[あらすじ] 自分フィルターでものごとを解釈して受け止める、ゆがんだ考え方が
うつのもとになる。認知療法でそれを整理すると、生きやすくなる。
[もうひとつのすじ] 私は生物学的には女性だが、性自認は女性ではなく男性でもなく、
恋愛対象は女性。
1年半くらい前に、ブログでカムアウトした。
読んでくれている人と実際に会うと、反応は様々だ。
会っても話題にしない人や、2度目に会うとその話をする人、
自身のことを語る人、関係する経験を話してくれる人、
などなど。
どうであれ、話をすると、その人の受け止め方が分かって、良い。
驚くような受け止め方も、あった。
「どう答えてほしいの?」というもの。
別に、同情して欲しいなんて思っていない。
私は、一見してはわからない事実を伝えているだけだ。
それを受け止めてもらえればいい。
けれど、20代半ばである友人にカムアウトした時、
「小学生の頃からずっと?そっかー、たいへんだったね。」と
ナデナデする身振りをした女性がいた。
それはそれで、ホッとしたものだ。実際、たいへんではあったからだ。
しかし、その人が「たいへんだ」となぜ思うのか、驚きでもあった。
共感の言葉が、どうして出てきたのだろう。
「中学から女子校で、須山はボーイッシュだったから、
男の役割を演じなければならなかったのだろう」
という反応もある。
いいえ違います。男女共学の小学生の頃から、物心ついた頃には
すでに須山はこうでした。
そして、思えば物心つく前から、男女の狭間にいて女性を好きだという
感覚があったように思う。
演じて今がある、というのは大きな誤解で、「女子校」というものに対して
その人が持っているイメージか、あるいは何かその人の体験にもとづいて推測して
私を見ているのじゃなかろうか、と思える。
そんな中、こいつはシンプルだ、と思う反応があった。
「私はひとの言葉はそのまま受け取るようにしている。」
というものだ。
こんなにすっきりした反応も無いもんだ。
「演じてんだろ」も無ければ、「たいへんだったね」も無い。
これこそ、自分フィルターの無い受け止め方だ。
解釈も推測も共感も何も無い。
こんな人が私の一番旧い友人で、自分はとても幸運だとしばしば思う。
うつのもとになる。認知療法でそれを整理すると、生きやすくなる。
[もうひとつのすじ] 私は生物学的には女性だが、性自認は女性ではなく男性でもなく、
恋愛対象は女性。
1年半くらい前に、ブログでカムアウトした。
読んでくれている人と実際に会うと、反応は様々だ。
会っても話題にしない人や、2度目に会うとその話をする人、
自身のことを語る人、関係する経験を話してくれる人、
などなど。
どうであれ、話をすると、その人の受け止め方が分かって、良い。
驚くような受け止め方も、あった。
「どう答えてほしいの?」というもの。
別に、同情して欲しいなんて思っていない。
私は、一見してはわからない事実を伝えているだけだ。
それを受け止めてもらえればいい。
けれど、20代半ばである友人にカムアウトした時、
「小学生の頃からずっと?そっかー、たいへんだったね。」と
ナデナデする身振りをした女性がいた。
それはそれで、ホッとしたものだ。実際、たいへんではあったからだ。
しかし、その人が「たいへんだ」となぜ思うのか、驚きでもあった。
共感の言葉が、どうして出てきたのだろう。
「中学から女子校で、須山はボーイッシュだったから、
男の役割を演じなければならなかったのだろう」
という反応もある。
いいえ違います。男女共学の小学生の頃から、物心ついた頃には
すでに須山はこうでした。
そして、思えば物心つく前から、男女の狭間にいて女性を好きだという
感覚があったように思う。
演じて今がある、というのは大きな誤解で、「女子校」というものに対して
その人が持っているイメージか、あるいは何かその人の体験にもとづいて推測して
私を見ているのじゃなかろうか、と思える。
そんな中、こいつはシンプルだ、と思う反応があった。
「私はひとの言葉はそのまま受け取るようにしている。」
というものだ。
こんなにすっきりした反応も無いもんだ。
「演じてんだろ」も無ければ、「たいへんだったね」も無い。
これこそ、自分フィルターの無い受け止め方だ。
解釈も推測も共感も何も無い。
こんな人が私の一番旧い友人で、自分はとても幸運だとしばしば思う。
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