ウィキペディアには適者生存に関する記述において、
創造論者は「生き残った物が適者であり、適者が生き残る」と言う主張は循環論(あるい は同語反復、トートロジー)であり科学ではない、と主張する。しかしこの表現は、メカニズムを簡潔に説明するた めの比喩であり、何かを証明する理論ではない。生物学者はこの表現を一般的に使うことはなく、自然選択と呼ぶ。 そして自然選択はフィールドワークや実験から観察された事実により支持されている。
とある。ウィキペディアでは「同語反復。」とあるが、「生き残る。」というのは結果であって、「生き残るためには。」というのは目的行動を指しているのであり。これは同語反復ではなく、目的と結果の混同、或は結果を目的としてすりかえているのであり、トートロジーではなく、単なる誤りでしかない。
サイバーネティックスの観点というものも、結局は構造が促す結果論を「目的。」とした観点でしかなく。そこには本質的意識による選択自体が欠落しており、不毛である。
生命進化数十億年の結果としての、現在の生物相を観察しているだけでは。生命進化の過程の全てを知ることは原理的にできない。
現在の地球における自然生物の環境調和というものは、かつての度重なる大量絶滅などの「失敗。」の上に、結果的に成立したものであって。個々の個体が意図的に調和を求めた結果ではない。
環境と調和できなかった個体が淘汰死滅した結果、環境と調和する個体だけに自然淘汰が働いた結果論をどんなにたくさん抽出してきても、「全ては自然のままにほったらかしにしておけばよろしい。」などという無為無策な満足に陥って良いことの論拠には成り得ない。
生物学の「実験。」などというのは、チンパンジーの利他行動の「立証。」と同様に、実験者の観念に都合の良い実験結果だけを集めてくるようなものが圧倒的に多く、また、フィールドでの観察であっても、結局は「現在の生物相、環境。」という「結果。」以外は観察不可能なのである。
どんなに大量の「結果。」を抽出枚挙したところで、それが「結果。」以上の何かになることの論理的証明になどならないのである
生物というもの、自然環境というものは、極めて複雑な系の結果しか観測することはできず、決して短絡的な結論を導き出せるような簡単なものではない。ところが生物学に限っては異常なまでに短絡的帰結がまかり通っており、他の科学分野と比べて厳密性が異常に低く。また、そうした傾向が内部で蔓延しているのである。
生物学における「優秀な遺伝子を遺すため。」などという話においても、たとえ結果的に優秀な遺伝子、環境調和の方向性を持っている個体への淘汰が働いたとしても、それは優秀ではない遺伝子、環境調和ができなかった個体の自然選択の結果であって、個々の個体が意図的、意識的に目的行動選択を行った結果であることの論証にはなっていない。
現在の自然環境における生物の習性傾向性としての環境調和性をどんなに枚挙しても、各々の個体の意識的「目的。」が環境調和である必要性は全くなく。結果として環境調和がとれてさえいれば良いのであって、個々の個体の目的行動選択は立証したことにはならないのである。
どんなにたくさんの生物学者が支持していようとも、理論的に間違った論証をどんなに多数抽出枚挙しても、理論的、科学的に証明されたことにはならないのである。
むしろ、結果的な習性の結果として環境調和に至っているからこそ、自然環境というのは非常に脆弱なのであり。個々の個体は環境の変化に対する対応能力がないということは、個々の個体には初めから「目的意識。」など存在しないことの証明でもある。
環境の変化に対して、行動習性の暴走を促したりしてしまうのは。習性自体が極めて機械手続き的な条件反射行動であるからであり。現在の自然界における生物相の調和というものも、それぞれの個体の習性同士の結果的な調和でしかないのである。
従って、どんなに生物学的な結果論を抽出枚挙したところで、「本能のおもむくままにしておけば、全ては調和することが可能である。」かのような生物学のプロパガンダはオカルトでしかないのである。
そもそも生物学者というのは物質文明の暴走した現代社会が嫌いである傾向があり。そのために「ヒトが異常行動をするのは、現代社会に適応するまでに何万年かかるかわからない。」などと、ヒトの行動の全てを習性本能だけで論じようとするのである。
