ある人と会った時に、どうにも気が合わない、と感じた。
言うこと言うことが引っかかる。
イヤな考え方をするなあ、イヤな言い回しをするなあ、
したらいいはずのことをしないなあ、などなど…。
私はその人の、そういう性質を好きになれない、と思った。
けれど、そう考えているうちに、
私は何も、その人のそういう性質を好きになれないのではなく、
自分はそういうふうではありたくないのだ、と気付いた。
こうしたい、こうありたい、逆にああいうことはしたくない、
といったものを、相手の中に見付けているだけだ。
言ってみれば、自分自身のイヤな面を、
自分の中に直接見付けるのは本当にイヤだから、
他人の中に見付けてはイヤがっているのだ。
だから、なにもその人のことがイヤなわけではない。
それだけ、自分の中の「こうありたい」という気持ちが強いのかもしれない。
ブログにだって、しょっちゅうそんなことを書いている。
とにかく、私はその人のことがイヤなのではなく、
その人の中に自分のイヤな面が見えるのがイヤなんだろう。
そういえば、よく似た経験について、書いたことがある。
つづく
言うこと言うことが引っかかる。
イヤな考え方をするなあ、イヤな言い回しをするなあ、
したらいいはずのことをしないなあ、などなど…。
私はその人の、そういう性質を好きになれない、と思った。
けれど、そう考えているうちに、
私は何も、その人のそういう性質を好きになれないのではなく、
自分はそういうふうではありたくないのだ、と気付いた。
こうしたい、こうありたい、逆にああいうことはしたくない、
といったものを、相手の中に見付けているだけだ。
言ってみれば、自分自身のイヤな面を、
自分の中に直接見付けるのは本当にイヤだから、
他人の中に見付けてはイヤがっているのだ。
だから、なにもその人のことがイヤなわけではない。
それだけ、自分の中の「こうありたい」という気持ちが強いのかもしれない。
ブログにだって、しょっちゅうそんなことを書いている。
とにかく、私はその人のことがイヤなのではなく、
その人の中に自分のイヤな面が見えるのがイヤなんだろう。
そういえば、よく似た経験について、書いたことがある。
つづく
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