象を「選択」することも可能でしょう。利己的欲望に取り憑かれ、暴力によって恐怖で民衆を服従させるような相手への服従を嫌い。より人間性を持った相手へと服従対象を転移させたいという願望の究極が神であると言えるでしょう。
しかし、こうした「選択」が働かなければ過激派であろうとテロリストであろうとヤクザであろうと、むしろ暴力的支配力を持った相手に「カッコイイ」という感覚を抱き、気分的安心満足感を短絡的に得られるため。ヒトは比較的簡単に暴力的集団組織に服従するようにもなるのです。「カッコイイ」というのは子が親に対して抱きたい幻想であって、ヒトという種の生物に先天的に組み込まれた行動バイアス(無意識/情動)でもあります。
神というのは親の究極ですから、いわば哺乳類としての「甘え」の対象でもあります。
自分自身で自律的に検証し、合理性を持った統合的「目的」意識としての選択をせずに、何でもかんでも責任を親(神や社会制度)に丸投げしてしまえば行動が無責任になるのは必然的結果です。
「甘え」というと「精神論的なものである」と多くのヒトは錯覚しがちですが。本当の「甘え」というのは自分の感情に左右されずに冷静に論理検証するという本質的「意識」が機能していない状態を指すのであって。むしろ精神論的に漫然と規律ばかりを押し付けることこそが本当の「甘え」だと言えるのです。
漫然と努力辛抱根性さえ出しておけば人間性が養われるという短絡的で合理性も統計的根拠もない観念に頼ることこそが、論理検証性を放棄した本当の意味での社会的「甘え」であって。戸塚ヨットスクールや軍隊のようなスパルタ教育というのは、戦争やテロのようなバカげたことをさせるためには有効であっても、自律的に社会を築くリーダーシップを発揮する人間には育たないのです。
オウム真理教幹部達が命懸けで地下鉄に毒ガスを撒いたのは、その命懸けという主観的「一大事」だけを頼りに論理検証性を放棄した結果であり。こうした盲目性に由来する洗脳というのは、一般大衆が漫然と抱く「甘え」への観念が作り出したものでもあるのです。
「甘え」についてこうした説明を行うと、むしろ短絡的に「子供を甘やかしてはいけない。」などというバカげた大衆観念に簡単に陥る傾向があるようですが。こうした短絡性そのものが社会的には「甘え」であって、子供に自律的論理検証性を持たせるためには、むしろ安心して自分で選択できる余裕を持たせることが重要であって。親が何も考えず、何も検証せず、ただ漫然と規律への服従だけを押し付けていれば子供も自律的には何も考えないように育つのは必然なのです。
大衆観念上では、規律に従わせて精神論的に厳しくシツケておくことだと短絡的に「思う」ようですが。その短絡さこそが社会的には無責任な「甘え」であって、こうした思考停止性というのは世代間で連鎖しているものであって、「自分はそういう育て方しかされてこなかった。」などと称して次世代にまで思考停止を連鎖するのは社会的に極めて無責任な行動であり、その無責任な思考停止をもってして社会的「甘え」だと言えるのです。
個人が自律的に社会的責任判断をするためには、規律などと称して頭ごなしに命令に服従させていたのではダメで。これでは規律を押し付けた「上」の者に責任の全てを丸投げして自分では何も考えないバカが育つだけであり。「言われたことを達成すれば誉められるからやる。」とか、「悪いことをすると罰が与えられるから、やらない。」という気分に直結した行動選択しかしなくなります。
このように気分が行動動機に直結していると、自分自身で善悪の判断を行わないようになり、目先の気分で「怖ければやらない。」し、「安心ならやる。」といった極めて動物的な行動選択しかしなくなってしまうのです。
この状態こそが「自律がない。」状態であり、どんなに外見的に取り繕っていても責任意識が働くことはないのです。
理化学研究所における業績の捏造も、研究者自身の本質的主体性の欠如こそが最も根源的原因であって。形式的に倫理を教え込んで改善や再発防止になるようなものではありません。
あらゆる「人災」というのは、当事者の無責任が招くものであって。論理的に予測不可能なアクシデントであれば、これは「人災」ではないからです。
「当事者」というと、あたかも事故や犯罪を犯した司法裁判上での当事者だけを指しているように思うかも知れませんが。JR福知山線脱線事故においては運転士に過剰なノルマを与えて精神的余裕を喪失させるような勤務を押し付けたJR幹部にも問題があるように。個人の責任判断のみならず、組織全体で安全性を確保するための対策が必要不可欠であり。むしろそのために「責任者」としての上司が存在するのであって。問題が起きてから記者会見で頭を下げて辞任すれば責任逃れが出来るような制度は全く責任者としての社会的意味を成していない。
「イスラム国」過激派の連中には、社会全体の持続可能性や安全性への配慮はありません。これはイスラム過激派に限ったことなどではなく、オウム真理教でも、秋葉原の通り魔でも、暴力団でも共産主義ゲリラでも、ナチスでもポルポトでも、福島第一原発を暴走させた東京電力にも言える、あらゆるヒトの暴走性に共通している無責任性です。
何度も言うようですが、こうした無責任というのは、自律的な論理検証をせず、何でも他人に責任をなすりつけるという「甘え」がもたらすものであり。ヒトという種の生物に先天的に具わった行動習性に由来するものなのです。
社会的無責任というのは、当事者の自律的な論理検証性の欠如によってもたらされるものであり。その原因とは気分と行動が直結しているという短絡性に由来するものなのです。
ところが厄介なことに気分感情が行動に直結している者にとっては、「合理性=利己的金儲け」といった、これまた短絡的観念を持ち出して論理検証を忌み嫌うばかりで。あたかも気分感情さえ良くなっていれば人間性の全てだという身勝手な妄想によって満足しようとしがちです。
ヒトという種の生物は神の産物などではないので、ヒトの脳が促す行動バイアスが常に正しい結果を招くと思うのは大きな間違いです。
宗教やイデオロギーであればまだしも、なにより進化生物学という科学に属する研究者達が、生物の先天的行動習性という「結果」から倫理性や目的意識を立証しようとするのは科学を逸脱したオカルトとしか言えません。そうしたオカルトで満足する大衆やマスコミもまた無責任であり、その無責任さがあらゆる「人災」の根源的原因であるという自覚や認識が必要なのです。
「人災」というのはどこでも起こり得る可能性があります。なにせ根本原因がヒトという種の生物の先天的行動習性に由来するものですから、基本的に全ての人が自己内部の「ヒトという種の生物」に由来する危険性を認識する必要性があり、「だって進化生物学者が間違えているから仕方ない。」で済まされる話ではないのです。
どのような暴力的で無責任な集団組織であっても、その内部にはそれなりの倫理性や統率性が存在することは珍しいことではありません。多少なりとも倫理性がなければ集団組織として統率的行動は採ることが出来ませんから。
そうした断片的な倫理や統率性をどんなにたくさん抽出枚挙しても、生物種としての先天的行動習性から倫理性を立証することは構造原理的に不可能であり。進化生物学者達による業績の捏造を鵜呑みにすることというのは、社会的に極めて無責任なことであるという自覚が必要です。
自分の義務を果たさずに権利だけ主張することは子供じみた身勝手な傲慢でしかないからです。
Ende;