それなら一体何のための「教育。」なのであろうか。現代社会に適応して、社会の調和、地球環境との調和をするための「教育。」であるはずなのだが。現実には単なる成績評価という「エサ。」で釣るだけの、いわば習性本能を利用した「猿まわし。」で満足しているだけなのである。特定環境を作り出せば、ヒトは高い学力を得ることが可能である。だが、それは環境依存性の「結果。」でこそあれ、当人の「目的。」意識に基づく結果としての学力知識とは同じではない。
ヒトの脳には可塑性がある。小脳や辺縁系とは異なり、大脳というのは初期的には白紙であるのは、後天的能力獲得の拡大が生存に適していたことの証明である。だが、単純に生存だけを論じておけば、それが異常繁殖、異常発生を促し大絶滅に至る可能性も含まれているのである。
単なる「生存。」だけを絶対価値に置いた生物学の指向というのは、極めて偏った価値観に囚われており、何ら科学的でもなければ論理的でもなく。また、公益的でもない。
論理的根拠の乏しい絶滅予言に、一体何の公益的価値が存在するであろうか。
子孫に対して将来的負担がかかることを「知って。」いながら、その負担を軽減することを忘れ、目先の景気や、安価な原子力にしがみつく現代社会の大人達は、その意識が極めて目先のことしか見ておらず。また、「生まれて今まで、ずっとそういう環境に育ったから。」などというのは、環境依存性丸出しの無意識性による精神の怠慢であり。無為無策を生み出す元凶でもある。
環境に依存せず、自律的に行動を選択できるからこそ「人間。」なのである。たとえどんなにたくさんの「自律行動選択ができないヒト。」を抽出枚挙したとしても、これからも永遠にそれが不可能であることの論証には全くならない。
現代社会に問題があるのであれば、一体何処に、どのような問題があるのかを突き止め。具体的にどのようにすれば問題を解決することが可能であるかのかを導き出すことも不可能ではない。絶対可能であるとも言えないが、不可能である論証がない限り、可能性にかけるからこそ「意思。」なのである。
それに対して、「人類は絶滅する。」などと称して、唯無為無策に諦める生物学というのは、本能習性のおもむくままに生きることだけが「自由。」であると勝手に妄想しているオカルト宗教でしかないからである。
生物学者というのは自然界が大好きであるため、自己の存在が自然という「神。」の産物であり、自然という神が与えたもうた本能習性こそが絶対であると信じ込んでいたいのであろう。そうなれば意識の存在など「あってはならない。」のであり、他の動物同様に、本能習性のおもむくままに生きていさえすれば「正しい。」ことにしておきたいのである。
だが、そのために戦争や犯罪といった問題行動への対処を放棄し、無為無策を促して思考停止して、気分的満足、安心のまどろみに溺れていて良いわけがない。
公益性を持たない学問であるならば、それは公費を投じて行うべきものではない。宗教がやりたいのであるならば、信者達からお布施でも募って宗教法人でも設立してやればよいのである。宗教法人であれば税金は免除されるのであるから、気兼ねなく研究すればよろしい。
ウィキペディアにもあるように、生物学における目的論というのは、「簡潔に説明するための比喩であり、何かを論証するためのものではない。」のである。つまり最初から何にも論証するつもりもない話を元に、勝手に結論をでっちあげているのが現状なのである。
「生存戦略。」などの言い回しも、あくまで比喩であり、何ら論証するようなもではないのである。
何の論証もない話は、そもそも科学理論ではないし。何かの役に立つ話ですらないのである。
私は宗教家ではないから、決して創造論を支持することはない。むしろ現在の生物学が理論的に間違っているからこそ創造論者の反論を許してしまうことになるのである。現在の生物学自体がオカルトである以上、創造論者との対立であってもどちらも間違いであり、全く不毛な論争でしかない。
ウィキペディアには以下の部分もあった。
