被害者の会が解散という報道があったんだけど
この被害者の会の主張というのは合理性がない
「同じ思いをする人が出ないようにしたい。」と主張しながら具体的に合理性のある再発防止策につながる制度の構築には一切言及していないからである
被害者が求刑できるよう法改正をしたそうだが、被害者による報復感情というものは、加害者の行動の原因とは無関係なものであり。これは再発防止には何の意味も為さない
被害者救済に関する制度改革については評価できるのだが、単なる厳罰化によって加害者の方の倫理の欠如についての原因究明による、犯罪の再発防止につながる制度構築が全く欠如しているのである
懲罰による報復を重くすれば、被害者の気分感情的な満足感は得られるのかも知れないが。これこそが加害原因の究明を阻害し、結果として加害者予備軍の放置になり、再発防止に対する具体的内容が全く欠けているのである
被害者の個人的な気分的満足感ばかりを優先しても、社会安全性を高めることをしないというのは、税金の使い方として極めて偏っており、社会防衛の観点からは公金の浪費に過ぎない
懲罰を目的とした刑法というものは、実際に被害者が出てから懲罰を決めるだけの制度に過ぎず。自律的な社会的責任への認識が欠如した犯罪者に、どんなに重い刑罰を与えても、犯罪予備軍に対する予防策には全くつながらないばかりか。実際には懲役刑を終えた犯罪者であっても、全く治っていないケースも非常に多く。
刑法罰というのは社会制度として極めて「その場限り」な感情的制度に過ぎず、中長期的な被害防止につながらない不毛な社会制度なのである
こうした刑事罰制度が持つ根源的欠陥を無視したまま、被害感情ばかりを優先しても、具体的に被害を減らすことにはつながらないのである
時折、強盗殺人で25年服役した犯罪者が、出所後数日で再び殺人を行ってしまう報道も出てくるが。これは氷山の一角に過ぎず、犯罪者自身が「何が間違っていたのか。」についての自覚が全くないことを理由に厳罰化をしたところで、「懲役を終えたから、罪がキレイになった。」などと称して再び同じような犯罪を繰り返す犯罪者の「治療」は社会制度として全く構築されていないのである
刑務所というのは、治療施設ではない
刑務所というのは裁判官が決めた懲役刑を機械手続き的に執行するだけであって、犯罪者特有の自律の欠落による社会的責任行動選択能力の欠如という「病理」については、具体的な対策は一切制度として組み込まれてなどいないのである
たとえ実際に被害が出ていないとしても、人間としての社会的倫理の欠けているのであれば、これはその「病理」を究明し、「治療」に結びつけなければ、本当の意味での再発防止にはならない
犯罪病理の究明と治療という再発防止を行うためには、刑事罰は百害あって一理ないのである
危険学や失敗学が重大事象において刑罰の一時停止を行うのは、刑罰というものが事象の原因究明や再発防止にとって邪魔にしかならないからである
「刑事罰の厳罰化こそが唯一絶対的再発防止だ。」と主張するのであれば、主張している方に自律が欠如している証拠であり。社会的に無責任な主張でしかない
裁判というのは形式的に厳格そうな雰囲気だけは醸し出しているものの、現実には合理的根拠のない感情論を満足させているだけの機械的手続きでしかなく。むしろ厳重な形式的手続きによって民衆を騙しているようなものである
これも一種の洗脳である
洗脳されているヒトというのは、論理的な話に耳を貸さなくなり、合理的な改革に対しては観念的拒絶反応や恐怖心しか抱かない
これは、自分の感情や気分こそが意識の本質であるという錯覚がもたらすヒトという種の生物の先天的欠陥に起因するものである
犯罪被害者の救済も確かに重要ではあるが、加害者側の家族、特に未成年の子供達もまた、被害者であることを忘れてはならない
カレーに毒物が混入された事件というのがあったが、この加害者の家庭は地域から孤立し、一家離散に追い込まれてしまっているという
他人に迷惑をかけることに対して何ら自覚のないヒトが、なぜ存在するのか。そこいら辺で迷惑な行為を繰り返す糞DQNも含めて、具体的な「治療」方法を確立しない限り被害はなくならない
