イヌの脳には平等という概念はありません。
イヌというのは先天的本能として順位を決定することで統率的な集団行動を採るよう出来ているので、自分以外の相手が自分よりも上か下かのどちらかを決定しておかないと不安で仕方ない習性があり。育て方や訓練方法を間違えると飼い主の手を噛んだり、無駄吠えを繰り返したりして手に負えなくなる場合があります。
イヌにとっては服従はアヘンなので、服従対象に対して従順に服従することに快楽を感じ、訓練の仕方次第では大変従順で扱い易いようにすることも可能です。
しかし、この習性があるため故に、訓練方法を間違えてしまうと飼い主やヒトを服従対象として認識出来なくなるために、狂暴で手に負えない性格になってしまうこともあるのです。
これは、イヌは服従することが安心であると同時に、服従対象の喪失に対して異常に恐怖や不安を感じてしまう性質があるためです。
そのため、イヌの脳には平等という概念が全くといって良い程存在しないのです。
「敵か味方か。」とか、「服従対象かそうでないか。」といった短絡的で合理的根拠のない差別をしておかないと不安で仕方ないために、イヌは極めて差別主義的行動を採る習性があります。
こうした差別主義的行動というのは、イヌに限ったことではなく。鳥類であるカラスやヒトにおいても程度の差こそあれ、先天的な社会形成習性が存在するため、イジメなどの差別排除行動を採ることは珍しいことではありません。
ヘイトスピーチやホロコーストなど、ヒトが時折引き起こす差別排除行動というものの源には、こうした先天的な社会形成習性が働いており。差別対象に対して短絡的に暴力を振るうことであたかも全てが解決したかのような錯覚に陥る性質があります。
司法刑罰というものも、実際には「犯罪者か、そうでないか。」といった短絡的区別に基づき、犯罪者に罰という暴力を与えておけば全てが解決したものであるという錯覚(実証不能の観念)に基づいた、非合理的な社会制度に過ぎません。
再犯率が40%を超える懲役罰というものには、犯罪というものの再発防止に対する合理的根拠が全く存在せず。なぜ犯罪者が自律的に社会的責任を負うことをしないのかという、最も根源的原因には全く言及せず。単に先例に基づいて科料の程度を推し量っているだけの、極めて機械手続き的なお役所仕事でしかありません。
つまり、司法刑罰というのは罰の妥当性を吟味しているだけであって。犯罪の論理的原因究明にもならなければ再発防止にも全くならず。振り込め詐欺師が数年で出所した後、詐欺経験を買われて再び詐欺師集団を統括するといったことや。強盗殺人で25年服役して出所後数週間で再び殺人を犯すといったことも珍しくはないのです。
妥当性を吟味しているだけである以上、司法刑罰というものには論理的正当性が最初から存在しません。(←ここ重要。)
国家権力による刑罰という暴力を用いて、恐怖心によって抑圧することを抑止力だと錯覚することは簡単ですが。それこそが大衆観念的な実証不能の観念に過ぎず、合理性ある犯罪や事故の再発防止に対する取り組みを阻害していることを、多くの人はほとんど認識していないのです。
失敗学の権威である畑村洋太郎氏が述べているように、「事故の原因究明と再発防止を最優先にすべきであって。刑法懲罰というのはその後で勝手にやってくれ。」という、優先順位の低い大衆迎合、若しくは単なる因習に過ぎないのです。
畑村氏は事故調査が専門ですから、犯罪についてまでは言及していませんが。実際には意図していない過失であろうと、意図的犯罪であろうと、ヒトが引き起こす「人災」であることに変わりはなく。あらゆるアクシデントや、アクシデントに至らないインシデントの段階においてからでも、再発防止のための原因究明こそを優先することこそが、社会的には最も重要度が高いものであることを認識する必要性があるのです。
犯罪者を忌み嫌うことは個人の勝手ですが、個人の主観的好き嫌いを根拠に社会安全性を蔑ろにして良い理由にはならないのです。
その個人的好き嫌いが、どんなに多数決であるとしてもです。
本当に犯罪被害に遭われた方や遺族の方の中には、再発防止こそを最も優先して欲しいと願うかたは少なくありません。それは、むしろ当事者であるが故に、真摯に犯罪というものと向き合っているからこその結論であり。目先の感情論で厳罰化などの程度問題で抑止を試みようとするのは、むしろ当事者意識の欠落した無責任な他人事扱いに他なりません。
