イジメをやるのって
多分安心したり興奮できるんだと思う
イジメっていうのは基本的に無意識で
先天的行動バイアスが促す「社会形成習性」行動の一つの現れなので
イジメをやっていると仲間感覚が満足して安心出来る
統率的協調行動によって、「獲物」を狩るのが楽しいように脳は出来ている
イジメとか差別というのは、その「獲物」を狩る習性の無意識な暴走なのよね
でも世の中には、殺人に至るまでのイジメや差別以外にもいっぱい楽しいことや満足できることってあるんだけど
それが見えなくなってしまっているので不毛なイジメばかりをするようになる
見えてないのよね
イジメをやっているヒトって
盲目なのよ
目先の誰かの評価基準として、「俺の方が偉いんだ、優位なんだ。」っていう風に見せたくて仕方ない
優位だと思われていないと怖くて仕方ない
その外見的優位性を維持するために、暴力的行動がエスカレートするようになる
暴力的威圧だけが「カッコイイ」になっている
それは何故か
それは家庭内や学校、社会の中で暴力的威圧による服従ばかりを強制されて育っているから
アインシュタインはこう述べている
「無知で自分勝手な教師が与える屈辱と精神的抑圧は、若者の心に荒廃をもたらす。荒廃は決して元には戻らず、しばしば後に有害な影響を残す。」
この一文では「教師」についてのみ述べているけど、成育環境全般に言えることなので、親や近所のあらゆる大人の影響も受ける
精神的抑圧というのは自律を喪失させ、社会的責任判断を放棄する無責任なヒトを作り出す
その精神的抑圧の象徴が「懲罰」
懲罰という「嫌な体験」を怖れることで行動抑圧をしていると
「怖いことは、やってはいけないこと。」で、「怖くないことは、やっても構わない。」という情動が行動と直結する短絡的発想が刷り込み学習されてしまう
これでは「自律」なんぞ発揮されるわけがないのだ
気分的に安心だったり、興奮できることは「正しいこと」になってしまうので
誰にもわからないようにイジメをすることは「正しいこと」になってしまう
「大人にばれなきゃイジメは怖くない」からですよ
親や教師、大人から暴力的威圧によって行動抑圧されていると
他人を自分の思い通りにすることこそが「正義」になってしまう
自分が理不尽な事を押し付けられていると、他人にまで理不尽な事を平気で要求するヒトになってしまう
これは「連鎖」ですよ 程度の差こそあれ「虐待の連鎖」とメカニズム構造は一緒です
親が子供を「自分の子供だから、何をしても構わない」と称して家庭内でイジメ差別をして育てているわけなので
親大人が見ていない場所では自分の存在価値を、他人との比較優位性にすり替えて満足していないといられない
「仲間内では俺の方が優位に立っているんだ。」と思い込んでいないと不安で仕方ない
その結果、殺人にまで暴走してしまう
自己肯定感の希薄さを、他人との関係性によって代用しようとしている
「連鎖」というのは自分の子供が出来る前から周囲の人に対しても同様の行動を採るようになるんだけど、特に子供が出来ると閉鎖された家庭内において凶悪化するから問題になる
「ウチは子供を差別なんかしていない。」と思っている親は大半なんじゃないでしょうか
でも、自分の部屋の片付けをしないから強制代執行的に子供部屋掃除とかしてませんか?
子供が将来どのような仕事に就きたいか、そういう意向を尊重してますか?
もし子供が「○○になりたい。」と言ったのであれば、そのために子供に何がしてあげられるかを考えたことあります?
それこそ「宇宙飛行士になりたい。」と子供がある意味荒唐無稽とも思える意向を述べたら、そのためにいろいろ調べて、どうやったら宇宙飛行士になれるのかを一緒になって考えてあげること、出来ますか?