ある与えられた環境で、ある個体がこれから残すであろうことが期待される子の数によって、その 個体の適応度を定義している。生存のための努力には、自己あるいは自己の属する種の生存により有利な環境を作り 出していくことも含まれているが、適者生存という場合、むしろ所与の環境における適応度が問題とされており、環 境そのものの変化によって、適者は変遷することになる。
適者というものが常に変遷するということは、究極の結果すらも存在しえないということである。そんな話から目的について論ずることなど原理的に不可能なのである。
そもそも結果と目的を、ギリシャ語の語源では区別していないらしく、それが理解を阻んでいる可能性がある。運命論的に結果を全てとする結果論絶対主義的「目的。」というものは、そこに個人の目的意識としての選択を伴う「目的。」が含まれておらず、そこから目的について論ずること自体が原理的に不可能であり、全く不毛なのである。
何度も言うが、どんなにたくさんの結果を抽出枚挙しても、そこから意識的な目的選択行動などというものは短絡的に抽出されるものではない。
そもそも、「生存のための努力。」というものを、人間以外の個体が意識的に選択している論証が全くないのである。環境変化によって条件反射的な行動習性が生存に適さない場合というのは決して少なくはない。だからこそ自然環境というものは脆弱なのである。
人間以外の、ヒトを含むあらゆる動物というものは、予め組み込まれた本能習性に基づく行動以外を選択することができない。できないから「人間。」ではないのである。
「より有利な環境。」というものを作り出している場合であっても、それは意識的に作り出した論証があるわけではなく。組み込まれた本能習性行動の結果として作り出して「しまっている。」だけと考える方が、より多くの事柄を説明可能なのである。
人類は、今まで意識的な行動選択というものをあまりしてこなかった。そもそも意識的行動選択とは何かすら明確には認識していないのであるから、むしろ当然の結果であろう。
その結果だけを多数抽出しても、意識的行動選択が絶対に出来ないことを証明し得ない。
人類は自滅の道筋を認識することが可能である。自らの行動が不利な環境を作り出すことを認識できる以上、不利な環境にならないように回避することが不可能である証明など存在しない。
生物学者の勝手な観念というものは、人間が行うあらゆる環境対策を無駄であると決め付けていることになるのである。これは環境対策を行うあらゆる人に対する侮辱でもある。多くの人達は、それがそれであるということさえ認識していない。
文系マスコミと迎合して、現在の生物学の指向を放置するというのは、オカルトのプロパガンダでしかないのである。
理論的に考えることの嫌いな大衆マスコミの「人気。」を、従来の生物学は得ることが可能なのであろう。「ヒトという種の生物は、素晴らしい。」などとしておけば、どんなに愚かなバカであっても存在価値があるかのような錯覚を促すからであろう。
生物的にどんなに高度な「性能。」を論じても。それが人間として、社会や地球環境との調和が可能であることの論証にはならない。たとえ通り魔であってもカルト宗教の教祖であっても、生物的には「ヒト。」であることに何ら変わりはない。
生物種としての「ヒト。」の優位性をどんなに枚挙しても、そこから「人間とは何か。」に言及することは原理的に不可能なのである。
たとえ先天的疾患を持っているとして、それが「ヒト。」としては不完全であるとしても、「人間。」として不完全であることの論証にはならない。
現在の生物学の正義を振り回している限り、「人間とは何か。」について、永遠に論ずることはできないのである。それは犯罪や戦争、或は組織的習性に由来するあらゆるヒトの過ちの全てを放置することを意味する。
認知科学や脳科学というジャンルにおいても、その基礎は生物学である。澤口俊之は従来の生物学の指向を鵜呑みにしており、故に実験的多数抽出という「実証。」結果を、短絡的に論理的「立証。」であると言い張るのである。
澤口は養老を批判するどころか、むしろ称賛していたのである。こんなバカを脳科学者扱いしておくのはトンデモない大間違いである。