ヒトの多くは、目先の感情を短絡的に自由意思だと思い込んでいますが。理性を伴わずに非合理的結論によって何度も同じ過ちを繰り返すことというのは、むしろ無意識で無責任な行為なのです。
犯罪者を悪者扱いしておけば、あたかも自分の正当性が立証されたかのように錯覚することは簡単です。それは先天的な順位欲が促す錯覚であり、単なる差別排除による気分的な安心満足に過ぎません。
かつてナチスドイツがユダヤ人を虐殺したのも、彼らにとってはそれが懲罰の一種であるとみなし、非科学的なフランシス:ゴルトンの優生学を根拠に、安心して野蛮行為を行っていました。それと同じで、現代人の多くは刑法懲罰という国家暴力を用いた抑止力こそが、最も犯罪の再発防止に有効であると思い込み、ヒステリック(心理拘束的)に刑罰という因習に依存し続けているに過ぎないのです。
死刑罰の数とユダヤ人虐殺の数を比較しただけでは、死刑という残虐行為や懲役罰という非人道的行為の論理的正当性が立証できるわけではないのです。
同じ「ヒト」である以上、程度の差こそあれ犯罪や過失の可能性は誰にでもあるものです。それを短絡的に犯罪者かどうかという司法制度上の分類だけを根拠に差別しておけば犯罪や事故がなくなるとか減るというものではないのです。
刑法懲罰という暴力的抑止力に依存するのは、考え方が「怖いからやらない。」という子供じみた自律のない観念から生ずるものであって。これは同時に「怖くないからやる。」という短絡的でバカげた犯罪の温床でもあるのです。
ならば重要なのは個人が自律的に社会的責任を負うという人間性の確立であって、人間性が育たない原因を究明せずに刑法という因習に則って厳罰化ばかりを追求するというのは愚の骨頂という他ありません。
ISILが行っている野蛮行為も、彼らにとっては世界に対する懲罰に他なりません。「懲罰=解決」という短絡的で無思考な因習を見直さない限り、ヒトの暴力性の原因究明にも、当然再発防止対策にも辿り着かないのは必然なのです。
Ende;
イヌというのは先天的本能として順位を決定することで統率的な集団行動を採るよう出来ているので、自分以外の相手が自分よりも上か下かのどちらかを決定しておかないと不安で仕方ない習性があり。育て方や訓練方法を間違えると飼い主の手を噛んだり、無駄吠えを繰り返したりして手に負えなくなる場合があります。
イヌにとっては服従はアヘンなので、服従対象に対して従順に服従することに快楽を感じ、訓練の仕方次第では大変従順で扱い易いようにすることも可能です。
しかし、この習性があるため故に、訓練方法を間違えてしまうと飼い主やヒトを服従対象として認識出来なくなるために、狂暴で手に負えない性格になってしまうこともあるのです。
これは、イヌは服従することが安心であると同時に、服従対象の喪失に対して異常に恐怖や不安を感じてしまう性質があるためです。
そのため、イヌの脳には平等という概念が全くといって良い程存在しないのです。
「敵か味方か。」とか、「服従対象かそうでないか。」といった短絡的で合理的根拠のない差別をしておかないと不安で仕方ないために、イヌは極めて差別主義的行動を採る習性があります。
こうした差別主義的行動というのは、イヌに限ったことではなく。鳥類であるカラスやヒトにおいても程度の差こそあれ、先天的な社会形成習性が存在するため、イジメなどの差別排除行動を採ることは珍しいことではありません。
ヘイトスピーチやホロコーストなど、ヒトが時折引き起こす差別排除行動というものの源には、こうした先天的な社会形成習性が働いており。差別対象に対して短絡的に暴力を振るうことであたかも全てが解決したかのような錯覚に陥る性質があります。
司法刑罰というものも、実際には「犯罪者か、そうでないか。」といった短絡的区別に基づき、犯罪者に罰という暴力を与えておけば全てが解決したものであるという錯覚(実証不能の観念)に基づいた、非合理的な社会制度に過ぎません。
再犯率が40%を超える懲役罰というものには、犯罪というものの再発防止に対する合理的根拠が全く存在せず。なぜ犯罪者が自律的に社会的責任を負うことをしないのかという、最も根源的原因には全く言及せず。単に先例に基づいて科料の程度を推し量っているだけの、極めて機械手続き的なお役所仕事でしかありません。
つまり、司法刑罰というのは罰の妥当性を吟味しているだけであって。犯罪の論理的原因究明にもならなければ再発防止にも全くならず。振り込め詐欺師が数年で出所した後、詐欺経験を買われて再び詐欺師集団を統括するといったことや。強盗殺人で25年服役して出所後数週間で再び殺人を犯すといったことも珍しくはないのです。
妥当性を吟味しているだけである以上、司法刑罰というものには論理的正当性が最初から存在しません。(←ここ重要。)
国家権力による刑罰という暴力を用いて、恐怖心によって抑圧することを抑止力だと錯覚することは簡単ですが。それこそが大衆観念的な実証不能の観念に過ぎず、合理性ある犯罪や事故の再発防止に対する取り組みを阻害していることを、多くの人はほとんど認識していないのです。
失敗学の権威である畑村洋太郎氏が述べているように、「事故の原因究明と再発防止を最優先にすべきであって。刑法懲罰というのはその後で勝手にやってくれ。」という、優先順位の低い大衆迎合、若しくは単なる因習に過ぎないのです。
畑村氏は事故調査が専門ですから、犯罪についてまでは言及していませんが。実際には意図していない過失であろうと、意図的犯罪であろうと、ヒトが引き起こす「人災」であることに変わりはなく。あらゆるアクシデントや、アクシデントに至らないインシデントの段階においてからでも、再発防止のための原因究明こそを優先することこそが、社会的には最も重要度が高いものであることを認識する必要性があるのです。
犯罪者を忌み嫌うことは個人の勝手ですが、個人の主観的好き嫌いを根拠に社会安全性を蔑ろにして良い理由にはならないのです。
その個人的好き嫌いが、どんなに多数決であるとしてもです。
本当に犯罪被害に遭われた方や遺族の方の中には、再発防止こそを最も優先して欲しいと願うかたは少なくありません。それは、むしろ当事者であるが故に、真摯に犯罪というものと向き合っているからこその結論であり。目先の感情論で厳罰化などの程度問題で抑止を試みようとするのは、むしろ当事者意識の欠落した無責任な他人事扱いに他なりません。
ヒトの多くは、目先の感情を短絡的に自由意思だと思い込んでいますが。理性を伴わずに非合理的結論によって何度も同じ過ちを繰り返すことというのは、むしろ無意識で無責任な行為なのです。
犯罪者を悪者扱いしておけば、あたかも自分の正当性が立証されたかのように錯覚することは簡単です。それは先天的な順位欲が促す錯覚であり、単なる差別排除による気分的な安心満足に過ぎません。
かつてナチスドイツがユダヤ人を虐殺したのも、彼らにとってはそれが懲罰の一種であるとみなし、非科学的なフランシス:ゴルトンの優生学を根拠に、安心して野蛮行為を行っていました。それと同じで、現代人の多くは刑法懲罰という国家暴力を用いた抑止力こそが、最も犯罪の再発防止に有効であると思い込み、ヒステリック(心理拘束的)に刑罰という因習に依存し続けているに過ぎないのです。
死刑罰の数とユダヤ人虐殺の数を比較しただけでは、死刑という残虐行為や懲役罰という非人道的行為の論理的正当性が立証できるわけではないのです。
同じ「ヒト」である以上、程度の差こそあれ犯罪や過失の可能性は誰にでもあるものです。それを短絡的に犯罪者かどうかという司法制度上の分類だけを根拠に差別しておけば犯罪や事故がなくなるとか減るというものではないのです。
刑法懲罰という暴力的抑止力に依存するのは、考え方が「怖いからやらない。」という子供じみた自律のない観念から生ずるものであって。これは同時に「怖くないからやる。」という短絡的でバカげた犯罪の温床でもあるのです。
ならば重要なのは個人が自律的に社会的責任を負うという人間性の確立であって、人間性が育たない原因を究明せずに刑法という因習に則って厳罰化ばかりを追求するというのは愚の骨頂という他ありません。
ISILが行っている野蛮行為も、彼らにとっては世界に対する懲罰に他なりません。「懲罰=解決」という短絡的で無思考な因習を見直さない限り、ヒトの暴力性の原因究明にも、当然再発防止対策にも辿り着かないのは必然なのです。
Ende;