警察は250cc以下のバイクを改造しても、「車検がないから、捕まえられない。」などという手抜きを平気で行うものである
強盗殺人や通り魔に比べれば、糞DQNの行為というのは「小さな事象」であるが。小さな事象を放置しているからこそ事象の重症化に歯止めがかからなくなるのである
どうしても刑罰を温存したいと言うのであれば、刑罰とは別の犯罪治療制度も必要であり。裁判所による科料とは全く別の研究機関や施設が必要なのである
「そんなことしたらお金がかかる」と言い出す者もいそうだが、むしろ現在の刑務所こそが、社会安全性を高めるという点においては極めて効率が悪いものなのである
ヒトという種の生物の先天的欠陥を「なかったこと。」にしている現在の生物学界や哲学界の怠慢や無責任の責任を、誰が担保してくれるというのであろうか
日本では、一応手続き形式上は民主主義を採用しているが。肝心の民衆がバカのままならバカ主義が続くことになるのである
大多数がバカなら、バカでいる方が気分的には安心であろうが。その気分的安心満足によって合理的な社会安全性が蔑ろにされているのである
もしかすると、子供のイジメ同様に「大多数の傍観者」によって事態が温存放置されているだけなのかも知れないが。それもまたヒトという種の生物特有の「先天的社会形成習性」が促す欠陥の一つに過ぎない
オイラは軽いアスペルガーなので、多数派に迎合するのが苦手であるが、多数派迎合によって事態の改善がままならない大多数の「非アスペルガー」の方が人間として欠陥品だとも言える
酷い場合には、一種の「逆アスペルガー」症状によって、合理的根拠もなくむやみやたらにレッテルを貼付けて満足したがるバカも少なくはないが。これを「症状」として認識していないのは、逆アスペルガーというのは社会迎合性だけは高いために、生活には全く苦労しないばかりか、むしろ現状社会においては成功しやすいのかも知れない
それによって回避可能な危険性が放置されているとしても、そりゃオイラの知ったこっちゃないわ
Ende;
この被害者の会の主張というのは合理性がない
「同じ思いをする人が出ないようにしたい。」と主張しながら具体的に合理性のある再発防止策につながる制度の構築には一切言及していないからである
被害者が求刑できるよう法改正をしたそうだが、被害者による報復感情というものは、加害者の行動の原因とは無関係なものであり。これは再発防止には何の意味も為さない
被害者救済に関する制度改革については評価できるのだが、単なる厳罰化によって加害者の方の倫理の欠如についての原因究明による、犯罪の再発防止につながる制度構築が全く欠如しているのである
懲罰による報復を重くすれば、被害者の気分感情的な満足感は得られるのかも知れないが。これこそが加害原因の究明を阻害し、結果として加害者予備軍の放置になり、再発防止に対する具体的内容が全く欠けているのである
被害者の個人的な気分的満足感ばかりを優先しても、社会安全性を高めることをしないというのは、税金の使い方として極めて偏っており、社会防衛の観点からは公金の浪費に過ぎない
懲罰を目的とした刑法というものは、実際に被害者が出てから懲罰を決めるだけの制度に過ぎず。自律的な社会的責任への認識が欠如した犯罪者に、どんなに重い刑罰を与えても、犯罪予備軍に対する予防策には全くつながらないばかりか。実際には懲役刑を終えた犯罪者であっても、全く治っていないケースも非常に多く。
刑法罰というのは社会制度として極めて「その場限り」な感情的制度に過ぎず、中長期的な被害防止につながらない不毛な社会制度なのである
こうした刑事罰制度が持つ根源的欠陥を無視したまま、被害感情ばかりを優先しても、具体的に被害を減らすことにはつながらないのである
時折、強盗殺人で25年服役した犯罪者が、出所後数日で再び殺人を行ってしまう報道も出てくるが。これは氷山の一角に過ぎず、犯罪者自身が「何が間違っていたのか。」についての自覚が全くないことを理由に厳罰化をしたところで、「懲役を終えたから、罪がキレイになった。」などと称して再び同じような犯罪を繰り返す犯罪者の「治療」は社会制度として全く構築されていないのである