大脳辺縁系の傾向性をどんなに並べても、それは気分的な傾向性しか抽出されることはない。多くの人は「個人的好き嫌い=行動。」という短絡的な行動選択しかしないことを枚挙しても、それ以外の行動が不可能であることの論証には一切ならないのである。
バカをどんなに大量に抽出枚挙しても、「ヒトの全てはバカである。」ことの論証にはならない。
ヒトは科学的認識の拡大によって、環境の激変を予測し、予め対応を採ることが不可能ではない。可能かどうかは、「やってみなくちゃ、わからない。」
だが、ヒトの多くは「わからないことは、やりたくない。」と称して、すぐに精神的な怠慢をしようとする。学力や学歴には執着するくせに、自発的に「考える。」ことは嫌いなのである。ゆえに「思い込み。」のまどろみに浸って満足する。
「ヒトとはそういうものである。」のだろう。人の意識の9割以上は無意識であり、本能感情が優先する「傾向性。」がある。こうした「傾向性。」に抗う本質的意識なくして、自らの行動を変化させ、対処対応することなど不可能である。
現在の生物学の支離滅裂な指向を許すというのは、人類のあらゆる可能性を否定する気分的怠慢を促すものである。
私は生物学自体を否定するわけではない。私が否定しているのは勝手な結論を導きだしておいて科学であると言い張る傲慢さを否定しているのである。
自然環境がどのようなものであるのか、生物相がどのようなものであるのかといった結果が知りたいのであれば、それは純粋に結果だけを報告発表していれば良いのである。一面的結果から勝手に結論をでっち上げる傲慢さを棄てろと言っているのであって、世間的なウケ狙いで「人間とは何か。」に言及しようとする姑息さが傲慢だと言っているのである。
本当に「人間とは何か。」を論じても、実際このブログのように世間的にはウケが良いわけではない。100IP程度のアクセスしかない話など、ネット上には存在しないも同然であり、ウケ狙いとしては「人間とは何か。」というのは本当は割が合わないものなのである。
ウケを狙いたいのであれば、「元気が出る。」だの「勇気がわく。」だの「前向きに生きられる。」ような、気分的な高揚を促すペテン話の方が効率は良い。
無論、糞の役にも立つことはない。
創造論者は「生き残った物が適者であり、適者が生き残る」と言う主張は循環論(あるい は同語反復、トートロジー)であり科学ではない、と主張する。しかしこの表現は、メカニズムを簡潔に説明するた めの比喩であり、何かを証明する理論ではない。生物学者はこの表現を一般的に使うことはなく、自然選択と呼ぶ。 そして自然選択はフィールドワークや実験から観察された事実により支持されている。
とある。ウィキペディアでは「同語反復。」とあるが、「生き残る。」というのは結果であって、「生き残るためには。」というのは目的行動を指しているのであり。これは同語反復ではなく、目的と結果の混同、或は結果を目的としてすりかえているのであり、トートロジーではなく、単なる誤りでしかない。
サイバーネティックスの観点というものも、結局は構造が促す結果論を「目的。」とした観点でしかなく。そこには本質的意識による選択自体が欠落しており、不毛である。
生命進化数十億年の結果としての、現在の生物相を観察しているだけでは。生命進化の過程の全てを知ることは原理的にできない。
現在の地球における自然生物の環境調和というものは、かつての度重なる大量絶滅などの「失敗。」の上に、結果的に成立したものであって。個々の個体が意図的に調和を求めた結果ではない。
環境と調和できなかった個体が淘汰死滅した結果、環境と調和する個体だけに自然淘汰が働いた結果論をどんなにたくさん抽出してきても、「全ては自然のままにほったらかしにしておけばよろしい。」などという無為無策な満足に陥って良いことの論拠には成り得ない。
生物学の「実験。」などというのは、チンパンジーの利他行動の「立証。」と同様に、実験者の観念に都合の良い実験結果だけを集めてくるようなものが圧倒的に多く、また、フィールドでの観察であっても、結局は「現在の生物相、環境。」という「結果。」以外は観察不可能なのである。
どんなに大量の「結果。」を抽出枚挙したところで、それが「結果。」以上の何かになることの論理的証明になどならないのである
