旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

トルコ紀行④ ・・・ 現地ガイド フラットさんについて

2009-10-06 21:36:46 | 

 トルコツアーはまだ行程の三分の一を終えたばかりだが、ここで現地日本語ガイドとして全行程を案内してくれたフラットさんについて触れておく。今後の紀行文の中で、度々この名ガイドの言葉や行動を引用することになると思うから。

 本名はシュクリュ・フラット(SUKRU FIRAT)、正確にはSの下にひげがあり、Uにはウムラウト(上に点点)があるので、どのように発音するのか難しい。私は当初「シュクル・フラットと聞こえていたので、「フラットさん、フラットさん・・・」と話し掛けていたが、最終日にもらった名刺を見ると上記の通りフィラットかもしれない、またファーストネイムも、ひげ有りウムラウトありで、とても我々が正確に発音できるものではなかろう。しかしまあ、8日間仲良く出来た。

 イスタンブール大学政経学部で国際関係論を学んだ弱冠33歳のインテリ、独学で日本語を修め来日2回であるが、ほぼ完全な日本語を話す。豊富な語彙(ごい)、諺(ことわざ)を駆使して私たちを楽しませてくれた。たとえば、「・・・子、孫、ひ孫、玄孫(やしゃご)、・・・その次は何か」と問われみんな黙っていると「〇〇〇だ」と言うので「へえー」と感心していると、「この言葉は、いま私が作った」という具合。
 
彼は、トルコの北東の端、黒海に面するリゼと言う町に生まれた。後背地にはノアの箱舟のアララト山や猫で有名なヴァン湖のある地域で、家は山岳地帯から黒海に落ちる45度の急斜面に在ったという。朝起きると母が家畜にえさをやり幼い彼は糞を集めて畑に運ぶ。それから朝食を終え、45度の斜面を一時間半歩いて学校に通った。上りの帰路はそれ以上の時間を要したことは言うまでもない。苦学に負けず、彼はイスタンブール大学に進む。
 
最初の来日は、学内の日本語弁論大会で見事一位に輝いたことによる。そのときのスポンサーが日立であったことから、「日立には感謝している」と話す。約2週間、日立の招きで日本各地を回り、京都と奈良、それに東京では浅草が印象に残ったと言う。

 おばあさんがロシア人、父系はクルド人で、かれは「クルドとロシアの混血」と自己紹介した。ワイフは、その体の大きさと目の鋭さから「・・・怪僧ラスプーチンとは言わないがロシア系だわねえ・・・」と言っていた。
 
その素晴らしい風貌で、彼は自国トルコを誇り高く語り続けた。(続きは次回)
                           


 カッパドキアの洞窟(地下7階建て)にて
 アドベントス大劇場


投票ボタン

blogram投票ボタン