幼女性愛そのものに問題があるわけではなくて、行動選択に自律的論理検証性が伴わないことが問題の根源なので。この部分を間違えていると対策自体がトンチンカンなものになりかねず、反って社会安全性を損なうことになります。
まず、性的興奮というのは先天的生殖行動バイアスであって、これ自体が自由意志や意識ではありません。
何に、誰に性的興奮をするのかは、自分自身でも制御不可能な「結果」であって。これ自体には自己の本質的意識選択が介在する余地がなく。
性的少数派を差別しないキャンペーンみたいのは盛んに行われているようですが、幼女に性的興奮をするなんていうのはむしろ多数派に該当するのではないでしょうか。
少数派を認めようとする一方で、多数派を単なる主観的な「気持ち悪さ」だけで排除しようとするのは随分おかしな話です。
アグネス:チャンさんがロリコンを異常に嫌悪されるのも自由ですが、それは個人の主観的好き嫌いに過ぎず。社会制度的に排除したからといって問題そのものが解決するわけではありません。
幼女性愛を描いた漫画やイラスト作品というのはPixivなどイラストサイトでも大量に出てきますが、これらの作家さんや読者の大半は凶悪な殺人に至るわけではありません。
問題の根源は、性的欲求のままに行動して凶悪な犯罪に至るという短絡性が問題なのであって。それなら別に幼女に限ったことではなく、成人女性であろうと80過ぎの老婆であろうとダメなことに違いはありません。
それとも何でしょう、成人女性だったら殺して河川敷に遺棄しても構わないとでも言うんでしょうか。そういうことじゃありませんよね。
重要なのは、自己の欲望を制御することの出来る理性であり、欲望そのものを否定しても意味がありません。
欲望というのは先天的に脳に組み込まれた行動バイアスであり、これ自体は自己選択不可能なものであり意識の本質でもありません。
しかし文科系大衆観念というか、アプリオリには欲望や本能こそが意識の本質であるという錯覚が存在するため。この部分を間違えたままだと幼女に性的興奮すること自体が人格異常か何かだと勘違いしてしまいます。
別に幼女を見て性的に興奮してしまっても、それを抑えたり、他の事に意識を逸らしたりするなど、理性的な行動選択ができれば誰にも迷惑はかからないのであって。何に性的興奮をしてしまうのかという無意識性そのものは個人の人格性とは関係がありません。
それが、どんなに多数派から「気持ち悪い」と「感じ」られたとしてもです。
そもそも、そうした「感じ」自体が主観的好き嫌いに過ぎず、個人的な好き嫌いの範疇であるということにおいてロリコンと同じことであって、どんなに嫌ってもヘイトスピーチの類と何の違いもないその場限りの気分的安心満足感を求めているに過ぎず。
脳内でテストステロンを消費することでセロトニンの分泌が促され、その気分的安心感欲しさに非合理な感情的行動を漫然と繰り返すだけの「バカのスパイラル」に陥り。具体性を伴う論理的原因究明による効果的な再発防止対策には一切つながらない無責任な自己満足にしかなっていないのです。
しかし、ヒトの多くは自分の気分感情こそが意識の本質だと錯覚しているため、腹を立てて嫌いな誰かを糾弾差別さえしておけば安全保障か何かだと勘違いしており。こうした非合理な感情的行動を自律的に抑え、論理的な検証によって具体性のある安全対策を「考える」ことをしなくなるのです。
こうした非合理な行動選択というのは、核兵器開発や武力による威圧、挑発の原因でもあり。また、こうした感情的行動選択こそが大多数の大衆の脳にとって気分が良いため、ポピュリズムの台頭をも許してしまうのです。
話が逸れたかのように錯覚するかも知れませんが、ロリコン差別もポピュリズムの一端でしかないという点においては構造原理的には何の違いもないことなのです。
人間性というものは、先天的行動習性や成育環境によって刷り込み学習された無意識な行動によって成立するものではなく。あくまで自律的な社会的責任判断への意欲があってこそ成立可能性を持つものであり。