生物というもの、自然環境というものは、極めて複雑な系の結果しか観測することはできず、決して短絡的な結論を導き出せるような簡単なものではない。ところが生物学に限っては異常なまでに短絡的帰結がまかり通っており、他の科学分野と比べて厳密性が異常に低く。また、そうした傾向が内部で蔓延しているのである。
生物学における「優秀な遺伝子を遺すため。」などという話においても、たとえ結果的に優秀な遺伝子、環境調和の方向性を持っている個体への淘汰が働いたとしても、それは優秀ではない遺伝子、環境調和ができなかった個体の自然選択の結果であって、個々の個体が意図的、意識的に目的行動選択を行った結果であることの論証にはなっていない。
現在の自然環境における生物の習性傾向性としての環境調和性をどんなに枚挙しても、各々の個体の意識的「目的。」が環境調和である必要性は全くなく。結果として環境調和がとれてさえいれば良いのであって、個々の個体の目的行動選択は立証したことにはならないのである。
どんなにたくさんの生物学者が支持していようとも、理論的に間違った論証をどんなに多数抽出枚挙しても、理論的、科学的に証明されたことにはならないのである。
むしろ、結果的な習性の結果として環境調和に至っているからこそ、自然環境というのは非常に脆弱なのであり。個々の個体は環境の変化に対する対応能力がないということは、個々の個体には初めから「目的意識。」など存在しないことの証明でもある。
環境の変化に対して、行動習性の暴走を促したりしてしまうのは。習性自体が極めて機械手続き的な条件反射行動であるからであり。現在の自然界における生物相の調和というものも、それぞれの個体の習性同士の結果的な調和でしかないのである。
従って、どんなに生物学的な結果論を抽出枚挙したところで、「本能のおもむくままにしておけば、全ては調和することが可能である。」かのような生物学のプロパガンダはオカルトでしかないのである。
そもそも生物学者というのは物質文明の暴走した現代社会が嫌いである傾向があり。そのために「ヒトが異常行動をするのは、現代社会に適応するまでに何万年かかるかわからない。」などと、ヒトの行動の全てを習性本能だけで論じようとするのである。
それなら一体何のための「教育。」なのであろうか。現代社会に適応して、社会の調和、地球環境との調和をするための「教育。」であるはずなのだが。現実には単なる成績評価という「エサ。」で釣るだけの、いわば習性本能を利用した「猿まわし。」で満足しているだけなのである。特定環境を作り出せば、ヒトは高い学力を得ることが可能である。だが、それは環境依存性の「結果。」でこそあれ、当人の「目的。」意識に基づく結果としての学力知識とは同じではない。
ヒトの脳には可塑性がある。小脳や辺縁系とは異なり、大脳というのは初期的には白紙であるのは、後天的能力獲得の拡大が生存に適していたことの証明である。だが、単純に生存だけを論じておけば、それが異常繁殖、異常発生を促し大絶滅に至る可能性も含まれているのである。
単なる「生存。」だけを絶対価値に置いた生物学の指向というのは、極めて偏った価値観に囚われており、何ら科学的でもなければ論理的でもなく。また、公益的でもない。
論理的根拠の乏しい絶滅予言に、一体何の公益的価値が存在するであろうか。
子孫に対して将来的負担がかかることを「知って。」いながら、その負担を軽減することを忘れ、目先の景気や、安価な原子力にしがみつく現代社会の大人達は、その意識が極めて目先のことしか見ておらず。また、「生まれて今まで、ずっとそういう環境に育ったから。」などというのは、環境依存性丸出しの無意識性による精神の怠慢であり。無為無策を生み出す元凶でもある。
環境に依存せず、自律的に行動を選択できるからこそ「人間。」なのである。たとえどんなにたくさんの「自律行動選択ができないヒト。」を抽出枚挙したとしても、これからも永遠にそれが不可能であることの論証には全くならない。
現代社会に問題があるのであれば、一体何処に、どのような問題があるのかを突き止め。具体的にどのようにすれば問題を解決することが可能であるかのかを導き出すことも不可能ではない。絶対可能であるとも言えないが、不可能である論証がない限り、可能性にかけるからこそ「意思。」なのである。
