5年くらい前だったかにサンスクリットの勉強を始めた。
あんなもん、独学でどこまでも行けるもんでもない。
なんせ何千年のインドの叡智が詰まって溢れてどうかしちゃってるんだから。
東大仏教青年会の講座が、昨年からオンライン化してくれたので、
自宅であれこれを受講できて、非常に助かっている。
インド哲学や仏教学の世界では高名な先生方の講義を、
家でハナクソほじりながら受けられるのだから有難い。
今、私は「サンスクリット中級」と
「チベット仏教入門」と
「インドの古典と仏典を読む会」を受講している。
「サンスクリット中級」では今、原始仏典の一つ、
ウダーナ・ヴァルガの第一章を読んでいる。
「インドの~」では、般若心経と、法華経の一部と、無量寿経の一部と、
根本中頌の一部を読む。
「チベット仏教入門」では、中観派の仏典を読む前に、
仏教の基本的な考えを学んでいる。
あっちの講義で聴いた事をこっちで反復して納得したり、
こっちで謎だった事があっちの先生の解説でほどけたりする。
仏教という括りが有るから、当たり前っちゃ当たり前なんだが、
内容がお互いに補い合う結果になっている。
インドの議論というのは、
何かに対しての反論を中心に進んでいくのだそうだ。
ということは、一つの論を理解しようとしたら、
それは何に対する批判として言われているのか、
先行する主張を知らないと、充分には分からない。
私の大好きな「さかのぼる」必要が出てくる。
私は、仏教にはさほどの興味は無い。
自分の感じていること考えていることと、
重なる部分も多いのだが、異なる部分のほうが気になってしまう。
それに何より、私はいっくら「教わっ」ても、身にならない。
自分の力で考えたり感じたり、身で体験しないことには
自分のものにならない。
だから、「仏教を学ぶ」気はさらさら無い。
こんなに受講しといて何言っとんじゃってところだが。
※
「チベット仏教入門」の講師の先生は、どんどん問いかける。
「私というものは存在するのですか?」
「あなたはどこにいるんですか?」
「体にいるのだとすれば、体のどこにいるんですか?」
「では体が死んだらおしまいですか?」
「魂というものが存在するんですか?」
「では魂はどこにいるんですか?」
「生まれ変わりというのは有りますか?」
当てられた人が、答える。
先生は、「ご自分の考えを言ってください。」と言って
問うているのだが、
「自分の考え」を言える受講生はなかなかいない。
「こう言われている」とか「最近ではこういう研究が」とか
「仏教では」とか「こう教わった」とかいったことを言う人が多い。
※
それでも問われる中で、答えが出てくる。
「私は存在しています。」
「頭だと思います。」
「心臓、胸にいるという感じがします。」
「腸内細菌という研究が有ります。」
「柳田国男の調べでは云々」
「死んだら地獄に行くのかもしれない。」
「私は死ぬのがとっても怖いです。」と言う人もいた。
ただそれだけを言葉にする。
それ以外の自分の考えはうまく言えない。
そういう人が、「チベット仏教入門」を受講するというのは、
何かを求める強い気持ちを感じる。尊いこっちゃ。
※
私が思うこと。
「自分とは頭にいる。思考である。」
思考が自分だと考えていると、病むよ。
「自分とは脳である。」と言うのは、
意識が有ることと自分であることをごっちゃにしていると思う。
※
私が今、思っていること。
この世に私が存在するというのは、
肉体によっている。
「私」という感覚、個人であるという感覚は、
肉体が起こしているものである。
死んだら、肉体は終わる。
そうなったら、「個」という感覚は無くなる。
「個」のもととなっていた肉体が無くなるのだから。
魂が有るとして、それは肉体から離れているので、
個というものに囚われていない。
誰それの魂、というものではない。
なーんかなんとなくみんな魂だよね。って感じ。
生まれ変わるということが有るとして、
それは新たな肉体に意識が備わること。
前世というのは、他の肉体にいた時のこと。
魂には個が無いので、前世と今生が一人の個人としての継続したものであるということは
無いのではないか、
と私は思っている。
※
今生において死んだ経験が無いので、死ぬとどうなるか、知らない。
あるいは、以前に死んだ時のことを憶えていないだけなのかもしれない。
これが正しいとか、事実と異なるとか、それはどうでもいい。
ただ、「私」という「個」の感覚は
肉体という輪郭によって生み出されている、
ということは言えそうな気がする。
あんなもん、独学でどこまでも行けるもんでもない。
