昼食を済ましてバスへ乗り込み、途中「福定の“大いちょう”」などを眺めて、初日の山道歩きのとり付き口「道の駅“牛馬童子ふれあいパーキング”」に降り立つ。ここは「大坂本王子」から少し下ったところで、ここから「継桜王子」までの5.3キロが初日の行程。標高差は、ボトムの「近露王子」が標高290m、トップの「継桜王子」が506mで、その差約200mだから、山歩きと言うほどのものでもない。
まず「箸折峠」に向かい、可愛い姿で近時人気が高いといわれる「牛馬童子像」にふれる。この付近から「近露王子」までは、熊野詣のはしりといわれる花山院の悲話にまつわる地域である。
花山天皇(968~1008)はわずか17歳で即位するが19歳で妻を亡くし、加えて藤原兼家などの策謀で1年10ヶ月で皇位を追われ、失意を癒すがために熊野に旅立つ。山道でカヤを折って箸の代わりにした事から、この峠が「箸折峠」と名づけられた。そこに立つ可憐な牛馬童子像は法王花山院の旅姿ともされている。
この峠を越えて眼下に見下ろす「近露の里」は、この行程の中で一番美しい光景であった。熊野の山中にひっそりと暮らす集落・・・しかし、取り囲む山々や、家々の周囲に広がる田畑に何か豊かさを感じさせるものがあった。
心の豊かさを求めて熊野に詣でる・・・、それを迎える熊野は自然の豊かさをも備えていたのであろう。ガイドの小松裕見子先生(熊野語り部の資格者)の次の言葉は心に残る。
「熊野権現はどんな人でも受け入れた。①浄・不浄を問わず、②信・不信を問わず(信仰心の有無を問わない)、③貴・賎を問わず、誰でも受け入れた・・・」
難しいのは①の浄・不浄であるが、これは当時(平安朝)の時代的背景からも女性に多く関わることで、赤不浄(女性の月のさわり)、白不浄(産後の不浄)、黒不浄(死者の穢れ)の三つが問われたが、熊野権現はそのような人の参拝をすべて許したという。
途中から再び降り始めた雨の中を、そのような話を聞きながら「野長瀬一族の墓」、「校庭が全面芝生の小学校」、「比曾原王子」、「とがの木茶屋」と歩き、「野中の一方杉」などが鬱蒼と茂る「継桜王子」に着いた。
最後は「野中の清水」で乾いた喉を潤し、その日の宿「川湯温泉」に向かう。