犬小屋:す~さんの無祿(ブログ)

ゲゲゲの調布発信
犬のこと、人の心身のこと、音楽や自作のいろいろなものについて

法螺吹かないゲロ吐かない

2021年02月05日 | 毎月馬鹿
四月馬鹿ならぬ「毎月馬鹿」と称して、
毎月一日に法螺を書いていたのだが、今月からやめた。やめてみた。

面白いとか楽しみにしているとか言ってくれる読者も有ったけれど、
一方で、心配するからやめてくれという声や担がれて腹を立ててしまう人のことも
頭から離れなかった。

そうしたら、なんだか筆が鈍ってしまった。

不安がらせたり怒らせたりしたくはない。
それが、遠くの読者だったら私も知らないままだったかもしれないけれど、
適当に声の届く範囲の人の感想だと、耳に入ってくる。
適当に身近な人なら、なおさら心配も迷惑もかけたくない。



思いっきり振り切って「こりゃ有り得ない!」とすぐ分かるような話を書けば良い。
法螺だとすぐに分かるような設定から入れば、
安心して読んでもらえる。

そういう法螺の吹き方も有る。

しかし、私の法螺の書き方として、
日常のブログの内容を前振りとして、
そこからいつの間にか逸脱する、というのが
ちょいとパターン化していた。



十年の間、ブログを書いている。
毎日書いている。

これは、一見、日記のようである。
しかし、そうでもないんだな。
もちろん日記のような要素も有る。
けれど、実はそうでもない。

日常の中のできごとを書いたり、
こんな物を作ったとか、こんな修繕をしたとかいったことを
よく書く。

その日のことと思う読者も有るが、違う。
多くの場合、何かをしたらその結果を見てから書く。
次の段階に進んで、なんなら最終段階を終えて数日経ってから、書く。



事実の一部分を伏せることで、それは嘘になり得る。
開陳した部分が本当のことであっても、
隠している部分が有ると嘘になってしまう。

政治家や有名人の発言の一部分だけが切り取られて話題になったりする。
似ている。
一部分だけを見ると、意味が変わってしまう。
問題にされている言葉の、直前の文脈、
さらにその発言が出る前のきっかけ、どんな質問に対しての答えだったか、
そこへ至る経緯、そういったものを取り除くと、
まったく違った解釈が付けられてしまう。



それと似ている。

私は確かに、私の日常や、私の考え方や、私の性質などをブログに書いている。
しかし、それは私のほんの一部分である。
ブログの記事になりやすいと思った部分や、
ここの部分をこういう流れで書いたら面白くなると思った部分だけを
書いている。

だから、実際の私とは異なる像が、ブログの上に出来上がっていると思う。

それはそれで良い。
まるで構わない。
す~さんというキャラクターを出しているだけだ。

けれど、実物の私がこのブログの文章そのまんまだと思うと、
こりゃ大間違いなんである。
そうなってくると、「ブログに書いてあることは嘘」という視点も生まれる。



かと言って私はブログに全てを書くつもりは無い。
私の全てを読んで何が面白いんじゃ!?である。

つまり、毎日毎日法螺を書いているようなもんだ。
とも言える。



などと、
ある一つの論旨のために文章を構成する
このことも、一つの嘘を作り出している。
あることを言うために、切り捨てている事柄がたくさん有るからだ。



そうやって、毎日毎日ちょっとづつ嘘を書いているわけだが、
ちょっと過ぎて、私の創作意欲は日々余っている。
それを吐き出すための毎月馬鹿だった。
しかしそこで妙な遠慮が働いてしまって、吐ききれなくなっていた。

吐いたはずなのになんだかちょっと吐き気が残っている。
そんな感じ。
気持ち悪いでしょ~



法螺です作り話です創作ですという前提で読んでもらえる場で
書くのが、お互い健全なのかもしれませんな。

吐くなら吐くで、そこいらに吐かずに
ちゃんとトイレに行くか、洗面器に吐く。
それがゲロ吐く時のマナーっつうもんですね。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« サンスクリット動画 | トップ | 『ここは今から倫理です。』 »

コメントを投稿

毎月馬鹿」カテゴリの最新記事