書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○その場における対処。

2016年03月15日 15時58分17秒 | 意識論関連
貧富格差なんていうのは「アメリカンドリーム」などという少数が富を独占するようなことを大多数が望んでいるから起きることであって、移民を排除すれば解決するようなものではないのだが。大多数の愚民は構造的問題を無視し金持ちを崇拝し、自分よりも労働力の安い貧乏人を差別排除しておくことで、その場限りの安心満足に溺れているからドナルド:トランプみたいなのに人気が集まったりするのだろう。

要するにただの拝金主義じゃねぇか。

「強いアメリカ」などという、自国の「強さ」だけを求めるということは、いわば「自分が所属する集団組織の利益を優先し、国際社会の安全性を蔑ろにする。」ということであって。これってどっかで聞いたことないですか?。

政府の福島第一原発事故調査委員会の報告書に、こんな一文がありました。「組織の利益を優先し、自律的な社会的責任を誰も負わなかったことが根源的原因である。」と。(意訳だが。)

アメリカに限らず、ロシアでも中国でもイランでもどこの国でも同じことなんだけど。一国だけが「強く」なっても国際社会の不安定を招いてしまっては誰もが損をするということを、アメリカの共和党員の大多数もまた意識の上にはないのであろう。



その場限りの気分感情の強度程度というものが意識の本質などではなく。目先の大多数の流行に流されることなく自律的に判断するための論理検証性こそが、個人が個人であることの意味であり、人間性であり、意識の本質でもある。

ヒトという種の生物は、目先の多数派に迎合することで安心満足する習性があり。こうした行動思考バイアスが個人の自律的論理検証性を簡単に失わせてしまうのである。

これはいわばヒトという種の先天的構造欠陥であり、川崎の中学一年生殺害事件のような事件の原因でもあるのだ。

川崎の事件でもまた司法は懲役刑で「解決」だと見なしているが。実際に事件を引き起こした当事者だけを処罰しても、ヒトという種の生物が持つ習性に由来する行動バイアスに流されないための対策、再発防止策には一切つながらない。

むしろ、刑罰で「解決」だと見なしてしまうが故に、それ以上の一切の原因究明がなされなくなってしまうのである。

バス事故が起きたからといって、元請け旅行会社の営業停止「処分」をしても、警察官による不祥事に対して停職何ヶ月といった「処分」をしても、再発防止策にとって何の意味も持たないことを、大多数の民衆は認識していない。

役所はこう発表する、「厳正に処分しました。」と。その「厳正」さに論理的根拠が全くないのである。



ヒトの多くは問題に対する論理的で合理性のある解決策を自律的に検証することをせずに、目先の大多数や、大多数が認証する権威に迎合服従することでその場限りの安心満足を得、これによって思考停止に陥るのである。

思考が停止しているんだから、もはや「バカ」としか形容出来ないのだが。振り込め詐欺に騙される痴呆老人よろしく「自分だけは絶対に大丈夫」的な過信に溺れ、大多数がバカならバカが正当化出来るかのような錯覚妄想に基づいて自律を簡単に放棄する。

先天的で構造的欠陥であるならば、バグにはパッチを充てることが必要なのだが、CPUのバグをOSレベルで修正するためには、ヒトの場合は義務教育レベルから教える必要がある。

人間性や倫理といった、人間としての基本的素養というものを、わけのわからぬ道徳授業などでお茶を濁しているから学生が大人の見ていないところで暴走し、殺人事件という破綻にまで陥ってしまうのである。

ヒトという種の生物には、先天的欠陥があり。暴力的威圧に屈することを正当化する形で暴力者集団に迎合し、それを正義だと勝手に妄想でっちあげをすることで、暴力性の暴走に結果的に陥ってしまうのである。

現在の社会というものは、決して絶対的で正しいものではない。何らかの間違いがあるのは確かであるが、これを個人が自律的に論理検証し、合理性のある解決策を考え、選択することによって、地道に修正することが重要なのであり。「世の中が悪い」の一言で無関係な相手に暴力的になっても何の解決にもならない。

刑法懲罰や行政処分といった、国家権力を用いた「解決」というのは。再発防止につながるような合理的解決策には全くならないばかりか、むしろ合理的な原因究明から遠ざける愚かな因習に過ぎない。

刑法懲罰を決めても、犯罪に至るまでの原因というものを丹念に検証し、なぜ未成年が殺人を犯さなかればならなくなったのか、その構造を分析しなければ本当の再発防止には一切ならない。

何度も言うが、ハイリッヒの法則に基づけば「一つの重大事象の陰には、多数の事象が隠れている。」のであり。実際に重大事象にまで発展した事例だけ取り上げ、合理的根拠のない刑法懲罰だけ決定しても、多数の「犯罪者予備軍」の存在や、集団暴力の構造分析を無視しており。こうした行政手続き的な手抜きを傍観放置しているからこそ、何度も同じような事件が繰り返すことになるのである。



北朝鮮政府による軍事的威圧を見ていると、戦時中の日本のそれのアナロジーではないかと感じることがある。

戦艦大和の代わりにテポドンを崇拝し、軍事的威力を短絡的に国家の強さか何かとすり替え、政府という集団内部だけの利益追求のために民衆を利用している形が全くソックリなのである。

ヒトは環境に左右されがちである。

相手がキチガイで暴力的な対応しか採らないような状況であれば、どうしても暴力的報復でしか解決しないような錯覚に陥る習性がある。

例えば、薬物中毒で頭がイカれてパンツ一丁で血まみれの包丁持った男が街を徘徊していれば、これは警官が拳銃で威嚇して制圧しなければならないだろう。

だが、それは、「その現場における対処」でしかない。

何かおきる度に警官が拳銃で威圧しておけば何でも解決するという話ではないことは、余程のバカでもなければ理解可能なはずである。

ところが、司法制度上においては、こうした短絡的解決のための刑法懲罰のための手続きだけしか存在していないのである。

この頭の悪さをなぜ認識しない。

役所なんていうのは、所詮責任逃れのために自発的には自分達の問題を解決するつもりはない。だからこその民主主義によってバカげた因習で「解決」だと見なす法手続きを見直さなくてはならないはずなのだが、民衆がバカである以上バカ主義にしかなっていないのである。

説明すんのも面倒臭いわ。

腹減ったし。







Ende;
コメント
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