先日、昼間にたまたまテレビを点けてみたら、NHK高校講座という番組でノーベル賞受賞者の益川教授が「何でも興味を持つことは大切だけれど、嫌いなことはそんなにやらなくても、好きなことや得意なことを伸ばす方が大切。」って言っていた。
益川氏はどこぞの進学校の講師とは違って学力ビジネス利権に冒されていない純粋な意見ですから、とても重要なことです。
学力ビジネス利権に関わる大人達であれば、平均的に何でも成績が良いことを求めるんだけど、これは生徒の学力向上や大学合格率などが自分の成績利益に直結する者の論理であって、極めて不純で偏った意見なのです。
ところが教育者の多くは生徒の純粋な自発性なんぞどうでも良くて、自発性の欠落に起因する自律的な社会的責任判断選択が出来ないようなバカに育っても、「俺の知ったことではない。」とばかりに無視するわけです。
ヒトは誰しも万能ではありません、ノーベル賞受賞者であっても学力に偏りがあるのはむしろ必然であって。世の中というのはそれぞれの得意分野を補い合うことで、より良い社会が作れるのであり。なをかつ個人に「自律」の意識が働くことで社会の安全性も高められるのです。
どんなに学力が平均的に高くて偏差値が高くても、自律的に自分の行動を検証することが出来なければ無差別殺人犯になることは珍しいことではありません。
一人の無責任な者のために、社会全体が危険に晒されることも珍しいことではありません。人間の社会にとって最も重要なのは、個人が自律的に社会的責任判断選択を行い、目先の多数派の意見や目先の利益に流されることのない「人間」としての意識を持った人がより多く存在することです。
「自律」とは自発性や主体性の中にあって、他にはありません。これは定理です。
得意分野を伸ばしてノーベル賞などの社会的評価を得ることを目的にしてはいけません。ノーベル賞をとるためには、誰もやったことのない領域に踏み込まなければならないのであって、そこは誰にも踏み荒らされていないのと同時に、泥まみれの茨の道でもあるのです。
学力ビジネス校の理事が言っていた言葉に、「生徒にはたくさんの成功体験をさせたい。」などというのがありましたが。本当に大切なのは失敗を何度してもくじけない自発性や主体的意欲こそが意識(自発的論理検証性)を育てるのであって。むしろノーベル賞受賞者の山中伸弥教授は「たくさん失敗して下さい。」と述べているわけです。
東京電力に入社して、原発の危険性を放置するような組織体質に気付いたとすれば、これも一種の「失敗体験」です。その失敗に対してどう立ち向かうのか、失職してでも社会安全性を優先するのか、それとも「自律的に社会的責任判断選択を行う。」のか、そこに「人間」としての本当の価値が存在するのです。
進学校で成功体験しかしていないヒトであれば、失敗に対してどのような選択を行うでしょうか。就職氷河期の現在に、失職をしてまで社会安全性を優先すべきなのかを秤にかけている時点で人間とは言えないのです。
遺伝の研究で有名なメンデルは、生前評価されることはありませんでしたし。地動説で有名なガリレオも教会から火炙りにされそうになりました。ナチスに反対した哲学者のベンヤミンもスイス山中で自決せざるを得ませんでした。
世の中の多数派がバカであれば、どんなに正しいことをしても世間的には成功することはありません。
軽薄な漫画家は「自己犠牲が大切」などと言いますが、正しいことをして犠牲になる原因というのは、多数派がバカだからに他なりません。
犠牲は「結果」です。「目的」にすり替えるのは論理的に支離滅裂であって、犠牲を美化する大衆迎合であり、無責任な「はぐらかし」に過ぎないのです。
多数派のヒト達は、自分達の頭が悪いから特定個人に犠牲や責任をなすりつけて美化しておけば、頭の悪さの免罪符にでもなると錯覚妄想しているのです。こうした錯覚こそが、社会を崩壊へと導くことを、多くのヒトが認識しなければならないのです。
意識の本質というのは、気分的満足ではなく。自発的で客観的な論理検証性であり、これを伴わないあらゆる意識の全ては条件反射的な無意識なのです。
「やさしい気持ちになれたかどうか。」などというのは、DV男が散々暴力を振るった後に、テストステロンを消費した結果セロトニンが分泌されて副交感神経が刺激されているのと同じ状態に過ぎません。
たとえどんなに精神的恐慌をきたすような過酷な状況に陥ってでも、自律的に社会的責任判断選択を行える「人間」が存在しなければ、社会は必ず崩壊に至ります。
ヒトという種の生物が形成する社会は「ヒト社会」ではあっても、人間がいなければ「人間社会」ではないからです。
原発事故などの「人災」というのは、崩壊の序章に過ぎません。これから起こり得る世界の崩壊を食い止めるためには、一人一人の意識(自発的論理検証性)を発揮して頂く他に選択の余地など存在しません。
人間のいない社会というのは、誰も責任を取らず、何の保証もない社会です。法律という機械手続きでどんなに厳罰化を推進しても、その罰が論理的には再犯防止に全く寄与しないという根源的構造原理に誰も意義を唱えない限り、何十年の懲役刑を全うしても、再犯の責任は誰も取ることはありません。
これって税金の無駄遣いなんですよ、わかっているんでしょうかね。
Ende;
益川氏はどこぞの進学校の講師とは違って学力ビジネス利権に冒されていない純粋な意見ですから、とても重要なことです。
学力ビジネス利権に関わる大人達であれば、平均的に何でも成績が良いことを求めるんだけど、これは生徒の学力向上や大学合格率などが自分の成績利益に直結する者の論理であって、極めて不純で偏った意見なのです。
ところが教育者の多くは生徒の純粋な自発性なんぞどうでも良くて、自発性の欠落に起因する自律的な社会的責任判断選択が出来ないようなバカに育っても、「俺の知ったことではない。」とばかりに無視するわけです。
ヒトは誰しも万能ではありません、ノーベル賞受賞者であっても学力に偏りがあるのはむしろ必然であって。世の中というのはそれぞれの得意分野を補い合うことで、より良い社会が作れるのであり。なをかつ個人に「自律」の意識が働くことで社会の安全性も高められるのです。
どんなに学力が平均的に高くて偏差値が高くても、自律的に自分の行動を検証することが出来なければ無差別殺人犯になることは珍しいことではありません。
一人の無責任な者のために、社会全体が危険に晒されることも珍しいことではありません。人間の社会にとって最も重要なのは、個人が自律的に社会的責任判断選択を行い、目先の多数派の意見や目先の利益に流されることのない「人間」としての意識を持った人がより多く存在することです。
「自律」とは自発性や主体性の中にあって、他にはありません。これは定理です。
得意分野を伸ばしてノーベル賞などの社会的評価を得ることを目的にしてはいけません。ノーベル賞をとるためには、誰もやったことのない領域に踏み込まなければならないのであって、そこは誰にも踏み荒らされていないのと同時に、泥まみれの茨の道でもあるのです。
学力ビジネス校の理事が言っていた言葉に、「生徒にはたくさんの成功体験をさせたい。」などというのがありましたが。本当に大切なのは失敗を何度してもくじけない自発性や主体的意欲こそが意識(自発的論理検証性)を育てるのであって。むしろノーベル賞受賞者の山中伸弥教授は「たくさん失敗して下さい。」と述べているわけです。
東京電力に入社して、原発の危険性を放置するような組織体質に気付いたとすれば、これも一種の「失敗体験」です。その失敗に対してどう立ち向かうのか、失職してでも社会安全性を優先するのか、それとも「自律的に社会的責任判断選択を行う。」のか、そこに「人間」としての本当の価値が存在するのです。
進学校で成功体験しかしていないヒトであれば、失敗に対してどのような選択を行うでしょうか。就職氷河期の現在に、失職をしてまで社会安全性を優先すべきなのかを秤にかけている時点で人間とは言えないのです。
遺伝の研究で有名なメンデルは、生前評価されることはありませんでしたし。地動説で有名なガリレオも教会から火炙りにされそうになりました。ナチスに反対した哲学者のベンヤミンもスイス山中で自決せざるを得ませんでした。
世の中の多数派がバカであれば、どんなに正しいことをしても世間的には成功することはありません。
軽薄な漫画家は「自己犠牲が大切」などと言いますが、正しいことをして犠牲になる原因というのは、多数派がバカだからに他なりません。
犠牲は「結果」です。「目的」にすり替えるのは論理的に支離滅裂であって、犠牲を美化する大衆迎合であり、無責任な「はぐらかし」に過ぎないのです。
多数派のヒト達は、自分達の頭が悪いから特定個人に犠牲や責任をなすりつけて美化しておけば、頭の悪さの免罪符にでもなると錯覚妄想しているのです。こうした錯覚こそが、社会を崩壊へと導くことを、多くのヒトが認識しなければならないのです。
意識の本質というのは、気分的満足ではなく。自発的で客観的な論理検証性であり、これを伴わないあらゆる意識の全ては条件反射的な無意識なのです。
「やさしい気持ちになれたかどうか。」などというのは、DV男が散々暴力を振るった後に、テストステロンを消費した結果セロトニンが分泌されて副交感神経が刺激されているのと同じ状態に過ぎません。
たとえどんなに精神的恐慌をきたすような過酷な状況に陥ってでも、自律的に社会的責任判断選択を行える「人間」が存在しなければ、社会は必ず崩壊に至ります。
ヒトという種の生物が形成する社会は「ヒト社会」ではあっても、人間がいなければ「人間社会」ではないからです。
原発事故などの「人災」というのは、崩壊の序章に過ぎません。これから起こり得る世界の崩壊を食い止めるためには、一人一人の意識(自発的論理検証性)を発揮して頂く他に選択の余地など存在しません。
人間のいない社会というのは、誰も責任を取らず、何の保証もない社会です。法律という機械手続きでどんなに厳罰化を推進しても、その罰が論理的には再犯防止に全く寄与しないという根源的構造原理に誰も意義を唱えない限り、何十年の懲役刑を全うしても、再犯の責任は誰も取ることはありません。
これって税金の無駄遣いなんですよ、わかっているんでしょうかね。
Ende;