それに対して、「人類は絶滅する。」などと称して、唯無為無策に諦める生物学というのは、本能習性のおもむくままに生きることだけが「自由。」であると勝手に妄想しているオカルト宗教でしかないからである。
生物学者というのは自然界が大好きであるため、自己の存在が自然という「神。」の産物であり、自然という神が与えたもうた本能習性こそが絶対であると信じ込んでいたいのであろう。そうなれば意識の存在など「あってはならない。」のであり、他の動物同様に、本能習性のおもむくままに生きていさえすれば「正しい。」ことにしておきたいのである。
だが、そのために戦争や犯罪といった問題行動への対処を放棄し、無為無策を促して思考停止して、気分的満足、安心のまどろみに溺れていて良いわけがない。
公益性を持たない学問であるならば、それは公費を投じて行うべきものではない。宗教がやりたいのであるならば、信者達からお布施でも募って宗教法人でも設立してやればよいのである。宗教法人であれば税金は免除されるのであるから、気兼ねなく研究すればよろしい。
ウィキペディアにもあるように、生物学における目的論というのは、「簡潔に説明するための比喩であり、何かを論証するためのものではない。」のである。つまり最初から何にも論証するつもりもない話を元に、勝手に結論をでっちあげているのが現状なのである。
「生存戦略。」などの言い回しも、あくまで比喩であり、何ら論証するようなもではないのである。
何の論証もない話は、そもそも科学理論ではないし。何かの役に立つ話ですらないのである。
私は宗教家ではないから、決して創造論を支持することはない。むしろ現在の生物学が理論的に間違っているからこそ創造論者の反論を許してしまうことになるのである。現在の生物学自体がオカルトである以上、創造論者との対立であってもどちらも間違いであり、全く不毛な論争でしかない。
ウィキペディアには以下の部分もあった。
ある与えられた環境で、ある個体がこれから残すであろうことが期待される子の数によって、その 個体の適応度を定義している。生存のための努力には、自己あるいは自己の属する種の生存により有利な環境を作り 出していくことも含まれているが、適者生存という場合、むしろ所与の環境における適応度が問題とされており、環 境そのものの変化によって、適者は変遷することになる。
適者というものが常に変遷するということは、究極の結果すらも存在しえないということである。そんな話から目的について論ずることなど原理的に不可能なのである。
そもそも結果と目的を、ギリシャ語の語源では区別していないらしく、それが理解を阻んでいる可能性がある。運命論的に結果を全てとする結果論絶対主義的「目的。」というものは、そこに個人の目的意識としての選択を伴う「目的。」が含まれておらず、そこから目的について論ずること自体が原理的に不可能であり、全く不毛なのである。
何度も言うが、どんなにたくさんの結果を抽出枚挙しても、そこから意識的な目的選択行動などというものは短絡的に抽出されるものではない。
そもそも、「生存のための努力。」というものを、人間以外の個体が意識的に選択している論証が全くないのである。環境変化によって条件反射的な行動習性が生存に適さない場合というのは決して少なくはない。だからこそ自然環境というものは脆弱なのである。
人間以外の、ヒトを含むあらゆる動物というものは、予め組み込まれた本能習性に基づく行動以外を選択することができない。できないから「人間。」ではないのである。
「より有利な環境。」というものを作り出している場合であっても、それは意識的に作り出した論証があるわけではなく。組み込まれた本能習性行動の結果として作り出して「しまっている。」だけと考える方が、より多くの事柄を説明可能なのである。
人類は、今まで意識的な行動選択というものをあまりしてこなかった。そもそも意識的行動選択とは何かすら明確には認識していないのであるから、むしろ当然の結果であろう。
その結果だけを多数抽出しても、意識的行動選択が絶対に出来ないことを証明し得ない。