実際に、ある宇宙飛行士は子供の時に学校の先生に「僕は宇宙飛行士になりたいんです。」と言ったら、本当に調べてくれたそうです。
今の部活漬けの教師や共働きの親では難しいことなのかもしれませんけど、子供の意向を尊重し、自主的意欲を持たせることで、結果的に学習意欲を発揮するようにもなるのであって
目先の学力成績だけを求めて、漫然と「勉強しろ」とばかり命令していたら子供の自律は育たないわけです
そういえば、はるかぜちゃんのご両親も、イジメ問題について一緒に考えてくれる方のようです
若干暴走して代理ツィートとかしちゃっているっていう話もありますが、子供がある種無謀な挑戦をしているのを一緒になって戦ってくれる親がいるから、はるかぜちゃんも戦い続けられるんだと思います
普通に考えたら、自分の子供がSNS上でとやかく責められていたら、「面倒臭いから、やめちまえ。」と思うのが多数派の感覚なんじゃないですかね
オイラから見ても「はるかぜちゃんは無謀かも」って思うくらいですから
殺人予告とかされるのも、殺人予告をするような奴の病理に触れちゃっているからなんでしょう
そもそも殺人予告とかしている時点で、「俺は頭がおかしいかも。」って疑問にも思わないで正義か何かと勘違いしているんですけどね
…
何の話でしたっけ、あれこれやりながらなので頭がとっちらかってきちゃいますよ
ああ、そうだ盲目性の問題だった
自殺者の心理とかでも「周りが見えなくなる。」って話がありましたが
自己客観的論理検証が出来なくなって、ある特定の価値観だけに脳が囚われてしまう結果
「死んでも良いから、健康でいたい。」的な支離滅裂な健康マニアに陥るわけです
「死んでいいから会社や学校に行かなきゃ。」っていう強迫観念に囚われることで自殺に至る
いや、客観的に冷静に考えれば死ぬくらいなら会社も学校も要らないんですけどね
そういえば、振り込め詐欺に騙されている被害者も「騙されていても良いから、振り込ませてくれ。」と言い出すケースがあるそうです
これらは別の事だと思うかもしれませんけど、感情が優先して論理検証性が吹っ飛んでいることに違いはありません
川崎の学生が同級生や後輩を殺してまで求めていたものは一体なんでしょう
閉ざされた集団内部における順位序列という「幻」に囚われていたからですよ
本当はそんなもん社会に出ればクソの役にも立たないんですけど、その時はそれだけで頭がいっぱいになっちゃっている
ヒトの感情というのは、大脳辺縁系(脳の古い領域)が促す行動バイアスです
ヒトも含めて動物は様々な行動バイアスによって行動が促されるわけですが、結果的に生存していた個体に残された行動バイアスが、常に何らかの結果に対して正しい行動である証明はありません
あくまで、偶発的に「その時点までは死ななかった」性質や行動バイアスが残ったという「結果」だけしか証明することは出来ず
そこに目的が存在すると証明することは理論的に不可能なのです
ましてや人間性といった、人間社会においてのみ要求される性質が、どうして生物進化の過程で残ると言えるのでしょうか?
中世では暴力こそが生存に適していました
暴力競争に勝ち残った個体に、どうして人間性が残ると言えるのでしょうか
それはチンパンジーでも一緒です、京都大学霊長類研究所では、チンパンジーにアイヒマン実験は行いませんが
チンパンジーを「他者に苦痛を与えることでエサが貰える。」という環境下に置いた場合、他者が苦痛を訴えることに馴れて、自分のエサを優先するようにならないのかといった実験は行いません
これでは「雨乞をすると、雨が降る。」という理屈と同じで、「なぜなら雨乞は、雨が降るまで行われるから。」に過ぎないのであって、「雨乞をしたから、雨が降る。」わけではないのと同様
霊長類研究所が立証しようとしていた「チンパンジーには人間性が先天的に組み込まれている。」ことにはならないのです
こういうのを「錯誤相関」と言うそうで、クリティカルシンキング(精密論理検証)の妨げになるヒトの脳の癖みたいなものです
精密論理検証が出来ない時点で科学者としてはクズなんですけどね どんなに学力成績が高くても文化功労賞を貰ってもね
ヒトという種の生物において、生存に適していた個体に、先天的に人間性が組み込まれているとすれば。どうして紛争や犯罪やイジメがなくならないのでしょうか
むしろ、ヒトという種の生物は、振り込め詐欺のように集団組織的に他者から利益を奪い取ることによって生存に適してきた可能性を、どうやって否定するつもりなんでしょう
何度も述べますけど、先天的な行動習性というのは環境に依存した「結果」でしかありませんから、特定環境でしか発揮されない利他的行動のようなものだけを抽出してきて「先天的に人間性が組み込まれている。」ことの証明には一切ならないんですよ
だって環境に依存している時点で自律がないでしょ
個人の自律的な社会的責任判断選択を無視しておいて、先天的な行動習性だけで人間性が立証できるわけないでしょ
バカなの? ねぇバカなの?
どんだけバカが多いの?
ああ面倒臭くなってきた
山中伸弥までバカなのかと思うとウンザリしてくるわ
まさかアウンサン:スー:チー女史までロヒンギャ差別をするとは思ってなかったし
ノーベル賞委員会まで要らない気がしてきたわ
Ende;