自律とは自発性や主体性から育まれるものであって、社会的に無責任な差別や暴力武力を用いた抑圧的解決策しか思い浮かばない頭の悪さというのも。また、自発性や主体性を大切にした育て方をされてこなかったが故に、認識力が固定され、無意識が促す感情的行動しか出来なくなっている状態なのです。
こうした自律放棄のスパイラル(連鎖)こそが、人類がバカげた行動を繰り返す最大の原因なのです。
他人の自律を信用出来ないのは、自己自身に自律がないからであり。故に刑法や武力威圧などの恐怖心を用いた抑圧ばかりを優先し、結果的に権威や多数派に迎合するばかりで自律的な社会的責任を負わないヒトが増えてしまうことで、社会の安全性の根幹が失われてしまうのです。
どんなに刑法を厳罰化させようとも、他国との軍拡競争をしようとも、これらは社会安全性を損なう原因にしかなりません。
現在の学校での道徳教育というのは、「悪いことをしてはいけません。」などと、ただ漫然と命令を下しているに過ぎず。何ら生徒の自発性や主体性を育む教育の重要性を認識していません。
人間性の本質というのは、他人から強制された行動に服従することではなく。あくまで自律的な社会的責任判断選択を行うための意欲によって育まれるものであり。「誰それを敬え」などといった合理的根拠のない他人からの強制で養われるものではないのです。
「イジメは悪い事です」と、どんなに言い聞かせても、それでイジメがなくなるわけではありません。
イジメというのは大人が見ていないところで行われることからも、イジメを行っている当人達にもそれが悪いことだという認識はあり。それでもなをかつイジメを行うというのは、イジメが楽しいとか安心だからであり、脳の快楽に抗うことの出来ない本質的な意志の弱さ故の行動でもあります。
自分の大脳辺縁系が促してくる行動バイアスに抗う自律なくして道徳もすったくれもあったものではありません。
こうした実効性のない道徳教育に意味があると思い込んでいることもまた、社会的に無責任な行動でもあるのです。
Ende;
まず、性的興奮というのは先天的生殖行動バイアスであって、これ自体が自由意志や意識ではありません。
何に、誰に性的興奮をするのかは、自分自身でも制御不可能な「結果」であって。これ自体には自己の本質的意識選択が介在する余地がなく。
性的少数派を差別しないキャンペーンみたいのは盛んに行われているようですが、幼女に性的興奮をするなんていうのはむしろ多数派に該当するのではないでしょうか。
少数派を認めようとする一方で、多数派を単なる主観的な「気持ち悪さ」だけで排除しようとするのは随分おかしな話です。
アグネス:チャンさんがロリコンを異常に嫌悪されるのも自由ですが、それは個人の主観的好き嫌いに過ぎず。社会制度的に排除したからといって問題そのものが解決するわけではありません。
幼女性愛を描いた漫画やイラスト作品というのはPixivなどイラストサイトでも大量に出てきますが、これらの作家さんや読者の大半は凶悪な殺人に至るわけではありません。
問題の根源は、性的欲求のままに行動して凶悪な犯罪に至るという短絡性が問題なのであって。それなら別に幼女に限ったことではなく、成人女性であろうと80過ぎの老婆であろうとダメなことに違いはありません。
それとも何でしょう、成人女性だったら殺して河川敷に遺棄しても構わないとでも言うんでしょうか。そういうことじゃありませんよね。
重要なのは、自己の欲望を制御することの出来る理性であり、欲望そのものを否定しても意味がありません。
欲望というのは先天的に脳に組み込まれた行動バイアスであり、これ自体は自己選択不可能なものであり意識の本質でもありません。
しかし文科系大衆観念というか、アプリオリには欲望や本能こそが意識の本質であるという錯覚が存在するため。この部分を間違えたままだと幼女に性的興奮すること自体が人格異常か何かだと勘違いしてしまいます。
