山本芳久(東京大学)
ニコマコス倫理学 アリストテレス
義務論的倫理学 幸福論的倫理学
最終的目標とは何か それが幸福だとアリストテレスは言う
究極目的
倫理学には「ゆらぎ」があるという
○富のために身を滅ぼした
○勇気ゆえに命を落とした
例外があるからといって富や勇気が不毛なわけではない
大抵の場合に当てはまることは正しい
⇨これを曲解すると利己的幸福が正当化されてしまい公益的観点を見失い倫理を喪失することになる
人間としての本当の幸福(究極の目的)とは 戦争やイジメ差別のない安全で持続可能性の高い社会の中で生き死ぬことであり 社会安全性や持続可能性への思慮を欠いたまま利己的幸福ばかりを追求するから倫理を喪失するのである
「原発事故は例外だ」
「イジメで自殺があるのは例外だ」
「踏み間違い事故で人が死ぬのは例外だ」
「戦争が起こることは例外だ」
「飲酒運転で子供を轢き殺すことは例外だ」
「日本大学のような組織腐敗は例外だ」などと称して多数を論拠に正当化することなどできないのである
危険学や失敗学では どんなに小さな確率の危険性であっても「いつか必ず起きる」ことを前提とする
「大抵の場合安全だ」という話は成立しないのである
危険学や失敗学では「地獄」について考える
そもそも「考える」とは「地獄について考える」ことである
就職だの年収だのといった利己的幸福を追求しても 社会安全性や持続可能性が伴わなければ簡単に紙屑のごとく散ってしまうものである
それはウクライナやミャンマーを見れば明らかである
どんなに個人的幸福を追求しても 通りすがりの暴走車に家族を奪われることもある
倫理において最も優先されるのは社会安全性である
安全ではない社会の中では自己の幸福も「砂上の楼閣」に過ぎない
学問というものは 幼稚で子供じみた利己的幸福観を満たすためのものではなく 一人の社会人として 社会的責任を負う人間としての倫理的選択によって 社会安全性を自ら担保構築するためのものであって ただ「自分が幸福なら正義だ」などという短絡安易でバカみたいな話は倫理でも何でもないのである
何千年読み継がれていても その内容が全て正しいことの論証にはならない
何千年も何千万人のバカが読み継いでも論理客観的根拠を伴う真理の証明の保証にはならないのである
多数がもたらすのは主観的安心感だけであって この主観的安心感によってこそ論理客観的危険性は看過ごされてしまう最大の原因となるのである
Ende;