[あらすじ] お友達とダベることを楽しまない母86歳、
ショートステイ中に「ただ聞いていればいい」と気付いた。
いろんな他人の苦楽の経験談を聞くことは、自分の幸せにつながると思う。
サンスクリットのテキストにも、そんな例文が出てきた。
दुःखी दुःखाधिकान् पश्येत् सुखी पश्येत् सुखाधिकान् ।
आत्मानं हर्षशोकाभ्यां शत्रुभ्यामिव नार्पयेत् ॥
duḥkhī duḥkhādhikān paśyet sukhī paśyet sukhādhikān ।
ātmānaṃ harṣaśokābhyāṃ śatrubhyām iva nārpayet ॥
出典がわからないので、探していた。
『リグ・ヴェーダ』の注釈をしたとして名高いサーヤナという14世紀インドの哲学者のまとめた、
『सुभाषितसुधानिधि subhāṣitasudhānidhi』の中の一節のようだが、
もうちょっと調べないと確かなことは言えない。けどメモ代わりにここに書いちゃえ。
ついでに、一行目のduḥkhīはduḥkheの、sukhīはsukhe誤りではないかと思われる。
デーヴァナーガリー文字での形がकीとकेで似てるっちゃ似ているから間違えたものだろうか。
※
この例文が出てきた、平岡昇修著『サンスクリット・トレーニング』シリーズは、
日本語でサンスクリットを独習するための貴重なテキストだと思う。
シリーズ最終の第III巻は分厚い。
そして、誤記が多い。
なんらかの事情で出版を急いだんじゃないかな、と憶測している。
III巻の後に『虎の巻』という解答と解説の巻も出版しており、
ここで訂正されている部分も多い。
しかしそれでもまだ間違いが有る。
著者のインターネットサイトで、正誤表を発表しているが、
なおかつまだ見落としが有るようだ。
著者の周りの学生さんがチェックしているのではないかな、と憶測している。
するとお坊さんが多いのかしら、と憶測は膨らむ。
※
ここでduḥkhīはduḥkhinの変化形N格で「不幸な者は」としているのだろうけれど、
どうも、この形で検索しても、この一節がヒットして来ない。
duḥkheはduḥkhaのL格で「困難の時には」という意味だろう。
もうちょっと調べないと確かなことは言えない。けど自習ノート代わりにここに書いちゃえ。
※
この一節を紹介しているサイトが見つかった。
Sanskrit Pearl of the dayという。
「サンスクリット珠玉の名言集」ってなとこだろう。
毎日なにかしらの古典の一節を紹介して、
英訳して英語で解説しているようだ。
このラシュミ・カーシさんの解説をざっと訳してみる。
ー
困難の時には、もっとつらい目に遭っている人を見て、自分を慰めるべし。
裸足で歩くのがつらいなら、靴を履く脚も無い人のことを思え。謙虚にもなるだろ。
同様に、金が有り余って財産が自慢なら、もっと豊かでなおかつ謙虚な王様のことを思え。
そうすれば傲慢の芽が摘み取れるだろう。
敵に直面した時、敵への贈り物のように諦めてしまうだろうか?
ならばなぜ、日常のいたみやよろこびに我々自身を差し出し、捕らわれ流されてしまうのか。
いつも思い出そうー必ず過ぎ行くものなのだ、と。
いたみであれよろこびであれ、終わりの日は来る。
一旦達したら、潮目は変わる。
それなら永久に続くわけでもないものに囚われるのは何の役に立つというのか。
苦しい一時間は、楽しい一日ほどにも長く感じられる、もしも身を任せてしまえば。
成功の秘訣は、苦楽に振り回されるかわりに、いかに苦楽を扱うか、である。
そうすれば、あなたはあなたの人生を思うままにすることができる。
そうしなかったら、あなたは人生に翻弄される。
ー
はーい。
ショートステイ中に「ただ聞いていればいい」と気付いた。
いろんな他人の苦楽の経験談を聞くことは、自分の幸せにつながると思う。
サンスクリットのテキストにも、そんな例文が出てきた。
दुःखी दुःखाधिकान् पश्येत् सुखी पश्येत् सुखाधिकान् ।
आत्मानं हर्षशोकाभ्यां शत्रुभ्यामिव नार्पयेत् ॥
duḥkhī duḥkhādhikān paśyet sukhī paśyet sukhādhikān ।
ātmānaṃ harṣaśokābhyāṃ śatrubhyām iva nārpayet ॥
出典がわからないので、探していた。
『リグ・ヴェーダ』の注釈をしたとして名高いサーヤナという14世紀インドの哲学者のまとめた、
『सुभाषितसुधानिधि subhāṣitasudhānidhi』の中の一節のようだが、
もうちょっと調べないと確かなことは言えない。けどメモ代わりにここに書いちゃえ。
ついでに、一行目のduḥkhīはduḥkheの、sukhīはsukhe誤りではないかと思われる。
デーヴァナーガリー文字での形がकीとकेで似てるっちゃ似ているから間違えたものだろうか。
※
この例文が出てきた、平岡昇修著『サンスクリット・トレーニング』シリーズは、
日本語でサンスクリットを独習するための貴重なテキストだと思う。
シリーズ最終の第III巻は分厚い。
そして、誤記が多い。
なんらかの事情で出版を急いだんじゃないかな、と憶測している。
III巻の後に『虎の巻』という解答と解説の巻も出版しており、
ここで訂正されている部分も多い。
しかしそれでもまだ間違いが有る。
著者のインターネットサイトで、正誤表を発表しているが、
なおかつまだ見落としが有るようだ。
著者の周りの学生さんがチェックしているのではないかな、と憶測している。
するとお坊さんが多いのかしら、と憶測は膨らむ。
※
ここでduḥkhīはduḥkhinの変化形N格で「不幸な者は」としているのだろうけれど、
どうも、この形で検索しても、この一節がヒットして来ない。
duḥkheはduḥkhaのL格で「困難の時には」という意味だろう。
もうちょっと調べないと確かなことは言えない。けど自習ノート代わりにここに書いちゃえ。
※
この一節を紹介しているサイトが見つかった。
Sanskrit Pearl of the dayという。
「サンスクリット珠玉の名言集」ってなとこだろう。
毎日なにかしらの古典の一節を紹介して、
英訳して英語で解説しているようだ。
このラシュミ・カーシさんの解説をざっと訳してみる。
ー
困難の時には、もっとつらい目に遭っている人を見て、自分を慰めるべし。
裸足で歩くのがつらいなら、靴を履く脚も無い人のことを思え。謙虚にもなるだろ。
同様に、金が有り余って財産が自慢なら、もっと豊かでなおかつ謙虚な王様のことを思え。
そうすれば傲慢の芽が摘み取れるだろう。
敵に直面した時、敵への贈り物のように諦めてしまうだろうか?
ならばなぜ、日常のいたみやよろこびに我々自身を差し出し、捕らわれ流されてしまうのか。
いつも思い出そうー必ず過ぎ行くものなのだ、と。
いたみであれよろこびであれ、終わりの日は来る。
一旦達したら、潮目は変わる。
それなら永久に続くわけでもないものに囚われるのは何の役に立つというのか。
苦しい一時間は、楽しい一日ほどにも長く感じられる、もしも身を任せてしまえば。
成功の秘訣は、苦楽に振り回されるかわりに、いかに苦楽を扱うか、である。
そうすれば、あなたはあなたの人生を思うままにすることができる。
そうしなかったら、あなたは人生に翻弄される。
ー
はーい。
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