別に幼女を見て性的に興奮してしまっても、それを抑えたり、他の事に意識を逸らしたりするなど、理性的な行動選択ができれば誰にも迷惑はかからないのであって。何に性的興奮をしてしまうのかという無意識性そのものは個人の人格性とは関係がありません。
それが、どんなに多数派から「気持ち悪い」と「感じ」られたとしてもです。
そもそも、そうした「感じ」自体が主観的好き嫌いに過ぎず、個人的な好き嫌いの範疇であるということにおいてロリコンと同じことであって、どんなに嫌ってもヘイトスピーチの類と何の違いもないその場限りの気分的安心満足感を求めているに過ぎず。
脳内でテストステロンを消費することでセロトニンの分泌が促され、その気分的安心感欲しさに非合理な感情的行動を漫然と繰り返すだけの「バカのスパイラル」に陥り。具体性を伴う論理的原因究明による効果的な再発防止対策には一切つながらない無責任な自己満足にしかなっていないのです。
しかし、ヒトの多くは自分の気分感情こそが意識の本質だと錯覚しているため、腹を立てて嫌いな誰かを糾弾差別さえしておけば安全保障か何かだと勘違いしており。こうした非合理な感情的行動を自律的に抑え、論理的な検証によって具体性のある安全対策を「考える」ことをしなくなるのです。
こうした非合理な行動選択というのは、核兵器開発や武力による威圧、挑発の原因でもあり。また、こうした感情的行動選択こそが大多数の大衆の脳にとって気分が良いため、ポピュリズムの台頭をも許してしまうのです。
話が逸れたかのように錯覚するかも知れませんが、ロリコン差別もポピュリズムの一端でしかないという点においては構造原理的には何の違いもないことなのです。
人間性というものは、先天的行動習性や成育環境によって刷り込み学習された無意識な行動によって成立するものではなく。あくまで自律的な社会的責任判断への意欲があってこそ成立可能性を持つものであり。
自律とは自発性や主体性から育まれるものであって、社会的に無責任な差別や暴力武力を用いた抑圧的解決策しか思い浮かばない頭の悪さというのも。また、自発性や主体性を大切にした育て方をされてこなかったが故に、認識力が固定され、無意識が促す感情的行動しか出来なくなっている状態なのです。
こうした自律放棄のスパイラル(連鎖)こそが、人類がバカげた行動を繰り返す最大の原因なのです。
他人の自律を信用出来ないのは、自己自身に自律がないからであり。故に刑法や武力威圧などの恐怖心を用いた抑圧ばかりを優先し、結果的に権威や多数派に迎合するばかりで自律的な社会的責任を負わないヒトが増えてしまうことで、社会の安全性の根幹が失われてしまうのです。
どんなに刑法を厳罰化させようとも、他国との軍拡競争をしようとも、これらは社会安全性を損なう原因にしかなりません。
現在の学校での道徳教育というのは、「悪いことをしてはいけません。」などと、ただ漫然と命令を下しているに過ぎず。何ら生徒の自発性や主体性を育む教育の重要性を認識していません。
人間性の本質というのは、他人から強制された行動に服従することではなく。あくまで自律的な社会的責任判断選択を行うための意欲によって育まれるものであり。「誰それを敬え」などといった合理的根拠のない他人からの強制で養われるものではないのです。
「イジメは悪い事です」と、どんなに言い聞かせても、それでイジメがなくなるわけではありません。
イジメというのは大人が見ていないところで行われることからも、イジメを行っている当人達にもそれが悪いことだという認識はあり。それでもなをかつイジメを行うというのは、イジメが楽しいとか安心だからであり、脳の快楽に抗うことの出来ない本質的な意志の弱さ故の行動でもあります。
自分の大脳辺縁系が促してくる行動バイアスに抗う自律なくして道徳もすったくれもあったものではありません。
こうした実効性のない道徳教育に意味があると思い込んでいることもまた、社会的に無責任な行動でもあるのです。
Ende;