[あらすじ] 第一次産業の農業革命、18世紀末からの産業革命で
人々は時間のゆとりを得た。
しかし21世紀のIT革命を経て、大衆は多くの時間を
情報の消費に割くようになった。
そして、次に来るのは移動革命だ。
と、識者は言う。
動画も倍速再生で見ようという情報消費社会である。
時間がかかることは効率が悪いと嫌われる。
ということは、時間が有ることが最大の富である。
たくさん有る時間を浪費することが一番反時代的なんである。
道端にしゃがんで蟻んこの行方をずっと見るとか、
土手に寝転んで雲の流れを半日眺めていましたとか、
机の隅をボーッと見ていたら30分経ってたとか、
そんなの億万長者行為である。
さらに、移動革命を目前とした時代である。
目的の無い移動をすることが最も貴族的であると言える。
ビバ不要不急。
鉄道旅行のご趣味の方なんか、貴族である。
どこかへ行くために乗るはずの鉄道に、乗るために乗るのだから。
更に、知人に「降り鉄」の方がおられる。
日本に在る全ての駅で降りているという。
究極の貴族である。
どこかへ行くために鉄道に乗って、目的の駅で降りる。
凡人の所業である。
その駅で降りたいがためにその駅で降りるのである。
論理的に純粋に無目的である。
※
早朝の短時間のバイトを終えて、帰り道。
ちょっと涼しくなったので、バイク(50㏄)で走るのも心地良い。
回り道をして、知らない道を行こう。
と思って走っていたら、高圧線が目に入った。
自宅の近所に小さな変電所が在る。
ここは自宅からバイクで20分足らずの場所だ。
この高圧線に沿って行ったら、家に着くんじゃないだろうか。
いや着くに違いない。
ゴーだ
※
高圧線を辿りながらバイクで街を走るのは、
安全とは言い難いと思った。
視線は上に向きがちだ。
高圧線を辿って行くのは難しい。
道路と無関係に走っているからだ。
中空を行く高圧線は繋がっていても、
地面の道路は川や線路や地形で阻まれている。
角を曲がって曲がって曲がって曲がって、
なるべく高圧線から離れないように近付けるように
道を選んで行く。
もともと、子どもの頃から自転車でこちゃこちゃとあらゆる道を行くことが好きだったので
これは楽しい。
※
数年前、練馬区立美術館で催された、電線絵画の展覧会に行った。
電線というのは風景を損ねてしまう人工物だと思っていたが、
絵画になるということを思い知った。
目に映る景色が一変した。
人の意識を変えるものってスゲエ。
本にしろ、誰かの言葉にしろ、何かの方程式にしろ、
美術展にしろ。
毎朝行くドッグランは、広々とした野原の中に在る。
だから、眺めが広い。
すると、高圧線の鉄塔が何本も見える。
向こうから来て、そこでクイッと曲がって、あっちへ行く。
その線と交差するように、高さの違う電線がそっちからこっちへ走っている。
以前は、広い空の景色を損なう電線だと思っていたが、
その美術展に行った後からは、高圧線込みの景色を美しく見るようになった。
それとまた別に、興味もジワジワと湧いてきていた。
なぜあそこでクイッと曲がっているのか。
わざわざあの地点に寄る必要が有るのか。
というと、そこには小さな変電所が在るのだ。
あっちの路線とこっちの路線は交差しているが、なぜなのか。
流れている電気が違うのか?
立体交差しているけれど、繋がっていないのか?
ここからどこへ行くのか?
どこから来たのか?
疑問を持とうと思えば、
いくらでも湧いてくる。
点景として見過ごしてしまえば、
何も起こらない。
※
まっすぐ帰れば20分ほどのところ、
50分かかった。
上を見たり道路を見たり安全を確認したりで、
けっこう疲れた。
しかし、いつもと全く違う物の見方をしたので、
見過ごしにしていたものがたくさん見えた。
つづく
人々は時間のゆとりを得た。
しかし21世紀のIT革命を経て、大衆は多くの時間を
情報の消費に割くようになった。
そして、次に来るのは移動革命だ。
と、識者は言う。
動画も倍速再生で見ようという情報消費社会である。
時間がかかることは効率が悪いと嫌われる。
ということは、時間が有ることが最大の富である。
たくさん有る時間を浪費することが一番反時代的なんである。
道端にしゃがんで蟻んこの行方をずっと見るとか、
土手に寝転んで雲の流れを半日眺めていましたとか、
机の隅をボーッと見ていたら30分経ってたとか、
そんなの億万長者行為である。
さらに、移動革命を目前とした時代である。
目的の無い移動をすることが最も貴族的であると言える。
ビバ不要不急。
鉄道旅行のご趣味の方なんか、貴族である。
どこかへ行くために乗るはずの鉄道に、乗るために乗るのだから。
更に、知人に「降り鉄」の方がおられる。
日本に在る全ての駅で降りているという。
究極の貴族である。
どこかへ行くために鉄道に乗って、目的の駅で降りる。
凡人の所業である。
その駅で降りたいがためにその駅で降りるのである。
論理的に純粋に無目的である。
※
早朝の短時間のバイトを終えて、帰り道。
ちょっと涼しくなったので、バイク(50㏄)で走るのも心地良い。
回り道をして、知らない道を行こう。
と思って走っていたら、高圧線が目に入った。
自宅の近所に小さな変電所が在る。
ここは自宅からバイクで20分足らずの場所だ。
この高圧線に沿って行ったら、家に着くんじゃないだろうか。
いや着くに違いない。
ゴーだ
※
高圧線を辿りながらバイクで街を走るのは、
安全とは言い難いと思った。
視線は上に向きがちだ。
高圧線を辿って行くのは難しい。
道路と無関係に走っているからだ。
中空を行く高圧線は繋がっていても、
地面の道路は川や線路や地形で阻まれている。
角を曲がって曲がって曲がって曲がって、
なるべく高圧線から離れないように近付けるように
道を選んで行く。
もともと、子どもの頃から自転車でこちゃこちゃとあらゆる道を行くことが好きだったので
これは楽しい。
※
数年前、練馬区立美術館で催された、電線絵画の展覧会に行った。
電線というのは風景を損ねてしまう人工物だと思っていたが、
絵画になるということを思い知った。
目に映る景色が一変した。
人の意識を変えるものってスゲエ。
本にしろ、誰かの言葉にしろ、何かの方程式にしろ、
美術展にしろ。
毎朝行くドッグランは、広々とした野原の中に在る。
だから、眺めが広い。
すると、高圧線の鉄塔が何本も見える。
向こうから来て、そこでクイッと曲がって、あっちへ行く。
その線と交差するように、高さの違う電線がそっちからこっちへ走っている。
以前は、広い空の景色を損なう電線だと思っていたが、
その美術展に行った後からは、高圧線込みの景色を美しく見るようになった。
それとまた別に、興味もジワジワと湧いてきていた。
なぜあそこでクイッと曲がっているのか。
わざわざあの地点に寄る必要が有るのか。
というと、そこには小さな変電所が在るのだ。
あっちの路線とこっちの路線は交差しているが、なぜなのか。
流れている電気が違うのか?
立体交差しているけれど、繋がっていないのか?
ここからどこへ行くのか?
どこから来たのか?
疑問を持とうと思えば、
いくらでも湧いてくる。
点景として見過ごしてしまえば、
何も起こらない。
※
まっすぐ帰れば20分ほどのところ、
50分かかった。
上を見たり道路を見たり安全を確認したりで、
けっこう疲れた。
しかし、いつもと全く違う物の見方をしたので、
見過ごしにしていたものがたくさん見えた。
つづく
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます