どういうタイミングだか分からないのだが、腰の痛みが引いた。
※
先々週、特別養護老人ホームで暮らす母を
3ヶ月に1回、大学病院に連れて行く日が有った。
以前は、この日が気重で、
受信日の1週間前くらいからなんとなく気分も身体も
重たく冴えなくなった。
受診が2ヶ月に1回から3ヶ月に1回に減り、
負担が軽くなった。
また、3ヶ月前の前回の受診時に母と会話していたら、
いろいろな記憶がすっぽ抜けていることが分かった。
ケアマネージャーさんの言うように、認知症状が進んできているようだ。
そんなら、母が子どもだった頃の話をもっと聞いてみようかな、
などと考えたりした。
ムカシばなしをするのは楽しい。
本人が楽しく話してくれるから、聞いていても楽しく、
質問を重ねることもできる。
なまじっか意欲が有ると、
「夫の没後十年文集を作りたい。
縁の有った人達に原稿を募って云々」と
本人の力では不可能な事を言い始めてしまう。
あるいは「今日はうまくしゃべれない」、
なぜ今日はうまくしゃべれないかの説明をずっとしゃべる。
という非常に矛盾した話を延々と聞かされたりする。
受け流しときゃ良いのだが、
けっこう引っ掛かってしまったりする。
それが、少々ボケたせいか、会話が楽になった。
ひどく煙たく思っていた母が、ちょいと愛おしく見える時すら有るようになった。
髪が乱れていたらちょいと撫でてやったりもできる。
※
しかし今回の受診の朝、
車椅子から乗用車の助手席への移乗の際のこと。
ケアマネージャーが移乗させてくれている、
その背後から更にサポートしようとした。
パーキンソン病で思うように身体が動かせない状態である。
「お膝を曲げられますかー?」と声掛けしてもらっても、
脚は突っ張ったままである。
その脚を曲げるために、私はいつも
介護者の更に背後から、自分の足を使って蹴り上げるような形で
母の足を車に収めていた。
今回も同じ動作をしたら、
途端に腰に痛みが走った。
※
その日はその後、病院に着いて車から車椅子への移乗、
病院から帰るために車椅子から車への移乗、
ホームに着いて車から車椅子への移乗を、
私はぎゃん痛む腰で行った。
夕方、犬の散歩に出た。
歩くと、左の股関節が外れそうな不安感が有って、痛い。
椅子に腰掛けているのもしんどい、という状態が数日続いた。
ああ、これは一般的に言うぎっくり腰ってヤツ?
でもまあ心因性だよね、と私は思う。
だから、動いたらどうこうなるわけではない。と思うので、
重い物を持って腰が痛かったり、歩いて痛かったりしても、
あまり心配には思わない。
でも早く治って欲しい。
だから、「これは脳の創り出した痛みである」ということを
繰り返し繰り返し思い返したり、
自分のできる治療法を続けてみたりした。
じわじわとマシになったが、解決するというほどの変化は無い。
初日の痛みが10だとしたら、7くらいがずっと続いた。
※
物理的な負荷が掛かった、という事が有っても、
その物理的な負荷が腰痛の原因かというと、そうでもなかったりする。
「物理的な負荷が有ったんだから」と思うことで、
心因性の痛みである、という選択肢が捨てられる。
心の問題に直面することは、しんどい。
しんどい作業を回避するために、脳は、当面最大の問題として身体に強い痛みを起こす。
痛いと他のこと考えらんないもんね。
この構造を知ることで、
私は以前、10年ほど続いていた腰痛から脱け出すことができた。
今はどうだ。
今回も同じようにできるんじゃないか?
※
いや、今回は、その構造を知ることだけでは痛みを消せないかもしれない、
心の問題そのものに対面する必要が有るんじゃないだろうか?
では今この痛みの原因となっている心の問題って、何だろう?
わー、私の心の問題なんて、あれこれ有ってどれが今の痛みと関連しているのかなんて、
見当もつかないわい。
とりあえず、心の問題を片っぱしから当たってみるか。
※
いや、そこにこだわり過ぎてやしないだろうか。
この腰痛は心因性、ということ、そこにこだわり過ぎなんじゃなかろうか。
そこが心の問題なんじゃないか。
あれ?矛盾している?
