南側護岸石垣 (長崎県長崎市出島町)
長崎新地中華街を出て、近くにある出島に向かう。
左側が昔は海、右側が出島
長崎電気軌道 本線 1号系統 普通列車 [5000形] (出島-新地中華街)
凵(カン)の字のような経路で、西から南、東へと回り込むように走る路面電車。
出島の中の建物が見えるが、ここは昔の海側で裏側。入口を適当に探す。近くの係員らしき人に観光客らしき若い女性が英語で入口を尋ねている。日本人かと思ったら海外からの観光客のよう。出島の裏辺りから時計回りで表の入口に向かっていたが、女性客は反時計回りで入口に向かった。そっちの方が早かったか。それでも時計回りで入口を目指す。出島の中でこの女性を見掛けたので無事に到着したようである。
史蹟 出島和蘭商館跡 水門 (長崎県長崎市出島町)
寛永18年(1641)に平戸からオランダ商館が出島に移転。安政年間に開国するまで我が国唯一の西欧の窓口となった。この辺りで出島の一部が道路にかかっているそうだが、よく判らなかった。この門は出島の西側にある。
中島川に架かる出島表門橋
かつては海に張り出していた出島と本土とを結ぶ。平成29年に架けられた。130年振りの再架橋。
橋を渡って出島の表門へ…
表門を抜けたところで、
出島内の通りの様子
出島の中に何があるのか予備知識はないので、適当に建物に入ってみる。
旧長崎内外クラブ
最初に明治の建物に入ってしまった。
明治36年の建築。1階はレストラン、見学した2階は居留地時代の展示がされている。
ミニ出島
15分の1の模型が長崎出島之図(川原慶賀画)を参考に再現されている。
旧出島神学校
こちらも明治の建築。
出島教会跡(出島八・九番)
明治八年七月十一日竣工
日本聖公会最初の聖堂である.
明治二十三年五月大村町八・九番地に移築し
その跡に 宣教師館を建てた.
出島聖公会神学校(出島十・十一番)
明治十一年十一月 竣工
ここで 伝道師を養成した.
チャペル.図書室.会議室があつた.
いづれも重要史跡 (碑文より)
明治11年建築。現存する日本最古のキリスト教(プロテスタント)の神学校。
復元された旧石倉の前には…
Holland (・x・)
日本語での国名、オランダ王国はHollandに由来するが、本来は南ホラント州、北ホラント州の地名であり、蘭:Koninkrijk der Nederlanden、英:Kingdom of the Netherlandsとなる。ところでミッフィーとオランダとどういう関係があるのかと思ったら、作者のブルーナさんはオランダの方だった。ミッフィーは英語のMiffyによるが、蘭語ではNijntjeというのを後で知った。
組頭部屋・乙名詰所
江戸期のオランダ商館時代の建物は現存しておらず、これらは復元されたものである。
筆者蘭人部屋
新石倉
拝礼筆者蘭人部屋
中島川側より望む
乙名部屋の様子
料理部屋
水溜
料理部屋で使う水を蓄えた水溜です。17世紀末に出島に滞在したケンベルの『日本誌』によると、生活用水は竹樋で外から導かれましたが、飲み水は水売りから買ったようです。
(説明板より)
カピタン部屋
オランダ商館長(カピタン)の建物はどこかと思ったら、修繕中で気付かずに帰る所だった。
畳の間にテーブルや椅子があるのが何とも。板の間ではいけなかったのだろうか。
涼所
カピタン部屋を描いた絵画の多くには、窓の外に長崎港と停泊するオランダ船が見られます。しかし、カピタン部屋の中で間近に海を望むことができる場所は、この涼所ぐらいでした。建物の中で最も傷みやすい部分でもあり、修理や改築の記録がたびたび見られます。なお、涼所の修理はオランダ側が負担する決まりで、祝典の際にはバルコニーに装飾が施されました。
(説明板より)
オランダ商館員の部屋
畳の間に寝台が置かれているのが異様に思えるが、以前泊まった温泉宿では和室に寝台が入っていたし、実は家でもやっていた。今は寝台で寝るのは旅先のみである。
一番船船長の部屋
19世紀初頭の出島には、夏になるとオランダの貿易船が2隻来航するのが通例でした。そのうち、先に到着する「一番船」の船長が、出航する11月頃まで滞在するのがこの部屋です。船員たちは船で暮らしました。室内には、嘉永4年(1851)に来航したオランダ船船長デ・コーニングの「私の日本滞在記」などを参考に、当時の家具調度類を再現してあります。
(説明板より)
先に外側より見た水門を内側より見る
西側料金所
切符売場があるが閉まっている。現在、出入り口は表門橋からのみとなっいる。
中島川の向こうに観光バスが多数停まっている
サンデンバス(山口県下関市)の姿も見られる。出島内で修学旅行らしき小学校の児童さんを見掛けたが、語尾に「~ちゃ」と言っていたので山口県から来ているんだなと想う。自分もそのくらいの頃に長崎に来られたらよかったが、当時は長崎自動車道はないし、九州自動車道も門司IC-八幡ICは未開通で北九州道路・北九州直方道路(現北九州高速4号線)を経由していた。そもそも山口県内の中国自動車道は部分開通で、山陽自動車道は存在していなかった。自分の修学旅行では関門橋で九州・門司に渡り、関門トンネル(人道)を歩いて本州・下関に戻った。これが最初の九州訪問である。
観光バスが到着すると大勢が表門橋を渡ってゆく…
そろそろ出島を出よう…
江戸期を思わせる建物は復元だが、展示されている資料が多く大変見応えがあった。
表門より出島を出る
いずれも令和4年10月13日撮影
さらに長崎の街を散策する。 (つづく)