犬小屋:す~さんの無祿(ブログ)

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人間として当たり前

2015年02月13日 | 椰子の実の中
言葉の遣い方について、特に、自分の常識で他者のことも
決め付けることの危険さについて、ネチネチ書いてきたのには
理由がある。

産経新聞2月7日のコラムから一部を引く。

 憎しみの連鎖を断たねばならぬ、というご高説は一見もっともらしい。
後藤健二さん自身も数年前、「憎むは人の業にあらず、裁きは神の領域。
-そう教えてくれたのはアラブの兄弟たちだった」とつぶやいている
 だからといって処刑直前も彼はそんな心境だった、とどうして
いえようか。助けにいった湯川遥菜さんが斬首されたときの写真を
持たされ、家族に脅迫メールを送られ、心ならずも犯人側のメッセージを
何度も読まされた後藤さんの心境は想像を絶する
 仇をとってやらねばならぬ、というのは人間として当たり前の話である。


ここだ。
「人間として当たり前」と書くことで、
「そう考えない者は人間ではない」
「仇をとろうと思わないのは非人道的だ」
と言っている。
直接そう言うよりも、読む人にそう受け取らせることで、
より強い表現となっている。

これは戦中の、「非国民」という非難の仕組みとよく似ている。

新聞の一面のコラムである。
社説として受け止められる。
その場で、この表現である。

昨日まで書いてきたように、「当たり前」という言い方には、
他の考え方があることに思いが至らない態度が表れている。

自分の考え方があり、他者の考え方があり、それが接触して議論が起こり、
発展した考え方を作りあげていく。
(ということについては、一年ほど前にねちねちと書いた。↓)
http://blog.goo.ne.jp/su-san43/e/5091acb59dad4054cb7b0771e56559be

議論の場で、様々な立場の者が意見を出し合う。
別の立場からの別の意見があることも理解した上で、
ひとに伝わるように表現する。

このコラムには、そういったスタンスは感じられない。
意見を述べているというよりは、酒場で酔っ払いが勢いで放言しているようだ。
「当たり前」という言葉選びが、それを表している。

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