ガラタ塔から物見をした“イスタンブールの中枢”にいよいよ立ち入る。この旅の目玉の一つ、ザ・イスタンブールと言っていいのだろう「アヤ・ソフィア聖堂」、「「トプカプ宮殿」、「ブルー・モスク」がそれである。
わがツアーはこれを逆の順序で見た。(そう見たのだ。つまり観るまでには至らなかった。時間も無く、混雑と旅の疲れが観察を許さなかった) しかし私は、オスマントルコ帝国皇帝スルタン・メフメットⅡ世とその後の帝国の盛衰を、この三つの建造物に追ったので、見た順序と逆に、その印象を書き残していく。
アヤ・ソフィア聖堂は、西暦360年に建てられたというからビザンティン帝国(東ローマ帝国)の建国330年とほぼ歴史を共にする。しかし幾多の内乱で焼失を重ね、現在の建物の原型が作られたのは西暦537年という。爾来、キリスト教会として916年の役割を果たし、1453年、オスマンとルコに降ってモスクに塗り替えられ、イスラムの祈りの場所として482年、1935年より博物館となって現在に至る。
東ローマ帝国の首都として堅ろうを誇ったコンスタンチノープルを、オスマントルコのメフメットⅡ世が攻略した経緯は既に書いた(8月19日)。若干21歳の若き皇帝メフメットⅡ世は、2ヶ月の激闘の末テオドシウスの城壁の一端を破りコンスタンチノープルの町になだれ込み、白馬を駆って町の中央に乗り入れたが、アヤ・ソフィア聖堂の威厳に感動し、馬を下り地に伏して神に祈りをささげたという。
もちろん、その神はキリストの神ではなく、アラーの神・・・。彼は即座に、その聖堂をモスクに改造することを命ずる。ただ、彼は全てを破壊することをしなかった。聖堂内の壁を覆う夥しいキリスト教のモザイクを、漆喰で塗りつぶしはしたが破壊することはしなかった。エルデム・ユジェル著『イスタンブール』にも、「スルタン・メフメットは、イスラム教信者ではない民衆の宗教観念や崇拝にも配慮を示した」(P8)と書いてある。
若き征服者の胸を去来したものは何であったのだろうか? 征服王の名を後世に残し、時に及んで残虐をほしいままにした男の配慮で、われわれは今、漆喰の下から現れた歴史的美術(モザイク)を見ることができるのである。
彼は、自らの名を付すモスクを別に建て、政務、居宅、全ての権力を行使するトプカプ宮殿を別に建てる。アヤ・ソフィアは、文字通り「聖なる智恵」の聖堂として今に残ったである。