○進化論的合理性なんぞ実存しない。
進化生物学が立証出来るのは、構造原理的に「結果」だけであって、単なる自然淘汰の「結果」に論理的根拠が介在する余地は一切ない。
従って、進化論的合理性などというものは存在しないのである。
進化(変化)がもたらす結果としての「生存」自体に何らの合理性も存在せず、そこにあるのは単なる「結果」以上の何物でもない。
生物とは、結果的に生存していたものを生物と分類しているだけであって。生物自体に意識的「目的」が存在する論理的根拠は全くない。
生物の遺伝子は環境によって淘汰された「結果」であって、生物個体には遺伝要素の選択は構造原理的に不可能であり。本能的欲望や習性、行動バイアスなどにおいても淘汰の「結果」であって、これらには主体的論理検証的意思選択が介在する余地はなく。どのように合理的なように見える断片的「結果」を抽出枚挙して来ても、生物進化という「結果」から「目的」を論証することは構造原理的に不可能である。
特定環境への最適化であれば、特定環境ありきの最適化でしかなく、絶対的最適化には全くならない。
それが証拠に生物のほとんどは、環境変化に対して非常に脆弱であり。僅かな環境変化に対して環境もろとも自滅することは珍しくはない。
進化生物学的最適化などというのは、進化生物学者の妄想であって。こんな話を鵜呑みにする経済学者もまた科学者としてポンコツである。進化生物学的最適化の末路というのは何の保証もない「結果」だけであって、絶滅破綻しても誰も責任を持たないという意味でもある。
生物進化というのは膨大な時間の無駄遣いの果てに偶発的に調和した「結果」であって、そこに「目的」意識的選択が介在する余地など構造原理的に有り得ない。
ニューロエコノミクスなどというのは文科系大衆観念上の妄想錯覚に過ぎず、脳の報酬系という「結果」をどんなに陳列枚挙しても、そこから合理性を伴った「目的」意識を立証することは出来ない。進化という偶発的結果任せにするということは、たとえ絶滅したとしても誰も責任を取らないということであり無責任極まりないオカルト観念である。
多数のヒトの行動バイアスの結果から、金儲けの手段手口を発見しても、金儲け自体が本能欲望であって論理的合理性など存在しない。意識的(論理検証的)目的行動選択が介在しない限り、結果をどんなに陳列枚挙しても結果以上の何も論ずることは出来ず、何ら合理的対策にはつながらず、目的のない無為無策な結果主義に陥るだけである。
どんなにヒトの無意識な行動バイアスという「結果」を並べても、ヒトが多数傾向以外の自律的目的行動選択が不可能であることの論証には全くならず。いうなれば「バカがもたらす結果」以上の何も論証出来ない。
現在の経済学や進化生物学の論理検証性の欠落を指摘出来ないのであれば、もはや大学学長として無能と言わざるを得ない。東京大学も放送大学もである。
現状の経済学や進化生物学上における評価には、科学的論理検証性がほとんど働いておらず、学問としての呈をなしておらず。これは血税の浪費に他ならない。
Ende;
進化生物学が立証出来るのは、構造原理的に「結果」だけであって、単なる自然淘汰の「結果」に論理的根拠が介在する余地は一切ない。
従って、進化論的合理性などというものは存在しないのである。
進化(変化)がもたらす結果としての「生存」自体に何らの合理性も存在せず、そこにあるのは単なる「結果」以上の何物でもない。
生物とは、結果的に生存していたものを生物と分類しているだけであって。生物自体に意識的「目的」が存在する論理的根拠は全くない。
生物の遺伝子は環境によって淘汰された「結果」であって、生物個体には遺伝要素の選択は構造原理的に不可能であり。本能的欲望や習性、行動バイアスなどにおいても淘汰の「結果」であって、これらには主体的論理検証的意思選択が介在する余地はなく。どのように合理的なように見える断片的「結果」を抽出枚挙して来ても、生物進化という「結果」から「目的」を論証することは構造原理的に不可能である。
特定環境への最適化であれば、特定環境ありきの最適化でしかなく、絶対的最適化には全くならない。
それが証拠に生物のほとんどは、環境変化に対して非常に脆弱であり。僅かな環境変化に対して環境もろとも自滅することは珍しくはない。
進化生物学的最適化などというのは、進化生物学者の妄想であって。こんな話を鵜呑みにする経済学者もまた科学者としてポンコツである。進化生物学的最適化の末路というのは何の保証もない「結果」だけであって、絶滅破綻しても誰も責任を持たないという意味でもある。
生物進化というのは膨大な時間の無駄遣いの果てに偶発的に調和した「結果」であって、そこに「目的」意識的選択が介在する余地など構造原理的に有り得ない。
ニューロエコノミクスなどというのは文科系大衆観念上の妄想錯覚に過ぎず、脳の報酬系という「結果」をどんなに陳列枚挙しても、そこから合理性を伴った「目的」意識を立証することは出来ない。進化という偶発的結果任せにするということは、たとえ絶滅したとしても誰も責任を取らないということであり無責任極まりないオカルト観念である。
多数のヒトの行動バイアスの結果から、金儲けの手段手口を発見しても、金儲け自体が本能欲望であって論理的合理性など存在しない。意識的(論理検証的)目的行動選択が介在しない限り、結果をどんなに陳列枚挙しても結果以上の何も論ずることは出来ず、何ら合理的対策にはつながらず、目的のない無為無策な結果主義に陥るだけである。
どんなにヒトの無意識な行動バイアスという「結果」を並べても、ヒトが多数傾向以外の自律的目的行動選択が不可能であることの論証には全くならず。いうなれば「バカがもたらす結果」以上の何も論証出来ない。
現在の経済学や進化生物学の論理検証性の欠落を指摘出来ないのであれば、もはや大学学長として無能と言わざるを得ない。東京大学も放送大学もである。
現状の経済学や進化生物学上における評価には、科学的論理検証性がほとんど働いておらず、学問としての呈をなしておらず。これは血税の浪費に他ならない。
Ende;