なんせ何千年のインドの叡智が詰まって溢れてどうかしちゃってるんだから。
東大仏教青年会の講座が、昨年からオンライン化してくれたので、
自宅であれこれを受講できて、非常に助かっている。
インド哲学や仏教学の世界では高名な先生方の講義を、
家でハナクソほじりながら受けられるのだから有難い。
今、私は「サンスクリット中級」と
「チベット仏教入門」と
「インドの古典と仏典を読む会」を受講している。
「サンスクリット中級」では今、原始仏典の一つ、
ウダーナ・ヴァルガの第一章を読んでいる。
「インドの~」では、般若心経と、法華経の一部と、無量寿経の一部と、
根本中頌の一部を読む。
「チベット仏教入門」では、中観派の仏典を読む前に、
仏教の基本的な考えを学んでいる。
あっちの講義で聴いた事をこっちで反復して納得したり、
こっちで謎だった事があっちの先生の解説でほどけたりする。
仏教という括りが有るから、当たり前っちゃ当たり前なんだが、
内容がお互いに補い合う結果になっている。
インドの議論というのは、
何かに対しての反論を中心に進んでいくのだそうだ。
ということは、一つの論を理解しようとしたら、
それは何に対する批判として言われているのか、
先行する主張を知らないと、充分には分からない。
私の大好きな「さかのぼる」必要が出てくる。
私は、仏教にはさほどの興味は無い。
自分の感じていること考えていることと、
重なる部分も多いのだが、異なる部分のほうが気になってしまう。
それに何より、私はいっくら「教わっ」ても、身にならない。
自分の力で考えたり感じたり、身で体験しないことには
自分のものにならない。
だから、「仏教を学ぶ」気はさらさら無い。
こんなに受講しといて何言っとんじゃってところだが。
※
「チベット仏教入門」の講師の先生は、どんどん問いかける。
「私というものは存在するのですか?」
「あなたはどこにいるんですか?」
「体にいるのだとすれば、体のどこにいるんですか?」
「では体が死んだらおしまいですか?」
「魂というものが存在するんですか?」
「では魂はどこにいるんですか?」
「生まれ変わりというのは有りますか?」
当てられた人が、答える。
先生は、「ご自分の考えを言ってください。」と言って
問うているのだが、
「自分の考え」を言える受講生はなかなかいない。
「こう言われている」とか「最近ではこういう研究が」とか
「仏教では」とか「こう教わった」とかいったことを言う人が多い。
※
それでも問われる中で、答えが出てくる。
「私は存在しています。」
「頭だと思います。」
「心臓、胸にいるという感じがします。」
「腸内細菌という研究が有ります。」
「柳田国男の調べでは云々」
「死んだら地獄に行くのかもしれない。」
「私は死ぬのがとっても怖いです。」と言う人もいた。
ただそれだけを言葉にする。
それ以外の自分の考えはうまく言えない。
そういう人が、「チベット仏教入門」を受講するというのは、
何かを求める強い気持ちを感じる。尊いこっちゃ。
※
私が思うこと。
「自分とは頭にいる。思考である。」
思考が自分だと考えていると、病むよ。
「自分とは脳である。」と言うのは、
意識が有ることと自分であることをごっちゃにしていると思う。
※
私が今、思っていること。
この世に私が存在するというのは、
肉体によっている。
「私」という感覚、個人であるという感覚は、
肉体が起こしているものである。
死んだら、肉体は終わる。
そうなったら、「個」という感覚は無くなる。
「個」のもととなっていた肉体が無くなるのだから。
魂が有るとして、それは肉体から離れているので、
個というものに囚われていない。
誰それの魂、というものではない。
なーんかなんとなくみんな魂だよね。って感じ。
生まれ変わるということが有るとして、
それは新たな肉体に意識が備わること。
前世というのは、他の肉体にいた時のこと。
魂には個が無いので、前世と今生が一人の個人としての継続したものであるということは
無いのではないか、
と私は思っている。
※
今生において死んだ経験が無いので、死ぬとどうなるか、知らない。
あるいは、以前に死んだ時のことを憶えていないだけなのかもしれない。
これが正しいとか、事実と異なるとか、それはどうでもいい。
ただ、「私」という「個」の感覚は
肉体という輪郭によって生み出されている、
ということは言えそうな気がする。
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