刑務所というのは、治療施設ではない
刑務所というのは裁判官が決めた懲役刑を機械手続き的に執行するだけであって、犯罪者特有の自律の欠落による社会的責任行動選択能力の欠如という「病理」については、具体的な対策は一切制度として組み込まれてなどいないのである
たとえ実際に被害が出ていないとしても、人間としての社会的倫理の欠けているのであれば、これはその「病理」を究明し、「治療」に結びつけなければ、本当の意味での再発防止にはならない
犯罪病理の究明と治療という再発防止を行うためには、刑事罰は百害あって一理ないのである
危険学や失敗学が重大事象において刑罰の一時停止を行うのは、刑罰というものが事象の原因究明や再発防止にとって邪魔にしかならないからである
「刑事罰の厳罰化こそが唯一絶対的再発防止だ。」と主張するのであれば、主張している方に自律が欠如している証拠であり。社会的に無責任な主張でしかない
裁判というのは形式的に厳格そうな雰囲気だけは醸し出しているものの、現実には合理的根拠のない感情論を満足させているだけの機械的手続きでしかなく。むしろ厳重な形式的手続きによって民衆を騙しているようなものである
これも一種の洗脳である
洗脳されているヒトというのは、論理的な話に耳を貸さなくなり、合理的な改革に対しては観念的拒絶反応や恐怖心しか抱かない
これは、自分の感情や気分こそが意識の本質であるという錯覚がもたらすヒトという種の生物の先天的欠陥に起因するものである
犯罪被害者の救済も確かに重要ではあるが、加害者側の家族、特に未成年の子供達もまた、被害者であることを忘れてはならない
カレーに毒物が混入された事件というのがあったが、この加害者の家庭は地域から孤立し、一家離散に追い込まれてしまっているという
他人に迷惑をかけることに対して何ら自覚のないヒトが、なぜ存在するのか。そこいら辺で迷惑な行為を繰り返す糞DQNも含めて、具体的な「治療」方法を確立しない限り被害はなくならない
警察は250cc以下のバイクを改造しても、「車検がないから、捕まえられない。」などという手抜きを平気で行うものである
強盗殺人や通り魔に比べれば、糞DQNの行為というのは「小さな事象」であるが。小さな事象を放置しているからこそ事象の重症化に歯止めがかからなくなるのである
どうしても刑罰を温存したいと言うのであれば、刑罰とは別の犯罪治療制度も必要であり。裁判所による科料とは全く別の研究機関や施設が必要なのである
「そんなことしたらお金がかかる」と言い出す者もいそうだが、むしろ現在の刑務所こそが、社会安全性を高めるという点においては極めて効率が悪いものなのである
ヒトという種の生物の先天的欠陥を「なかったこと。」にしている現在の生物学界や哲学界の怠慢や無責任の責任を、誰が担保してくれるというのであろうか
日本では、一応手続き形式上は民主主義を採用しているが。肝心の民衆がバカのままならバカ主義が続くことになるのである
大多数がバカなら、バカでいる方が気分的には安心であろうが。その気分的安心満足によって合理的な社会安全性が蔑ろにされているのである
もしかすると、子供のイジメ同様に「大多数の傍観者」によって事態が温存放置されているだけなのかも知れないが。それもまたヒトという種の生物特有の「先天的社会形成習性」が促す欠陥の一つに過ぎない
オイラは軽いアスペルガーなので、多数派に迎合するのが苦手であるが、多数派迎合によって事態の改善がままならない大多数の「非アスペルガー」の方が人間として欠陥品だとも言える
酷い場合には、一種の「逆アスペルガー」症状によって、合理的根拠もなくむやみやたらにレッテルを貼付けて満足したがるバカも少なくはないが。これを「症状」として認識していないのは、逆アスペルガーというのは社会迎合性だけは高いために、生活には全く苦労しないばかりか、むしろ現状社会においては成功しやすいのかも知れない
それによって回避可能な危険性が放置されているとしても、そりゃオイラの知ったこっちゃないわ
Ende;