とまあ、何日も痛みが続くと、考えがまとまらなくなってくる。
※
10日後の夕方の犬の散歩で歩いていて、
おや?痛みが無い、不安感はまったく無い。
と、気付いた。
何がどう功を奏したのか、分けて考えることは難しいが、
とにかく、急転した。
痛みが出た原因は、痛みが出た時のできごとが原因だと考えることが
当たり前のようである。
だったら、
その日に痛みが引いたのなら、その日のできごとが痛みの引いた原因と考えるのが
当たり前ということになる。
そうかいな。
その日を振り返ってみよう。
つづく
※
先々週、特別養護老人ホームで暮らす母を
3ヶ月に1回、大学病院に連れて行く日が有った。
以前は、この日が気重で、
受信日の1週間前くらいからなんとなく気分も身体も
重たく冴えなくなった。
受診が2ヶ月に1回から3ヶ月に1回に減り、
負担が軽くなった。
また、3ヶ月前の前回の受診時に母と会話していたら、
いろいろな記憶がすっぽ抜けていることが分かった。
ケアマネージャーさんの言うように、認知症状が進んできているようだ。
そんなら、母が子どもだった頃の話をもっと聞いてみようかな、
などと考えたりした。
ムカシばなしをするのは楽しい。
本人が楽しく話してくれるから、聞いていても楽しく、
質問を重ねることもできる。
なまじっか意欲が有ると、
「夫の没後十年文集を作りたい。
縁の有った人達に原稿を募って云々」と
本人の力では不可能な事を言い始めてしまう。
あるいは「今日はうまくしゃべれない」、
なぜ今日はうまくしゃべれないかの説明をずっとしゃべる。
という非常に矛盾した話を延々と聞かされたりする。
受け流しときゃ良いのだが、
けっこう引っ掛かってしまったりする。
それが、少々ボケたせいか、会話が楽になった。
ひどく煙たく思っていた母が、ちょいと愛おしく見える時すら有るようになった。
髪が乱れていたらちょいと撫でてやったりもできる。
※
しかし今回の受診の朝、
車椅子から乗用車の助手席への移乗の際のこと。
ケアマネージャーが移乗させてくれている、
その背後から更にサポートしようとした。
パーキンソン病で思うように身体が動かせない状態である。
「お膝を曲げられますかー?」と声掛けしてもらっても、
脚は突っ張ったままである。
その脚を曲げるために、私はいつも
介護者の更に背後から、自分の足を使って蹴り上げるような形で
母の足を車に収めていた。
今回も同じ動作をしたら、
途端に腰に痛みが走った。
※
その日はその後、病院に着いて車から車椅子への移乗、
病院から帰るために車椅子から車への移乗、
ホームに着いて車から車椅子への移乗を、
私はぎゃん痛む腰で行った。
夕方、犬の散歩に出た。
歩くと、左の股関節が外れそうな不安感が有って、痛い。
椅子に腰掛けているのもしんどい、という状態が数日続いた。
ああ、これは一般的に言うぎっくり腰ってヤツ?
でもまあ心因性だよね、と私は思う。
だから、動いたらどうこうなるわけではない。と思うので、
重い物を持って腰が痛かったり、歩いて痛かったりしても、
あまり心配には思わない。
でも早く治って欲しい。
だから、「これは脳の創り出した痛みである」ということを
繰り返し繰り返し思い返したり、
自分のできる治療法を続けてみたりした。
じわじわとマシになったが、解決するというほどの変化は無い。
初日の痛みが10だとしたら、7くらいがずっと続いた。
※
物理的な負荷が掛かった、という事が有っても、
その物理的な負荷が腰痛の原因かというと、そうでもなかったりする。
「物理的な負荷が有ったんだから」と思うことで、
心因性の痛みである、という選択肢が捨てられる。
心の問題に直面することは、しんどい。
しんどい作業を回避するために、脳は、当面最大の問題として身体に強い痛みを起こす。
痛いと他のこと考えらんないもんね。
この構造を知ることで、
私は以前、10年ほど続いていた腰痛から脱け出すことができた。
今はどうだ。
今回も同じようにできるんじゃないか?
※
いや、今回は、その構造を知ることだけでは痛みを消せないかもしれない、
心の問題そのものに対面する必要が有るんじゃないだろうか?
では今この痛みの原因となっている心の問題って、何だろう?
わー、私の心の問題なんて、あれこれ有ってどれが今の痛みと関連しているのかなんて、
見当もつかないわい。
とりあえず、心の問題を片っぱしから当たってみるか。
※
いや、そこにこだわり過ぎてやしないだろうか。
この腰痛は心因性、ということ、そこにこだわり過ぎなんじゃなかろうか。
そこが心の問題なんじゃないか。
あれ?矛盾している?
とまあ、何日も痛みが続くと、考えがまとまらなくなってくる。
※
10日後の夕方の犬の散歩で歩いていて、
おや?痛みが無い、不安感はまったく無い。
と、気付いた。
何がどう功を奏したのか、分けて考えることは難しいが、
とにかく、急転した。
痛みが出た原因は、痛みが出た時のできごとが原因だと考えることが
当たり前のようである。
だったら、
その日に痛みが引いたのなら、その日のできごとが痛みの引いた原因と考えるのが
当たり前ということになる。
そうかいな。
その日を振り返ってみよう。
つづく
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