人類は自滅の道筋を認識することが可能である。自らの行動が不利な環境を作り出すことを認識できる以上、不利な環境にならないように回避することが不可能である証明など存在しない。
生物学者の勝手な観念というものは、人間が行うあらゆる環境対策を無駄であると決め付けていることになるのである。これは環境対策を行うあらゆる人に対する侮辱でもある。多くの人達は、それがそれであるということさえ認識していない。
文系マスコミと迎合して、現在の生物学の指向を放置するというのは、オカルトのプロパガンダでしかないのである。
理論的に考えることの嫌いな大衆マスコミの「人気。」を、従来の生物学は得ることが可能なのであろう。「ヒトという種の生物は、素晴らしい。」などとしておけば、どんなに愚かなバカであっても存在価値があるかのような錯覚を促すからであろう。
生物的にどんなに高度な「性能。」を論じても。それが人間として、社会や地球環境との調和が可能であることの論証にはならない。たとえ通り魔であってもカルト宗教の教祖であっても、生物的には「ヒト。」であることに何ら変わりはない。
生物種としての「ヒト。」の優位性をどんなに枚挙しても、そこから「人間とは何か。」に言及することは原理的に不可能なのである。
たとえ先天的疾患を持っているとして、それが「ヒト。」としては不完全であるとしても、「人間。」として不完全であることの論証にはならない。
現在の生物学の正義を振り回している限り、「人間とは何か。」について、永遠に論ずることはできないのである。それは犯罪や戦争、或は組織的習性に由来するあらゆるヒトの過ちの全てを放置することを意味する。
認知科学や脳科学というジャンルにおいても、その基礎は生物学である。澤口俊之は従来の生物学の指向を鵜呑みにしており、故に実験的多数抽出という「実証。」結果を、短絡的に論理的「立証。」であると言い張るのである。
澤口は養老を批判するどころか、むしろ称賛していたのである。こんなバカを脳科学者扱いしておくのはトンデモない大間違いである。
大脳辺縁系の傾向性をどんなに並べても、それは気分的な傾向性しか抽出されることはない。多くの人は「個人的好き嫌い=行動。」という短絡的な行動選択しかしないことを枚挙しても、それ以外の行動が不可能であることの論証には一切ならないのである。
バカをどんなに大量に抽出枚挙しても、「ヒトの全てはバカである。」ことの論証にはならない。
ヒトは科学的認識の拡大によって、環境の激変を予測し、予め対応を採ることが不可能ではない。可能かどうかは、「やってみなくちゃ、わからない。」
だが、ヒトの多くは「わからないことは、やりたくない。」と称して、すぐに精神的な怠慢をしようとする。学力や学歴には執着するくせに、自発的に「考える。」ことは嫌いなのである。ゆえに「思い込み。」のまどろみに浸って満足する。
「ヒトとはそういうものである。」のだろう。人の意識の9割以上は無意識であり、本能感情が優先する「傾向性。」がある。こうした「傾向性。」に抗う本質的意識なくして、自らの行動を変化させ、対処対応することなど不可能である。
現在の生物学の支離滅裂な指向を許すというのは、人類のあらゆる可能性を否定する気分的怠慢を促すものである。
私は生物学自体を否定するわけではない。私が否定しているのは勝手な結論を導きだしておいて科学であると言い張る傲慢さを否定しているのである。
自然環境がどのようなものであるのか、生物相がどのようなものであるのかといった結果が知りたいのであれば、それは純粋に結果だけを報告発表していれば良いのである。一面的結果から勝手に結論をでっち上げる傲慢さを棄てろと言っているのであって、世間的なウケ狙いで「人間とは何か。」に言及しようとする姑息さが傲慢だと言っているのである。
本当に「人間とは何か。」を論じても、実際このブログのように世間的にはウケが良いわけではない。100IP程度のアクセスしかない話など、ネット上には存在しないも同然であり、ウケ狙いとしては「人間とは何か。」というのは本当は割が合わないものなのである。
ウケを狙いたいのであれば、「元気が出る。」だの「勇気がわく。」だの「前向きに生きられる。」ような、気分的な高揚を促すペテン話の方が効率は良い。
無論、糞の役にも立つことはない。