書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

バラコミ。

2011年03月10日 14時18分11秒 | 日記
 バラコミとは、バランスコミュニケーションの略だそうである。科学的に検証すれば、これは観念であることに間違いはない。これをエサにセミナーで行き先不明の募金活動をしているのであれば、ペテンである可能性も充分ある。

 ただ、結婚を考える時に。「相手を幸せにしてあげたい。」などと他人優先で考えるのではなく。「まず、自分が幸せになりたい。」ことを考えるというのは、私の意識論の考えにおける本質的自発性と重なる部分がある。

 どこまで信用していいのかは、私自身まだ研究段階であるが。一般的な占い師のように世間や多数他人を優先するような、いかにも聖人君子的な生き方を脅迫的に押し付けるような指向とは、少し異なるようである。

 ただ、やはり理論的には相当無理があり。理論的な体系化の段階で、かなり観念的な決め付けが混入している所は少なくない。

 バラコミの意図するところは、心理的な拘束によって生ずる根拠のない恐怖心を取り除くことによって。無駄な固執、ヒステリーを除去することによって、心理的に楽に考えられるようにするものであるようだ。

 私の意識論においては、単に気分的に楽になれば良いというものではないのは確かだが。無駄に恐怖心を煽ることが目的でもないので。無駄な恐怖心を取り除くという観点からは参考にしたい部分はある。だが、別にバラコミを推奨はしないので、誤解のないように。

 私が推奨したいのは、英国で実績のある認知行動療法である。こちらは正式な臨床心理である。





 ヒステリーとは、心理的な拘束からくる意識の固定化、思考の過剰な整理のことである。ヒステリーというと、単に苛立っている人のことを指していると一般的には思われているが。心理学用語でのヒステリーとは、何らかの観念によって思考が拘束されている状態全般を指している。

 つまり、鬱状態のことも、広義においてヒステリーなのである。鬱になる人というのは、自分自身を過剰に過小評価したがる傾向があり。「自分は下らない人間だ。」といった風に自分で自分を追い詰めてしまうのである。

 理論的に考えると、自分で自分を評価することなど不可能である。自分の基準を用いて自分自身を検証することに意味がないからである。

 モノサシで例えてみよう。ここに一つのモノサシがあるとする、この一つのモノサシの目盛りが正確であるかどうかを検証可能であろうか。

 「他人と比較して、ここが劣っている。」といった検証は可能であるかも知れない。しかし、なぜ、他人と比較しなければならないのであろうか。その基準自体が自分自身の基準によるものなのである。

 特定のある人物と自分を比較するとき、その比較基準となるモノサシが、自己自身の好き嫌いに由来する基準であるならば、その比較結果は理論的根拠を伴うものではなく、単なる自分の個人的な観念に過ぎない。

 「ノーベル賞受賞者と比較して、自分は何の業績も、成果も持たない。」そんなことに意識を奪われ、自分が行うべき研究自体への意欲を失っていて、何を研究できるであろうか。

 ノーベル賞受賞者であっても、最初は単なる研究者の一人に過ぎない。その段階において他人との比較によって、気分的に意欲を失っていたのでは、研究者に邁進することなどできないのである。アインシュタインが大学の研究室に入ることができなかったことを悔やんで、研究自体を諦めたり、あるいは意欲を失っていただろうか。否、そんなことは全く無関心だったのである。だからこそ特許局勤めをしながら相対性理論を書き上げたのである。

 たとえどんなに社会的に成功しようとも、実際には振り込め詐欺への耐性も得られない脳トレ類の流布によって社会的に成功することには、実質的には社会に害を与えるだけなのである。

 従って、表面的に他人と自分とを単純比較しても、その基準自体が正しいことの論理的根拠があるとは限らないのである。単なる観念的な羨望である場合がほとんどなのだ。

 「他人と比較して、自分は不幸だ。」そう思い込む。TBSの川田亜子アナウンサーは、自分のベンツの中で練炭自殺をしたという。一部他殺の疑いもあるようだが、自殺をする人の動機というのは、物質的な充足や社会的成功とは無関係であることが多い。

 自分の個人的な、極めて主観的な基準によって。「自分は不幸である。」という思い込みを自分自身に刷り込み学習することによって、自己洗脳してしまい、勝手に自己嫌悪に陥って自分を嫌いになるという心理的なスパイラルに陥ることが、ヒトの脳では時折生ずる。

 大脳辺縁系の促すシーケンシャルな心理拘束というのは、それ自体が誰も望んでそうなっているわけではない。こうした無意識的なシーケンスからの脱構築を行うのが本質的意識なのである。

 脳科学的な観点からは、気分的な抑鬱というものも、単なる副腎皮質ホルモンであるコルチゾールやカテコールアミンなどの不安物質が、脳の大脳辺縁系に作用しているだけの機械的条件反射に過ぎない。だから、気分的に不安なだけであるならば、「鼻からコルチゾール。」的に笑い飛ばせれば、脳内物質のコントロールも可能である。

 論理的に除去不可能な気分的不安というものに、多くの人は意識を奪われがちな傾向がある。例えば、目の前にお菓子があったとしよう。そのお菓子が本当に安全かどうかは、理論的にはもはや検証のしようがない。もし検証しようとするならば、検査機関に調査を依頼することになる。果たしてその検査機関自体の信頼性までも検証するとなれば、もはや永遠に絶対的信頼性など保障されえないのである。

 こうした検証不可能な事柄に対して精密検証性を行うのは単なる徒労に過ぎない。従ってそれに不安を抱くことに意味はない。食品安全性に関わることであるならば、厚生労働省にお任せしておくしかないのである。そこに気分的不安を訴えてもどうにもならないのである。他人に責任行動を任せておくのであれば、必要なのは無駄な気分的不安ではなく。自分に関わる行動選択に責任を持つことなのである。

 相互に自分の行動に責任を持つことによって、社会全体の信頼性というものが保障されるのである。自分の行動責任自体がたとえ小さなことであっても、一つ一つの積み重ねによって社会は成立しているのである。

 誰にも認知されずに、毎日パンを真面目に焼き続けることによって、近隣の住人に安全でおいしいパンを供給することであっても。それは社会にとって大切な責任行動である。見方によっては莫大な税金を使って岩山の中に巨大な水槽をこさえてノーベル賞にうかれていることと、一体どちらが社会にとって「必要。」なことであろうか。

 自分の行いが、社会にとってどの程度の価値が存在するか。そんなことは考えても意味がない。たとえ些細なことであっても、確実に行うこと。責任を持つこと。その積み重ねによって社会全体の安全性が確保されるのである。自分が特別な存在である必要など、社会全体にとって全く意味がない。社会というものは大多数の平凡な人達によって安全性を保たれているものなのである。従って多数他人からの評価や、過大な報酬を得ていなくても存在価値が低いことにはならないのである。

 自分が他人と比較して、幸福であるかどうか。それは理論的には比較不可能なものである。それこそ、頭部結合のシャム双生児でもなければ、自分と他人との間に脳神経はつながっていないのである。自分の幸福感と、他人の幸福感を比較することなど理論的には不可能なのである。外見上他人が幸福そうに見えたとしても、その「見えて。」いる状態以外の全てを知っているわけではなく、あくまで主観的な「自分の基準。」でしかないことを忘れるべきではない。


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